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徒然草 (兼好・島内 裕子)

2012-05-06 08:33:59 | 本と雑誌

Yoshida_kenko_2  ちょっと前に鴨長明の「方丈記」を読んだので、今度は、兼好の「徒然草」です。

(p17より引用) 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

 冒頭の一節はあまりにも有名です。高校の古文のテキストでもお馴染みですね。ただ、当時は、部分的にいくつかの段を読んだだけなので、今回は全段読み通すことにしました。

 さて、その中から、ちょっと気になったくだりのご紹介です。
 まずは、第十三段。兼好が、自らの「読書」について語ったくだりです。

(p41より引用) 一人、燈火の下に、文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる。
 文は、『文選』の哀れなる巻々、『白氏の文集』、『老子』の言葉、『南華の篇』。この国の博士どもの書ける物も、古のは、哀れなる事、多かり。

兼好は読書人でもあり、当代一流の歌人でもありました。

 「徒然」という状態は、兼好にとって理想的な生きる姿でもあったようです。第七十五段では、こう語っています。

(p156より引用) 徒然侘ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人有るのみこそ良けれ。・・・
 いまだ、真の道を知らずとも、縁を離れて身を静かにし、事に与らずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。

世俗的な関わりから離れ、雑事に紛れることなく、ひとり静かに暮らすことが人生を楽しむということだ、兼好の望む様です。

 とはいえ、徒然なるままに無為に時間を過ごすことを賞賛ばかりはしていません。第百八段では、今を生きることの大切さをこう説いています。

(p214より引用) 一日の中に、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇、幾何ならぬ中に、無益の事を成し、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて一生を送る、最も愚かなり。

無益のことにこだわりを持つのは、「自己を知らない」ことに起因します。自己を知らないと際限のない欲望を抱くことになります。

(p259より引用) 貪る事の止まざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。

第百三十四段で示した兼好の命題は、「生きられる時間」の貴重さを改めて強く認識させるものです。その貴重な時間の過ごし方について、第百八十八段でも具体的な例を挙げつつ、重ねて語っています。

(p366より引用) されば、一生の中、旨とあらまほしからん事の中に、いづれか勝ると良く思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。・・・
 京に住む人、急ぎて東山に用有りて、既に行き着きたりとも、西山に行きて、その益、増さるべき事を思ひ得たらば、門より帰りて、西山へ行くべきなり。・・・一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。これを、恐るべし。

 徒然草を読み通してみると、改めて、そのテーマ・着眼・文体等の多彩さに驚かされます。
 「・・・、いとをかし」といった枕草子然としたものもあれば、宮廷の有職故実を「実務的なタッチ」で書き置いたものもあります。もちろん、「無常観」に立脚した人生訓的なものもあれば、兼好の身近に起こった出来事をそれこそ「そこはかとなく」書き綴ったものもあります。

 最後に、教科書的ではないものとして、私の印象に残った一節を書き留めておきます。
 第二百三十六段、舞台は丹波亀岡の神社、その本殿前の獅子と狛犬が背中合わせに置かれていました。聖海上人は、何か由緒があるのだろうと大いに感動し、神官に尋ねたところ・・・。

(p448より引用) 「その事に候。さがなき童どもの、仕りける、奇怪に候ふ事なり」とて、差し寄りて、据ゑ直して、去にければ、上人の感涙、徒らに成りにけり。

 落語のマクラにでも使われそうな1シーンですね。


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