今回は、ちょっとした問題提起です。
今朝の日経新聞の社会面に、「新人弁護士かすむ未来」という記事がありました。その記事には、司法試験をパスしたにもかかわらず、生活もままならない弁護士の話が載っていました。
さて、問題となっている司法制度改革は、司法試験3000人/年の大量合格を目指しただけでなく、私たち弁理士の世界にも大きな影響を与えました。比較的大きな影響があったのは、「知財高裁」の設置や、弁理士が特定侵害訴訟で代理人ができるようになった、ことでしょうか。
とはいえ、知財高裁が設置されてもいろんな背景で知財訴訟は激減し、特定侵害訴訟で代理人となる場面もほとんどありません。今思えば「絵に描いた餅」です。
まあ弁理士が受けた影響はさておき、本題の3000人/年合格による犠牲者の話です。
司法試験に合格すると、判事や検事となる資格を得るのですが、判事や検事の定員は改革の前後でほとんど変わりませんので、この大量に合格した司法試験合格者の多くは弁護士になるわけです。
この大量の弁護士を生み出す論理構成は、「日本でも、欧米(特にUS)と同様に潜在的な訴訟需要があるにもかかわらず、弁護士が不足しているから需要に応えられていない。」とか、「弁護士費用が高いので訴訟に踏み切れないから、弁護士が増えると競争で価格が下がるので訴訟が増える。」といったものだったように思います。
反面、弁護士の急増によって質が低下するのではという懸念に対しては、「質の低い弁護士は競争によって経済原理で淘汰される」ということで、懸念に及ばないというものだったような。
要するに、日本の弁護士も、欧米(特にUS)と同じように競争原理を導入することで、高止まりしている弁護士費用の低減と、切磋琢磨による質の向上が図られる、というバラ色の構想でした。
結果は冒頭の通りです。それでも、当時、US的な市場経済的競争主義を標榜していた方々は、これは競争によって生じた淘汰であって、適正な競争が行なわれた結果だと反論するでしょう。
ところが、この競争によって犠牲となったのは、淘汰された弁護士だけなのでしょうか?
大量の合格によって、不幸なことに弁護士として資質に欠ける方も合格者に含まれていたことでしょう。この資質に欠ける弁護士は、淘汰されるまで仕事を続けます。その間の顧客は、やっぱり犠牲者ではないでしょうか。
最近の議論を見ていると、司法試験の合格者を3000人/年から1500人/年に削減するとか、食えない弁護士の救済のような視点での改革ばかりが目立つ気がします。これに対して、これまで大量に市場に出回った「食えない弁護士」によって割を食ったユーザの視点は欠けているように思えてなりません。
今のところ「弁護士」、「会計士」、「弁理士」といった士業ばかりに焦点が当たっていますが、これを「医師」と置き換えると、国家資格の意義は競争とは違う形での淘汰を設計すべきように思うのですが。
今、医師不足を賄うために医療制度改革で医学部定員の増加がすすめられているようですが、人の命を扱う医師は士業以上に「倫理感」や「滅私奉公」が求められると思います。これを市場原理に晒すのが本当に正しい「競争」なのでしょうかね。
司法制度改革の当時、声高に「市場原理」、「競争社会」、「自己責任」を叫んでいた当事者は現在の状況を、やっぱり「負けた方が悪い」、「見る目がない」と思っているのでしょうかね。
あ、誤解のないように言っておきますが、僕自身は、競争を否定しませんし、護送船団・ぬるま湯体質の業界はいずれ社会からはじかれると思っています。ですから競争に晒される側の保護を強化しろという気はないのですが、この競争の結果で割を食ったユーザを救済する制度はあってもいいのではないかと思うのです。
今朝の日経新聞の社会面に、「新人弁護士かすむ未来」という記事がありました。その記事には、司法試験をパスしたにもかかわらず、生活もままならない弁護士の話が載っていました。
さて、問題となっている司法制度改革は、司法試験3000人/年の大量合格を目指しただけでなく、私たち弁理士の世界にも大きな影響を与えました。比較的大きな影響があったのは、「知財高裁」の設置や、弁理士が特定侵害訴訟で代理人ができるようになった、ことでしょうか。
とはいえ、知財高裁が設置されてもいろんな背景で知財訴訟は激減し、特定侵害訴訟で代理人となる場面もほとんどありません。今思えば「絵に描いた餅」です。
まあ弁理士が受けた影響はさておき、本題の3000人/年合格による犠牲者の話です。
司法試験に合格すると、判事や検事となる資格を得るのですが、判事や検事の定員は改革の前後でほとんど変わりませんので、この大量に合格した司法試験合格者の多くは弁護士になるわけです。
この大量の弁護士を生み出す論理構成は、「日本でも、欧米(特にUS)と同様に潜在的な訴訟需要があるにもかかわらず、弁護士が不足しているから需要に応えられていない。」とか、「弁護士費用が高いので訴訟に踏み切れないから、弁護士が増えると競争で価格が下がるので訴訟が増える。」といったものだったように思います。
反面、弁護士の急増によって質が低下するのではという懸念に対しては、「質の低い弁護士は競争によって経済原理で淘汰される」ということで、懸念に及ばないというものだったような。
要するに、日本の弁護士も、欧米(特にUS)と同じように競争原理を導入することで、高止まりしている弁護士費用の低減と、切磋琢磨による質の向上が図られる、というバラ色の構想でした。
結果は冒頭の通りです。それでも、当時、US的な市場経済的競争主義を標榜していた方々は、これは競争によって生じた淘汰であって、適正な競争が行なわれた結果だと反論するでしょう。
ところが、この競争によって犠牲となったのは、淘汰された弁護士だけなのでしょうか?
大量の合格によって、不幸なことに弁護士として資質に欠ける方も合格者に含まれていたことでしょう。この資質に欠ける弁護士は、淘汰されるまで仕事を続けます。その間の顧客は、やっぱり犠牲者ではないでしょうか。
最近の議論を見ていると、司法試験の合格者を3000人/年から1500人/年に削減するとか、食えない弁護士の救済のような視点での改革ばかりが目立つ気がします。これに対して、これまで大量に市場に出回った「食えない弁護士」によって割を食ったユーザの視点は欠けているように思えてなりません。
今のところ「弁護士」、「会計士」、「弁理士」といった士業ばかりに焦点が当たっていますが、これを「医師」と置き換えると、国家資格の意義は競争とは違う形での淘汰を設計すべきように思うのですが。
今、医師不足を賄うために医療制度改革で医学部定員の増加がすすめられているようですが、人の命を扱う医師は士業以上に「倫理感」や「滅私奉公」が求められると思います。これを市場原理に晒すのが本当に正しい「競争」なのでしょうかね。
司法制度改革の当時、声高に「市場原理」、「競争社会」、「自己責任」を叫んでいた当事者は現在の状況を、やっぱり「負けた方が悪い」、「見る目がない」と思っているのでしょうかね。
あ、誤解のないように言っておきますが、僕自身は、競争を否定しませんし、護送船団・ぬるま湯体質の業界はいずれ社会からはじかれると思っています。ですから競争に晒される側の保護を強化しろという気はないのですが、この競争の結果で割を食ったユーザを救済する制度はあってもいいのではないかと思うのです。