本書は、西田哲学の入門書としては最適との評があるようですが、そもそもの哲学的素養がない私には、荷が重すぎました。
ただ、その中で、わずかながらでも論旨が頭にはいったのが、第三章後半の「善行為」の具体的言及の部分です。
まずは、西田氏の言う「善」の定義です。
(p180より引用) 意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-realizationであるということができる。・・・
ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。・・・
また一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。・・・即ち自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。
さらに、「善とは人格の実現」であると続きます。
(p189より引用) 善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。
西田氏は、もう少し具体的な「善の内容」を以下のように説明します。
ここでは「個人的善」が立論の対象となっています。
(p195より引用) 従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるものであろうと思う。・・・余は、自分の本分を忘れ徒らに他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
もちろん「個人的・・・」といっても、その意味するところは基礎的なところで社会性を有するものです。個人も社会の1細胞であるとの考えが、その底流に流れているようです。
(p196より引用) しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘ということである。個人主義はこれと正反対である。・・・また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会とはいわれぬ。
本書は、百科事典の解説によると「発売当初は一部の学者の注目をひいたのみであったが、倉田百三の随筆集『愛と認識との出発』(1921)で紹介され、一躍、哲学、文学青年たちの愛読書となった」とのこと。
第一章、第二章あたりの記述からは、本書が多くの読者を得たとは信じ難いのですが、第三章のあたりでは、少しはさもあらんと感じられるくだりが見られます。
たとえば、
(p199より引用) 我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。
また、こういう言い様。
(p205‐206より引用) 世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。・・・いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。
こういった言い回しだと、頭にはいってくるのですが・・・
善の研究 (岩波文庫) 価格:¥ 693(税込) 発売日:1979-01 |
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