いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによるルポルタージュです。
「格差」「分断」が際立つ今日、この本が取り上げた人々の姿は、私たちが知らなくてはならないこと、しっかりと目を向けなくてはならないものばかりですね。
今の社会には、こういった“分断や差別”の実態を「知る」方法は数多くあります。それだけに、それらの場に提供され私たちが見聞きできる情報は “玉石混交” です。事実もあれば、フェイクもあります。
ネット社会になって、テレビ・新聞といった旧来型の「マスコミ」はその存在意義が問われていますが、雑誌やネットを舞台にした「フリージャーナリスト」と自ら称する人々も、また様々です。さらに、様々な意図をもった人々も情報提供者・情報拡散者として登場しています。
こういった新たな社会環境のもと、“分断や差別”に目を向ける「メディア」の姿勢について、安田さんはこう語っています。
(p156より引用) 私たちメディアはいつも、差別の矛先を向けられた側に「どう思うのか」と言葉を求めがちだ。もちろん、その声を大切に報じることも時に必要だろう。ただ、差別は社会的マイノリティ自身の問題ではなく、マジョリティの態度がどう変わっていくかの問題だ。マイノリティの声を消費し続けるのではなく、マジョリティ自らが変わっていくための報道が、益々求められているのではないだろうか。
この点、私も言われるまで、この「視座の転換」「ウェイトの逆転」の重要性に気づきませんでした。なぜこんな“基本的な立ち位置”を意識できなかったのか・・・、情けない限りです。
それでも、差別される側にあるカメルーン出身の星野ルネさんからは、こんな前向きな言葉もありました。
(p183より引用) 「自分の言ってること、やっていることが、相手に与える影響がよく分かってないケースもあると思うんです。それを急に〝お前、差別主義者だ"って言われるとびっくりしちゃいますよね。その一歩手前で情報共有すれば、〝ああ、こういうことはあんまり言わない方がいいんだな"って考えられるし、受ける側も〝悪意があって言ってる人ばっかりじゃないんだな"って分かる。そうやってお互いちょっとずつ、クッションを持てるんじゃないかと思うんです」
んんん・・・、こういった態度は本来、私たちからとるべきなんですね。
そして、本書の最後の章は「なぜ、その命は奪われたのか? ウィシュマさんの生きた軌跡をたどって」。2021年3月6日、名古屋出入国在留管理局の収容施設で来日していたスリランカ人ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が亡くなりました。
(p283より引用) 国際機関から受けてきた数々の指摘を、入管庁が振り返り検証した形跡はない。
「最終報告書」の中でも、入管のいびつな収容のあり方を端的に表しているのが、ウィシュマさんの仮放免を不許可にした理由だ。《一度、仮放免を不許可にして立場を理解させ、強く帰国を説得する必要あり》などという記載があるが、指宿弁護士は憤りをもってこう指摘する。「長期収容による身体的、精神的苦痛を与えて、意思を変えさせ、国に帰らせることを"何が悪いのか"と開き直っていますが、これは拷問です」。同じく遺族代理人を務める髙橋済弁護士も、「閉じ込めて音を上げさせて帰らせる、というマインドから抜け出さない限りは、日本社会は“先進国”と肩を並べるような状況にはたどり着けないでしょう」と続けた。
この悲劇的な事件については、書き留めておくべきことはそれこそ山ほどあります。
何をどう考えればこんな行動を為そうという気になるのか、いったいどんな神経で人に対してこんな仕打ちができるのか、何を守るために起こったことを隠し葬り去ろうとするのか・・・。名古屋入管は決して許すことのできない “異界”でした。
これに類する実態は、名古屋入管だけにとどまらず、今の社会機構のなかの様々な場面に根強く残っています。根本は、人ひとりひとりの「心」「意識」の問題ですが、そこに踏み込まないまでも、「社会規範(法律等)」の変更で少しでも改善することはできるはずです。
ただ、その法改正も「改正すべき」「改正しよう」という“人間の意思” が起動しなくては実現しない、結局は詰まるところ「意識」の問題に立ち戻ってしまう、このジレンマが悩ましいのです。
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