弁理士法人サトー 所長のブログ

弁理士法人サトーから法改正や事務所の最新情報を提供します。

自動運転のワナ

2017-05-01 13:30:45 | ちょっとひとやすみ

5月に入り、早いところは既にゴールデンウィークに突入したようです。
今年は天気にも恵まれますので、自動車で帰省、ドライブという方も多くいらっしゃることでしょう。

最近では、「自動運転」がトレンドとなり、様々な最新技術が提案されています。
一方で、ちょっと前になりますか、某自動車メーカのディーラーが、ユーザに自動ブレーキで停止するまでブレーキをガマンさせて結果として衝突した、というニュースもありました。
「自動運転」に対する誤解が招いた事故と言えそうです。
今回は、そろそろこの事故のほとぼりも醒めたでしょうから、これに噛み付いてみたいと思います。

現状、自動車会社の技術力では、巷で言う「自動」で自動車を運転する技術は十分に確立していると思います。但し、これは、人間という不安定要素が絡んでいなければということ。例えば、高速道路に自動運転専用レーンを設けて、このレーンに自動運転対応車だけを投入すればほぼ間違いなく自動車同士の事故は防げて自動運転が可能になるでしょう。
しかし、人間(イヌやネコ、ときにはシカやイノシシ、酔っ払いもいるし。)という不安定要素が徘徊する市街地で自動運転を行なうのは限りなく困難だと思いませんか?

そもそも、現状だってみんなが正確に交通ルールを守れば、自動運転なんてなくてもほとんど事故が防げるでしょうし。
結局、今現在、研究されているのは「自動運転技術」ではなく、「運転者負担軽減技術」あるいは「運転支援技術」といえるのではないでしょうか。「車線を逸脱しません」とか、「車庫入れ自動」とか、「自動ブレーキ」とか、どれも「負担軽減」、「支援」であって自動運転ではないと思うのです。

ちょっと昔、ほとんどの自動車の変速機は「マニュアル」でした。シフトレバーをギコギコと速度に合わせて操作していました。そのちょっと前、自動車のガソリンは、インジェクタから噴射されるのではなく、キャブレターを使ってエンジンに供給されていました。ですので、燃料と空気の割合である空燃比は、「チョークレバー」を使って調整していました。子供の頃の自動車には、この「チョークレバー」があって、寒い冬のエンジンスタート時にはお父さんがチョコチョコ操作していました。
さらにその前になると、空燃比だけでなく、エンジンの点火時期も「進角」と「遅角」で操作していました。子供の頃のオートバイには、このレバーが残っていました。
こんな風に、自動車の制御は、40年前と比較してもずいぶん自動化されています。
これらは、いずれも「自動運転技術」ではなく、「負担軽減技術」、「支援技術」なんですね。

変速機の操作が不要になったり、空燃比や点火時期の制御はコンピュータが「自動」で行なってくれているだけでなんですね。
その延長線上で、「危険を察知したらドライバーよりも先にブレーキをかけよう。」とか、「ドライバーよりも先にハンドルを操作しよう。」という技術開発が進み、究極は家から目的地まですべて自動車側で操作しようとなっているわけですね。
あくまでも「負担軽減」、「支援」が目的だと思うのです。

ところで、この世の中、自動で運転できるものってあるのでしょうか。
みなさんご存知の飛行機。これは「自動操縦」が当たり前になり、パイロットはほとんどのケースで機器のオペレータになっています。しかし、この飛行機も、自動で「着陸」はできますが、自動で「離陸」させることはできません。離陸の操作は、パイロットが「手動」で行なうのです。
また、「新幹線」も自動運転ではありません。事故を防止するためのシステムは自動化されていますが、少なくとも「出発」は手動です。
例えば「ゆりかもめ」や「リニモ」のように極めて少数の交通機関で「出発」も「停止」も自動というシステムも存在しますが、実は少数派です。これらも、「軌道」という決められた領域を行き来するからこそ、「自動運転」ができているわけです。

「自動運転」という言葉が一人歩きしているために、ディーラーも勘違いして冒頭に書いたような誤解を招き、事故につながったように思います。
自動車の運転を完全自動化するには、自動車だけでなく、膨大なインフラ整備が必要になると思うのです。
まだまだ「自動運転」は遠いですね。

みなさんも「自動運転」ではなく、「負担軽減」、「支援」として最新技術を利用すれば、GWのドライブも楽しめることと思います。

それでは、安全で楽しいGWをお過ごしください。

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ちょっと気になるJASRAC問題。

2017-02-07 12:10:50 | ちょっとひとやすみ

JASRACが大手の音楽教室から著作権料を徴収するということで、話題が沸騰しています。

JASRACは、概念としては「パテントプール」と似た仕組みです。
著作物(JASRACの場合、「音楽」に限られますね。)は特許などとは異なり、審査や登録を必要としませんので、完成した時点で著作権が発生しています。この著作権について、著作者である「作曲者」や「作詞者」などのクリエイターと、「演奏家」などのユーザーが1つ1つ管理して、毎度毎度の権利の使用許諾をするのは大変な作業です。

「パテントプール」も、テレビやコンピュータなどの数百~数千の特許を個別に実施許諾をするのは大変だから、「パテントプール」会社がそれらの特許権を一括して管理して、利用者に許諾してお金を徴収し、集めたお金をパテントプールに特許権を供出した権利者に分配する仕組みです。この場合、パテントプール会社は、供出した特許権の数に応じて、集めたお金を権利者に分配しています。ですから、たくさんの特許権を供出した企業には、自社が実施しなくても多くの特許使用料が入る仕組みになっています。

ちょっと話がずれました。JASRACも建前では、この「パテントプール」会社と同様に、ユーザからお金を集めて、クリエイターに分配することを行なっています。
ところが、特許などと違って著作物は、いつどこで使用されているかを把握するのは非常に困難です。ちょっとした演奏会やライブなどがあると、どの楽曲が何回利用されたかなんてわかりません。そこで、JASRACでは、包括契約という形でライブの「入場料」や「会場の広さ」などにあわせて、収入の数%程度を著作権使用料としてユーザーから徴収する仕組みになっています。そして集めた使用料を、クリエイターに分配するのがJASRACということです。
但し、この分配が適切に行なわれているかは色々と議論がありますが、今回はそこが気になる点ではありません。

今回気になったのは、ちょっと以前に問題となった、お笑いの「キングコング:西野」氏による絵本の無料開示との世論の整合性です。

「西野」氏は、自作した絵本(これも著作物です。)を、絵本として販売するだけでなくネット上に無料公開しました。西野氏としては、「絵本は子供に与える大切なものだから、ネットで絵本を見てもらって、納得してもらえれば書店で購入してください。」という趣旨だったようです。

この「無料公開」という行為に対して、世の中では「西野が無料でやっていることを理由に他のクリエイターにも無料が強要される。」、その結果として「クリエイターの収入が減少し、新たな創作の意欲が低下する。」として、「絵本文化の裾野が狭まり衰退する。」という論調が多く出されました。
どちらかというと、西野氏による無料公開に対して、ネガティブな意見が多かったようです。

翻って、今回のJASRAC問題。
JASRACは、これまで使用料を求めていなかった音楽教室に対して、使用料を徴収することとしました。JASRACとしては、「音楽教室では先生による演奏が行なわれているので、適切に使用料を支払う必要がある。」といった趣旨です。

この「使用料徴収」という行為に対して、世の中では「使用料が授業料に上乗せされることによって音楽に興味を持つ人が減少し、CDやライブの売上が減少する。」、その結果として「クリエイターの収入が減少し、新たな創作・演奏の意欲が低下する。」として、「音楽文化の裾野が狭まり衰退する。」という論調が多く出されました。

あれれ。

絵本は「無料」によって「文化が衰退」するという論調だったのに、音楽は「有料」によって「文化が衰退」するということ?

先にも挙げたように、JASRACは徴収した使用料をクリエイターに適切に分配しているのかどうかという疑問があるのは確かなのですが、「無料」と「有料」と「文化の盛衰」にはあまり関係がないのかもしれません。
そうすると、今回の問題は、JASRACのあり方、仕組みの作り方に問題が無いかを掘り下げる必要があるのであって、「お金を徴収すること」を問題視するのは道を誤ってしまうような気がします。

結局、世論を「正論」と考えてしまうと、某大統領のように盛大な矛盾が生じることになりますね。
事務所をはじめ会社の経営も同じかもしれません。

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AIの脅威

2016-08-03 12:03:10 | ちょっとひとやすみ

ブログの更新が進んでいません。
ネタはほどほどに用意しているのですが、文章にする時間がなくてつい放置してしまっています。
昨日は、訪問者が「3」という屈辱的な状況になっています。

いいわけはこのあたりで。

最近、自動車の自動運転から発展してAI(人工知能)の未来が色々と語られています。
弁理士が作成する「明細書」も、いずれAIに取って代わられるのではないか、特許事務所の仕事はなくなるのではないか、といった脅威論が多いようです。

ところで、AI。これって記憶が確かであれば、10~15年ほど前にもブームになっていませんでしたっけ。あらゆる電化製品にAIが組み込まれ、「ご飯がおいしく炊けますよ。」とか、「クーラーの温度が快適になりますよ。」とか。
確かにそれらの機器にAIが組み込まれ、ご飯がおいしくなったり、空調が快適になったりしたのでしょうが、いつの間にかそれが当たり前になって誰もAIのおかげとは思わなくなってきているのではないでしょうか。結局、慣れてしまうと、AIそのものを意識しなくなってしまうようです。

そうなると、今回のAIブームも、いつの間にか当たり前となって、AIを意識せずに私たちの生活に溶け込んでしまうだけではないのでしょうかね。
AIも人格だと考えると、「やけに合理的かつ的確な判断をする『AIさん』が入社して、仕事が捗るようになったよ。」といった感じで、ちょっと変わった人が傍にいるような感じになるんじゃないでしょうか。

もちろん、「AIさん」は仕事が的確かつ素早く、文句も言わず働いてくれるでしょうから、うかうかしていると仕事を奪われる人が出てくるのかもしれませんが、上手につきあえば、あたかも一個人のように接することができるかも。

そして、「AIさん」のおかげで手が空いた人は、新しい仕事を見つける、という新たな循環がはじまるのではないでしょうか。

ちょっとバラ色過ぎるのかもしれませんが、人と同等のスペックを持つ「AIさん」だったら、結局人と同じように付き合っていくだけのような気がします。

但し、「AIさん」が人を超えて、指導者的立場になったとき、世界は変わるかもしれませんね。
でも、今(に限らず過去も)の世界の指導者(AIではなく『人』ですね。)を見ていると「メンツ」、「ミエ」、「カネ」といった「欲望」に取り憑かれて争っているわけですから、もしかしたら「AIさん」の方が合理的で平和的に物事を解決していくのかもしれません。

もちろん、「AIさん」に「欲望」を植え付けるかどうかは、プログラムする「人」に委ねられているのですが。


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知財コスト???

2016-06-01 10:40:56 | ちょっとひとやすみ

あっという間に6月です。
サトー国際特許事務所では、GW明けからクールビズを採用しております。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

さて、今日のテーマは、「知財コスト」。
知財業界では、当たり前のように「知財コスト」という言葉が使われていますが、とても違和感があります。

特許などの知的財産の権利取得や維持のために、代理人である弁理士や特許庁に支払うお金のトータルを「知財コスト」と呼んでいるのでしょうが、これって正しいのでしょうか?

知的財産は、特許権、実用新案権、意匠権、商標権という「権利」です。この「権利」を取得するために必要なお金を「コスト」と考えるのはちょっとヘンではないでしょうか。

世の中、「基本的人権」、「参政権」、「日照権」、「債権」といったようにたくさんの「権利」があります。そして、知的財産権も、これらの「権利」の一つにすぎません。
歴史的に考えると、「基本的人権」や「参政権」を獲得するために、絶対権力に対して市民は蜂起し、多くの血や涙を流した引き替えに、これらの「権利」を獲得しました。この市民が流した多くの血や涙は「コスト」なのでしょうか。
他にも、「日照権」を得るためにも、裁判を起こして「権利」を取得することもあるでしょうが、このための訴訟費用を「日照コスト」なんていいませんよね。

このように権利を取得するためには、金銭に限らず、血や涙などその引き替えとして何らかの代償が必要なわけですから、これを「コスト」と呼ぶのは違うような気がします。確かに、出願人から見ると、弁理士の費用は「コスト」にしか見えないのでしょうが、知的財産権は他の権利と違って表現一つで権利範囲が変化するという特異性を有しています。そうなると、より強力で安定した権利を取得するためには、自分で権利範囲を策定するよりも能力の高い弁理士に依頼した方がよい結果をもたらすことは言うまでもありません。
ですから、この弁理士へ支払う金銭は、「コスト」ではなく、価値ある権利を創造するための代償(投資)なのです。
この「知財コスト」という言葉が使われ出してから、「知財」も牛丼や衣類と同様に「安いほどよい」という風潮が一部にあるようですが、安くて強い権利を取得しようという甘い考えが通用しないのはどの世界も同じですよね。

このような面からも「知財」は将来事業体を支える権利を取得するための「投資」であって、「コスト」ではないということに気づいて欲しいですね。

反面、「貴社の知財コストの低減に貢献します!!」と、弁理士が「知財コスト」という言葉を使っているのも事実なのですが・・・。

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三菱自動車による燃費データ不正から思い出したこと

2016-04-21 13:19:45 | ちょっとひとやすみ

お久しぶりです。
気を抜くとあっという間に20日がたっていました。

まずは、九州熊本で続いている地震に触れなくてはいけません。
私も九州出身ですので最初は何事かと目・耳を疑いました。今でも、「本当なの?」と受け入れられない気持ちが半分です。幸い、熊本からは離れた地元の佐賀では、大きな影響はなかったようです。
とにかく早く地震活動が収まり、復旧へ向けた取り組みが進むことを祈るばかりです。

さて、話は変わって。
世間では三菱自動車による燃費データの不正がニュースになっています。弁理士として、この不正そのものに何か言及することはなかなか難しいので、ここは燃費というモノについてこぼれ話を。

名古屋の特許事務所の場合、自動車関係を扱っているところは多いと思います。そして、自動車関係の特許出願の中でも、「燃費」に関わる技術は数多くあることでしょう。
フォルクスワーゲン事件の際にも触れましたが、自動車の燃費性能は、自動車を欲するユーザにおいて、車種を決定する大きな要素です。動力性能やデザインよりも、燃費性能が優先する場合もあります。
つまり、燃費性能が売上に直結しているということです。
そうなると、技術者だけでなく自動車会社の全体に、「何とか燃費性能を上げなくては。」という意識が生まれ、燃費不正という悪魔のササヤキが聞こえてくるのも無理はないのかもしれません。

こんな背景もあり、車両を開発する技術者は、できる限り燃費性能をあげることが求められています。
それでも、エンジン単体では画期的な発想の余地は小さく、すでにハードウェアでの燃費性能は飽和状態です。そこで、車両全体の性能やソフトウェアを駆使して燃費性能を上げる工夫をしています。

そんな中、仕事柄、燃費について研究している技術者と話しをすることもあるわけですが、興味深い話が。

技術者:1リットルあたり0.1kmでも燃費がよくなるようにギリギリのところで身を削るような工夫をしている。でもね、燃費なんて運転者の運転の仕方一つで1リットルあたり1kmや2kmくらいはすぐ変わるんですよ。

つまり、現在では、燃費性能は運転者のマインドという究極のソフトウェアに委ねられているわけです。

どんなに燃費性能が優秀な自動車でも、急加速・急減速を繰り返すような運転をすると、燃費なんてあっという間に低下します。
技術者の努力に応えられるインテリジェントな運転をしたいものですね。

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