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長いポジティブリスト (欲ばり過ぎるニッポンの教育(苅谷剛彦・増田ユリヤ)

2007-05-05 22:54:43 | 本と雑誌

 苅谷氏の著作は、「知的複眼思考法」「教えることの復権」「考えあう技術」等、以前も何冊か読みましたが、今回の本はストレートに「日本の教育論」です。

 教育テーマを得意とするジャーナリストの増田ユリア氏との対談を中心に、両氏のレポートで構成されています。

 いくつか興味深い議論があったのですが、まずは、小学校における「英語教育」の是非についての苅谷氏の主張です。

(p46より引用) 僕が小学校で英語を必修化するのに反対なのは、さっき言ったポジティブリストがすでに長くなっている中にさらに英語を入れたら、必ずはみ出すものがあるのに、はみ出すものを何にするかという議論をしないまま、英語を入れたほうがいいという、そういう議論の仕方に、反対しているんです。・・・

 ちなみに、ここでいうポジティブリストとは、「こんなふうにできたらいいな」という項目を書き出したものです。

 苅谷氏は、このように「議論のプロセス」を問題視するとともに、もうひとつ「現実」という大事な視点からも意見しています。

(p47より引用) 少なくとも、現在の日本の小学校のカリキュラムの中で英語を入れたら、失敗するでしょう。ひとつに英語をちゃんと教えられる人がいないんですから。・・・
 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入ようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。できるかできないかわからないものを、全国一律に入れろ、なんて話をしたら、これは失敗します。

 To Beを目指すという姿勢は間違っていないのですが、現実の制約条件を十分勘案して「総合的に実現性や有効性を判断する」という至極当然の検討が蔑ろになっているという主張です。

 もうひとつ。

 以前の苅谷氏の著書(「知的複眼思考法」等)では、「正解信仰」を問題視していました。その主張は正しいと思いますが、最近の教育環境を見るにつけ、苅谷氏自身、シニカルな見解を披瀝しています。

 以前の詰め込み教育期、いわゆる「正解信仰」のころの子どもは、実は、世の中を生きていくうえでぶつかる問題には正解がひとつだとは思っていなかったのではないかと、苅谷氏は考え始めているのです。
 むしろ最近の子どもの方が、「自分の意志で自由に選択しているかのように思わせられているのではないか」との仮説です。

(p78より引用) ところが、世の中全体でプログラム化が進んで、あたかも自分で選んだかのようにして育ってしまった子は、ちょっとでも依存できる対象が欠けたときには、不安でしようがなくなる。一見正解を教え込まれていないはずの子どもたちのほうが依存性が出てきてしまうとしたら皮肉な結果です。

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