私がよく聞いているpodcastの番組のゲストで神永曉さんが登場していて、その時のお話がなかなか面白かったので、そこで取り上げられていた著作を手に取ってみました。
日本を代表する国語辞典の編集者である神永さんが、現代に見られる日本語のさまざまな誤用・変容の実態を取り上げ解説してくれます。
さて、本書を読んでみての気づきですが、予想どおり、私もたくさんの間違った理解や誤った使い方をしていました。
例えば、“君子豹変”。
(p82より引用) 「君子とは、徳行のそなわった人、学識、人格ともにすぐれていて立派な人のこと。「豹変」とはヒョウの毛が季節によって抜け替わり、斑文も美しくなるということで、このヒョウの毛が抜け替わるように、君子は時代の変化に適応して自己を変革するという意だという。
すなわち、本来の意味は、君子はあやまちを改めて善に移るのがきわめてはっきりしている、君子はすぐにあやまちを改めるという意味になる(「日本国語大辞典』)。 ところが、「豹変」は元来善い方に変わる意であったにもかかわらず、悪い方に変わるという意味が生じてしまう。
これには驚きました。私も、すっかり“悪く変わる”との意味で理解していましたが、ここはやはり出典の「易経」に拠るべきでしょうね。
もうひとつ、“「全然」の使い方”。
(p152より引用) 「全然」は否定の言い方でなければならないという根拠は歴史的に見ると存在しないのである。
「全然」の本来の意味は、「残るところなくすべて」という意味で、古くは後に定·否定どちらの表現も使われていたのである。
学校では、「全然+否定形」と教わった記憶があって、正誤問題での出題の常連のように思っていたのですが、実はそれ自体、古くからの用例をみると間違っていたのですね。ちょっと意外でした。
私が、本書で紹介された「本来の意味・用法」と異なる理解をしていたものとしては、その他にも「姑息」「にやける(若気る)」「憮然」「谷」「松竹梅」・・・、と数え上げればきりがありません。
ただ、ここまで本来の意味や用法と異なる形で世間で常用されている“実態”があると、「正しい」ものに拘泥するのも悩ましいところですね。
神永さんも指摘しているように、言葉も未来永劫不変というわけではなく、その使い方が変化していくことは当然ではあります。どこまで容認し、どこからは是正するか、この線引きの一端を「辞書の編纂作業」が担っているのですね。
私たちとしては、そういった日本語の変化に“確信犯”として追随していければと思います。(ちなみに、この“確信犯”の使い方も「確信犯」です)
読もう読もうと思っていてなかなか手を付けられなかった本です。あまりに有名な著作で「何をいまさら」といった感がありますが、それでもやはり見逃せないでしょう。
壮大なテーマを扱った著作ですが、幸いにも「プロローグ」の中に、本書での立論の要約が語られていました。
(上p35より引用) 著者というものは、分厚い著書をたったの一文で要約するように、ジャーナリストから求められる。
本書についていえば、つぎのような要約となる ―「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」
さて、このプロローグ以降、本論では興味深い論考がなされていくのですが、その中でもとりわけ私の関心を惹いたところを書き留めておきます。
まずは、著者の関心の中核にある「世界の富とパワーの地域格差」の発生要因に関する考察です。ポイントは「食料生産」にありました。
(上p148より引用) 食料生産を他の地域に先んじてはじめた人びとは、他の地域の人たちより一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩みだしたのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者間の絶えざる衝突につながっているのである。
そして、地域によって「食料生産開始時期の差」が生じた要因については、こう解説しています。
(上p231より引用) 栽培可能な野生種の分布状況は地域によって異なり、それに呼応して自然発生的に食料生産がはじまった年代も地城によって異なり、農耕に適した肥沃な地域のなかには近代になるまで食料生産が独自にはじまらなかった地域もありえた。
世界史において大きなトピックとして、1492年コロンブスの新大陸「発見」を契機としたヨーロッパ人の進出があります。当時から新大陸の住民は旧大陸の人々よりも劣後の位置にありました。「アメリカ大陸の先住民はなぜ、旧大陸の住民に征服されたのか。なぜ、その逆は起こらなかったのか。」、その要因は、「人」そのものにはありませんでした。
(下p240より引用) 食料生産をスタートするタイミング自体が遅かったこと、そして家畜化できたり栽培化できたりする野生動植物の種類が限られていたことに加えて、地理的要因や生態的要因が大きなさまたげとなって、南北アメリカ大陸では主要な発明や、技術や、作物や、家畜といったものが迅速に拡散しなかった。これに対して、東西方向に横長な陸塊であるユーラシア大陸では、緯度や生態系のちがいをまたぐことなく、さまざまなものが各地に拡散していけた。ところが、南北方向に縦長で、とりわけバナマのあたりでぎゅっとくびれている南北アメリカ大陸は、砂漠やジャングルによっても地理的に分断されていた。そのため、食料の生産に適した地域や、人が密集して生活できる地域がユーラシア大陸のように広くつづいていなかった。
さて、本書を読み通しての感想です。
正直、説明が重複していたり冗長であったりしているところが少々気にはなりましたが、1万3,000年に及ぶ時間のスコープにして「ひとつの大きなテーマ」を軸に俯瞰しつつも細部を詰め可能な限り数値化しながら検証していくプロセスはとても刺激的でした。
確かに読み始めると興味が尽きない意欲的な著作ですね。
著者の立川談春さんは、言わずと知れた立川談志師匠のお弟子さん、その前座時代のエピソードを綴ったエッセイです。
談春さん本人の失敗談・苦労談はもちろん、兄弟弟子連中をネタにした取って置きの話もこれでもかと紹介されていますが、やはり期待どおりの談志師匠に纏わる話も満載です。
その中で、(失礼ながら)ちょっと私が意外に思ったのが、談志師匠の「弟子の育成」に対する取り組み姿勢でした。
(p69より引用) 後年、酔った談志は云った。
「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん、と思うことがあるんだ」
お辞儀の仕方、扇子の置き方、話始めるときの視線の向け先・・・、そして、一話ずつ、談春さんへの談志師匠の稽古はとても丁寧でした。
(p73より引用) 現在の自分がこのエピソードを振り返って感じる立川談志の凄さは、次の一点に尽きる。
相手の進歩に合わせながら教える。
見事なまでに“真っ当な姿勢”です。
さらに、談春さんたち前座4人が「二ツ目」試験に合格したとき、談志師匠が彼らに語ったお祝いの台詞の一節も振るっていました。
(p202より引用) いいか、談志のところでニツ目になったということは、他のニツ目とはモノが違うんだ。それはブライドを持っていい。これからお前達は世の中へ向かって落語を語り込んでゆくんだ。決して落語だけを愛する観客達の趣味の対象になるんじゃねェ。
ちなみに、先の「稽古」の話が後の「柳家小さん師匠」とのエピソードにつながっていきます。
真打昇進試験を兼ねた会のゲストとして小さん師匠を招いたときでした。
(p278より引用) 「今日は何の根多を演るんだ」
「蒟蒻問答です」
「そうか」
と云うと、小さん師匠は、いきなり蒟蒻問答を演りはじめた。一席終わると、大事な部分をもう一度演ってくれる。そして最後にもう一度、頭から演ってくれた。
心底驚いた。隣で花緑もビックリしている。まさか小さん師匠から稽古をつけてもらえるとは思わなかった。
そしてもうひとつ驚いたことがあった。 稽古の仕方、進め方が談志とそっくりだったのである。小さんが談志に教えたものを、同じ教え方で談春は教わってたんだ。
談春の芸には間違いなく、柳家小さんの血が流れていたんだ…。
そう実感できたら、何故かたまらなくなった。
わざわざ面白いネタを探さなくても、日々の前座暮らしの中に飛び切りの話題が山積していたとはいえ、それなりの文才がなければ一冊の本に整えることは一筋縄ではいかないでしょう。
立川流を旗揚げした談志師匠の心意気と、それに心酔した談春さんたち若き弟子たちの劇画のような暮らしざまが、怒涛のごとくに伝わってくるエッセイでした。
以前、茂木健一郎さんの著作はかなり集中して読んだことがあるのですが、このところちょっと離れていました。
本書は昨今話題の「AI」がテーマになっているとのことなので、久しぶりに手に取ってみました。
人工知能/人工意識についての入門書的な本とのことですが、茂木さんの考察・立論の中から押さえておきたい説明や指摘を覚えとして書き留めておきます。
まずは、「人工知能の最適化」におけるポイントについて。
(p73より引用) 生物では、ハチからチンパンジーまで、ある課題についてトレーニングを受けても、「正答率」は100%には至らず、80%程度にとどまることが多い。・・・
人工知能の研究の過程でも、似たような報告がなされている。・・・
ある課題がある時に、その正答率を敢えて「100%」にしないで、「80%程度」に抑えることの意味は、そうすることによって、予想外のこと、文脈から外れたことに対しても適応する余地を持つことができるからである。 ・・・
もし、正答率を100%にしてしまうと、環境の変化に適応できなかったり、予期せぬ 偶然の幸運に出会う「セレンディビティ」(Serendipity)を逃すことにつながってしまうかもしれない。
ある特定の文脈で100%の正答率を達成するシステムは、かえって「過剰適応」になって、柔軟に多様な状況に適応する「遊び」のようなものを持てなくなる。これは、生命活動全般に普遍的に成り立つ原理であるが、人工知能研究からも似たような結論が出てくるのが興味深い。
次に「意識」について。
本書のタイトルは「人工知能」ではなく「人工意識」です。“意識”が中核テーマなので、議論を始める基本として「意識の定義」を明確にすることは最初に取り掛かることだと思うのですが、その点について茂木さんはこう語ります。
(p90より引用) そもそも、意識 (consciousness)とは何か。 意識について議論をする際に、その「定義」をして欲しいというような要求を受けることがある。しかし、そのような問い、それに基づくやりとりは多くの場合、無益である。「クオリア」(qualia)についても同様である。「クオリアとは、赤の赤らしさ、水の冷たさなど、私たちの意識的感覚を特徴づける質感である」と言えば、それに尽きている。それではわからないという人に言葉をあれこれ変えて言っても無駄である。無益な時間が流れるだけだ。
とのことですが、少々「入門書」の書き方としては乱暴な印象を受けました。
もちろん、
(p107より引用) クオリアと志向性は、それぞれ、意識の持つもっとも基本的な性質である。クオリアが、外界の事物をさまざまな質感を通して表象するのに対して、志向性は、自分の意識が何ものかに向けられている状態を指す。
(p112より引用) 意識は、脳内の情報を「私」という主体の枠組みの中で共有するメカニズムをつくっていると考えられる。
つまり、 意識は、脳全体の情報処理を、「私」という枠組みの中で統合していくのである。
(p279より引用) 意識は、ある選択をする際にそれぞれの選択肢を導いた「評価関数」の詳細を参照せず、むしろそのような個々の「事情」や「理屈」を超えた、「全体」を見渡して最終的な判断をする。そのことによって、選択が安定する。このような「統合された並列性」に基づく安定化メカニズムが、意識の重要な役割の一つである。
といったように、このあとあれこれと「意識の性質」や「意識の機能」については解説していますが、これもなかなか難解で私の頭では追いついていけません。
事程左様に、本書で展開されている議論は、正直なところかなり理解しづらいものでした。当然その最大の原因は私自身の基礎的な知識や理解力の欠如にあるのですが、それでも部分的にはすっと腹に落ちる解説もありました。
代表的なものが「自動運転と倫理」に関する説明です。
(p270より引用) 人工知能は、何をどれくらい優先するかという「評価関数」が与えられなければその運転制御ができない。・・・
将来、自動運転技術が進み、人間の手を介さない完全自動運転が実現したとしても、その人工知能が何を優先させるべきかというアルゴリズムの具体的な内容が開示されるべきか否かという問題もある。
自動運転車が、どのようなアルゴリズムで運行されているのかが明らかにならないままに、都市の中の通りを走り、自動運転車に私たちの安全と命を委ねることになるのは受け入れにくい。しかし、だからと言って、自動運転車がどのようなアルゴリズムで、何を優先させて走っているのかが明らかになってしまうことも、人間には耐え難いだろう。
このくだりの前後には具体的な事象例がいくつも示されていたこともあり、この説明ぐらいですね、何とか茂木さんのロジックについて行けたのは。
本書で展開されている議論を辿っていくためには、「意識」という概念の理解が不可欠なのですが、私の場合、そこに至っていないのが致命的です。以前の茂木さんの本に登場していた「クオリア」はともかく、本書で頻出する「志向性」「身体性」の意味するところがどうもきちんと頭に入ってきませんでした。
そういった今後に続く“理解すべき課題”を明らかにしてくれるという点で、本書はまさに優れた「入門書」だったということですね。