(マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」におけるヴェーバーのひとつの主張は、以下のようなものです。
(p79より引用) 主観的に魂の救済を求めて、宗教的な救済へと向かっていく激しい情熱が、意図せざる形で客観的に、社会的・経済的・政治的な秩序の形成に向かっていく。そのズレこそが、人類のあらゆる歴史過程において重要な意味をもつ。
「国富論」におけるアダム・スミスは、別のコンテクストで「意図せざる結果」に言及しています。
(p80より引用) 社会的な公共的善と秩序は、・・・道徳的意志の結果として初めて生まれるのではなく、むしろ、主観的には利己的な行為の「意図せざる結果」としてもたらされる。スミスが「見えざる手」の働きと述べたのは、まさしくこのことでした。
しかしながら、同じく「意図せざる結果」を論点として取り上げながらも、両者の主張内容は大きく異なります。
後者の代表選手としては、スミスに加え、ヘーゲルやマルクスをあげています。
彼らの主張は以下のようなものです。
(p81より引用) スミスやヘーゲルやマルクスにとって、「意図せざる結果」という論理は、主観的な動機にかかわらず、あるいはイデオロギーとしての道徳性に関わりなしに、客観的な脈絡を主観の外側に生んでいく社会的メカニズムを捉えたものに他なりません。こうして、主観的世界の外側に生まれてくる客観的な過程を捉えるところに近代の社会科学が成立する・・・
主観的立場から「意図せざる結果」であることは、主観に左右されない「客観的プロセス」が厳として存在するという考え方でしょう。
主観的にどう思おうとその意図どおりにはならない、予めある結果が導きだされるように社会のメカニズムが稼働でしているという世界観です。
まさに、国富論でアダム・スミスが示した立論-利己的に自分の利益の極大化を求めて起こす行動が、(意図せざる結果として)社会的な富の極大化という結果を達成してしまう-が分かりやすい例示です。
他方、ヴェーバーの理解は対極的です。
ヴェーバーは、(あえて簡略化して言えば、)文字通り「想定外の結果」を生ずるかもしれないという「運命性」を中心においていました。
(p81より引用) ヴェーバーが改革者たちの事業から生じた「予期せざる結果」「意図せざる結果」と言うときの脈絡は、近代社会科学の認識を可能にしたというような肯定的な意味をもつのではなく、まさしくそれとは逆に、人間の歴史の本源的な不確実性を示す運命性として語られています。
ヴェーバーは、近代合理主義を万能なものとして支持したのではなく、むしろ運命性を前提をした「ペシミスティックなもの」として捉えていたのです。
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