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西田哲学入門編? (善の研究(西田幾多郎))

2008-02-22 19:46:55 | 本と雑誌

Nishida_kitaro_2  西田幾多郎氏(1870~1945)は、明治・大正・昭和期の哲学者で、いわゆる京都学派の指導的存在として有名です。
 その西田氏が30歳代に記した、金沢第四高等学校における講義の草案がこの「善の研究」です。

 今回は、参加しているセミナーでの必読書に指定されたので読んでみました。
 以前にも日本哲学系の本は何冊か手にとったことはあり、本書もいつか読んでみようとは思っていたのですが、残念ながら、再び三度、撃沈です。

 「善」の話に至るまでの第一章から第三章の前半あたりまでは、正直、私の頭の中では全く咀嚼できませんでした。西田氏の立論は、内外の哲学思想のエッセンスを紹介しつつ、かなり論理的に構築されているのですが、如何せん、私の理解力がついていけませんでした。

 という状況なので、(理解しているか否かはともかく、)私の覚えとしたいフレーズを、順不同で以下に記すことにします。

 まずは、基本概念の「純粋経験」の定義です。

 
(p13より引用) 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。

 
 哲学的意味における「真理」について。
 「真理」は、具体的・直接的な事実であるがゆえに「個人的」なものであるとの論、また、科学的に認められている「真理」は、(哲学的な意味では)真理とはいえないとの指摘は、私にとっては新鮮でした。

 
(p46より引用) 余は最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。・・・真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実が凡ての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられた者である。・・・完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。

 
 このあたり、「哲学からみた科学(物理学)の位置づけ」については、以下のようなフレーズも見られます。

 
(p87より引用) 一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかのようにいっているが、こは説明の便宜上に設けられた仮定であって、かくの如き考は恰も空間に極限があるというと同じく、ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れていたのである。

 
 また、真理から個人という流れは、「情意」と「個人」との関係というテーマでも、以下のような言いようで登場します。

 
(p77より引用) 我々が個人なる者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接体験の事実である。

 
 西田哲学の基本概念は「純粋経験」であり、唯一の実在は「意識現象」であると説きます。

 
(p67より引用) 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

 
 別々の概念と思われるものでも、それは「一のものの二面である」、「見る方向・見る視座が異なるだけだ」との論は、そこここで展開されています。

 
(p137より引用) 行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである。

 

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