黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

桐生城主の事、並びに家中騒動の事・その1

2024-07-11 20:03:22 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、一日中おうち犬です。

昼ごろには雨が止み、薄日が差してきました

外のサークルにお昼ごはん(おやつ)を用意して、リード付きで、何とか帰りました。

でも、食べ終わるとブルブル震えだし、また「アタチ挟まってまふ」をしそうです

サークルの隙間から脱走を試みそうです

しかたなく居間のガラス戸を開けて、サークルのドアを開けます。

迷うことなく居間に飛び込み、めでたく一日中室内犬です。

 

『桐生老談記』を読み始めたころ、2019年の4月のひめちゃんきょうだいです。

獅子丸は、まだ実家に帰っていません。

でも、朝晩養家に迎えに行って、みんなでお散歩していました。

楽しかったね

 

 

 


『桐生老談記』最初の話は、「桐生城主の事、並びに家中騒動の事」です。

あれ、見出しでは、「桐生家中騒動の事、付けたり、落城の事」でした

このように見出しとは違う表現が何カ所もあります。

もしかしたら、推敲途中だったかも


まあ、本文を少しずつ引用しながら、検討していきましょう



桐生城主の事、並びに家中騒動の事

桐生柄杓山の城主、桐生大炊之介藤原の祐綱とて百三十騎の大将なり。先祖は天津児屋根の尊二十一世の孫、大織冠鎌足十八世の後胤、田原藤太秀郷の末流、桐生小太郎綱元の後孫、国綱入道人西との七男(代)の末子(孫)、左京亮元義世継ぎこれなくに依りて、野州佐野住佐野安房守国綱二男、治郎豊綱を乞い受け、名跡を継がしむ。
祐綱迄是より七代なり。数代繁昌にたりと言えども、また祐綱世継ぎこれなきに依りて、佐野宗綱の舎弟、又治(次)郎親綱を乞い請く。即ち付け人として、津布子(久)常陸之介嫡子刑部左衛門、茂木、新居、前原左衛門、同与四郎、山越出羽、是らを召し連れ、天文十一壬寅四月二日、桐生へ移る。家督相続なる所に、永禄十三年庚午(元亀元年)五月二十八日、祐綱五十九歳にて卒す。誠に天弁のならいとはいいながら皆々袖をしぼりける。

この部分の主人公は、桐生祐綱です。
桐生氏は藤原秀郷の子孫です

桐生小太郎綱元が、桐生氏の初代ということですね
「桐生小太郎綱元の後孫、国綱入道人西との七男(代)の末子(孫)」、ちょっと正確に読み取りにくいです

まあ、ちょっと除けておいて、問題は「左京亮元義」です。
彼に世継ぎが無かった
そこで、下野国佐野安房守国綱二男、治郎豊綱を養子にして跡を継がせた。
彼から七代目が祐綱(すけつな)です。

祐綱にも世継ぎがなかった
そこで、また佐野から、佐野宗綱の弟親綱を養子を迎えた。
親綱は、天文十一壬寅(みずのえとら、1542)四月二日、津布子(久)常陸之介嫡子刑部左衛門、茂木、新居、前原左衛門、同与四郎、山越出羽といった人々を連れて桐生にやって来た

やがて親綱は家督相続し、祐綱は永禄十三年庚午(元亀元年1570)五月二十八日に59歳で亡くなります。
みんなが涙を流しました

 

祐綱が永禄十三年(1570)に59歳で亡くなったという事から逆算すると、親綱を養子に迎えたときは31歳といことになります
世継ぎができないと決めつけるには、少々早いように思われます



この桐生氏が実は佐野氏だったことを数年前に、桐生氏累代の墓のある西方寺(桐生市梅田町)で行われた講演会で聞きました。
木彫阿弥陀如来像の胎内に「大旦那佐野大炊之助助綱」と書いた墨書があったということです


桐生姓ではなく、佐野姓なのです
戦国時代桐生を支配していたのは、佐野氏なのです


桐生佐野氏については諸説あるようですけど、ウィキペディアに黒田基樹の推定による歴代当主があります。

(佐野帯刀左衛門尉・佐野盛綱の叔父)

1、桐生直綱(大炊助・周防守・桐生氏初代)

2、桐生某(黒田は重綱と推測、息は本家の下野佐野氏の養子となった佐野秀綱)

3、桐生助綱(佐野秀綱次男、実名が確定できる桐生佐野氏唯一の人物)

4、桐生直綱(大炊助)

5、桐生重綱(又次郎、同族佐野正綱の子で婿養子、親綱とも)

6、(桐生又次郎)


桐生助綱が、実名が確定できる桐生佐野氏唯一の人物とは
桐生佐野氏についても、本当はよくわからないようです


現在、桐生市では、「新編桐生市史」の編纂が行われているということです。

期待しましょう

 

(つづく)

 

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 2019.04.03

改稿 2024.07.11

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生老談記の世界

2024-07-08 21:45:38 | 桐生老談記の世界

暑い暑い一日でした。

午後6時過ぎのお散歩になりました。

16歳になったタバサねーちゃんは、そこらまでのちい散歩でもしっかり用を足します。

ひめちゃんは、南の方の中学校付近までにいつも通りのコースです。

 

5年前の2019年の7月、七海ママがいます

獅子丸は実家に帰って1ヶ月です。

三四郎おじちゃんのレインコートを着ました

実のママがいたので、7年ぶりの実家になじみやすかったのです。

ひめちゃんも、彼を自然に受け入れていました。

 

 

 

山上保の物語総集編、あちこちのカテゴリーに散らばった記事の収集続きます

 

平行して「桐生老談記の世界」の記事も総集編です。

2019年は、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」で『桐生老談記』を読んでました

ちょっと遠いカテゴリーですけど、新里の山上も桐生市になってしまったことだし、再読しておきましょう

 

 

『桐生老談記』という本があります。


平成6年に、藤沼博氏の原文の復刻と読み下しが、桐生市立図書館によって刊行されました
平成27年の日付入りの領収書が挟まっていたので、ちょっとツンドクが過ぎました
現在は在庫切れのようです
やはりしっかり読まなくては



この本の中に、山上氏の姿はないようですけど、膳氏は何度も登場しています
膳氏については、(勢多郡)『粕川村史』にも、ほとんど記録がありません
膳城そばの粕川歴史民俗資料館にも、簡単な表示だけです

老談記という軍記物が事実かどうかは別問題ですけど、しばらくじっくり読んで行きたいと思います。

見出しの項目が27あります。
まずは、見出しの確認です



1、桐生家中騒動の事、付けたり、落城の事

2、里見系図の事、付けたり、各条の事

3、桐生取り立て由来の事

4、由良、長尾会合の事、付けたり、水論注進の事

5、桐生家中、帰り忠の事

6、桐生、細川を滅ぼすの事

7、膳、桐生合戦の事、付けたり、両家縁談の事

8、成繁公、桐生へ入部の事、付けたり、寺社の事

9、高津戸城、取り立ての事、同落城の事

10、越後勢、到着の事、付けたり、石原への夜討ちの事

11、成繁公逝去の事、付けたり、葬送の事

12、国繁公、立腹の事

13、松嶋使者の事、付けたり、水死の事

14、桐生、新田勢揃えの事、付けたり、使者討ち死の事

15、黒川評定の事、付けたり、和睦の使者の事

16、奈良坂合戦の事

17、新田、早撃ちの事、和睦調うの事

18、松嶋式部、沼田へ行く事、付けたり、越後勢、小俣攻めの事

19、小俣城主の事、付けたり、、越後勢、小俣攻めの事

20、膳備中守討ち死にの事、渡良瀬満水、越後勢、水死の事」

21、新田より小俣へ加勢の事、小田原へ早撃ちの事

22、渋川勢揃い、並びに出陣の事

23、膳一旗評定の事、付けたり、財宝配分の事

24、長尾、飛駒責めの事、同落城の事

25、佐野宗綱短気の事、付けたり、出陣の事

26、宗綱、討ち死に前裏、付けたり、家中友軍の事

27、山中、久留川城主阿久沢、松嶋が事

 

原本には番号は付いていませんけれど、整理しやすいようにとりあえず番号を付けました

膳さん、けっこう出ています

あくまでも見出しですので、本文中では表現が異なっている箇所もけっこうあります

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善・山上之事の謎(改訂版)

2024-07-03 20:09:43 | 山上保の物語・総集編

暑い一日でした

夕方のお散歩は、6時過ぎにやっと始めました

 

善さんが討ち死にしたという暗闇沢、その供養塔という五輪等群の写真を探していて見つけた、元気なひめちゃん家族です

お昼に、サツマイモ入りご飯を食べる獅子くんです

獅子くん、サツマイモも大好きだったね

 

 

 

由良文書「善・山上之事」をじっくり読んでみて、いくつかの謎を感じます
まず前半、由良成繁の曾祖父・横瀬成繁の時代の話です


根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、

管領馬廻衆とありますが、馬廻衆とは親衛隊のようなものだから、いつも管領様の近くにいなければなりませんね。

名目だけかな?

ほかにも馬廻衆がいそうだけど

なぜいつも善・山上とセットなのでしょう
普通に考えれば、兄弟のように近い親戚かな


南北朝期に、葛塚を領していた太田さんは、鎌倉幕府の実務官僚・三善氏の一族でした
三善が善になったのだとよく言われますが、太田さんが善に住んで善さんになったのでしょう

勢多郡粕川村の『粕川村誌』にも、善さんの記録はほとんどありません


太田さんがやって来た時、「おらっちは古りーウチなんだから」と言うことを聞かない一族(遺乱の輩)がいました
太田さんは、この違乱の輩を吸収合併してしまったのだと思われます
よくある手で、嫁や婿・養子を送り込むのです
古い山上の名字は残しておく方が都合が良かったのです

佐野大炊助先祖周防守と永禄10年(1567)にこの文書で言ってますから、(桐生)佐野氏の永禄10年の当主は佐野大炊助です。

この佐野大炊助の先祖周防守に、善さん山上さんは、元々居た山上の地を逐われたのです。
善さん山上さんは、五十子(いかっこ)にに3年間滞在し、由良さんがさらに奥沢と名付けられた地で戦い勝利してから、3年間番兵をおいて守らせ安心して名字の地に帰ることが出来ました。
えェ、合計6年じゃん
6年経って帰ってきた善さん山上さんを、人々は歓迎したでしょうか
五十子の陣は長禄3年(1451)に築かれ、文明9年(1479)に長尾景春の乱で攻撃されて焼亡します。
善さん山上さんは、長禄3年(1451)から文明9年(1479)の間のある時期に6年、五十子にいた事になります。
五十子の陣約20年の歴史の3分の1、いたのです


横瀬成繁は葛塚を取り返し、さらに奥沢と名付けられた土地で佐野周防守を破って3年間番兵を置いて守らせてから、善さん・山上さんを名字の地に還したという事ですが、ここで問題があります。

このころ彼は、まだ岩松氏の被官にすぎなかったはずだし?

ひ孫の由良成繁には少し昔の話です
勘違いとか、記憶が違いがなきにしもあらずです
また、意図的な創作も完全否定は出来ないでしょう
ここまでは、ちょっと検討の余地有りの記述です

先に見た赤堀文書「赤堀上野介宛上杉顕定書状」は、長享2年(1488)ですから、善さん山上さんは善・山上に帰っているはずです。
でも、佐野周防守を撃退した主力ではありませんでした
赤堀さんの応援がなければ、また逐われたかもしれなかったのです


それにしても佐野周防守、よく葛塚にやって来ますよね
佐野周防守が善さん山上さんを追い出した時は、奥沢にはいかなかったのでしょうか?
横瀬成繁は葛塚を取り返して、さらに奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)で戦い勝利を得るのです。


奥沢ではなく、奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)という表現がとても気になります
奥沢は早川の水源です
水がわき出る環境が注目され、命名されたかもしれません
戦いの場所ははどこか分かりませんが、寺や石造物のある所は可能性がありそうです

 

後半です。


以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯  


この部分の出来事は、ほぼその通りだと思います。
永禄10年(1567)、佐野に行く上杉謙信を裏切って善さん・山上さんは北条氏邦の所に駆け込みました
北条方になったはずです
ところが、元亀3年(1572)、下野小俣城(おまたじょう)の戦いで善城主善宗次は暗闇沢(くらみざわ)で討死します

 

暗闇沢は「くらみざわ」と読むんだそうです。

 

現地のおばさんに教わりました。
暗闇沢の西、桐生川の東にも桐生市があるのです

(かつては下野国だったようですけど



北条方の渋川義勝が小田原にいっている留守を狙っての攻撃でした。
善宗次の案内で暗闇沢から攻めのぼった上杉軍は、折からの暴風の中、城から落とした大岩や丸太の下敷きになって甚大な被害を受けました
この戦で、善宗次とその家中は討ち死にしたといいます


その供養塔という五輪等群が、暗闇沢の東南にある米沢薬師(足利市小俣町)にあります


住宅街の路地を入ったところにあり、ちょっと見つけにくいです。


道を教えてくれた地元のおじさんの話によると、かつては縁日には賑わったそうです
坊さんは、鶏足寺から来ていたそうです


このお堂の右手にある五輪塔群がそうです。




善さん山上さんは、永禄10年(1567)に、北条氏邦のところに駆け込んで北条方になったはずでした。
いつ心変わりしたのでしょう?
もちろんいつもセットの山上さんも一緒に心変わりしたはずです。
ところが、この時、山上さんについては何も語られません
山上さんはどうしたのでしょう?
今までの経緯から考えれば、当然運命を共にしているはずです。

老談記の類では、山上道及や山上氏秀などの活躍が語られます。

でも、これまでの経緯からすれば、善・山上は常にセットです

単独行動はあり得ないのです

 

上野国・山上(こうずけのくにやまがみ)が、人々にロマンを抱かせる地で、江戸時代になって、善さんが忘れられて、山上氏が物語の中でひとり活躍するようになったのでしょう。

今でも、全国から山上さんが父祖の地として訪ねてくるそうです

 

善氏・山上氏はセットのです

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする