黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上植木の建長石仏

2022-08-24 15:05:20 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田の田んぼを歩きます。

2人の足は自然とケンくんちにむかいます。

ケンくん、いるかな?

ケンくん、気づいて出てきてくれました

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、シッポをフリフリご挨拶です

やっと逢えたね

また来るよ、バイバイ

 

 

 

 

『中世仏教思想史研究』(家永三郎 昭和51年改訂増補⒍刷 宝蔵館)の中の「金沢文庫本念仏往生伝考」によれば、

昭和八年十一月六日、鎌倉時代の念仏往生傳が熊原政男氏により金沢文庫で発見された。倭綴二折十四葉、凡そ十七八次詰七行書鈔本で、中間と首尾とを欠く残闕本に過ぎないが、これまで全く知られていなかった貴重な新資料であった。

『念仏往生伝』は、昭和8年に金沢文庫で発見されたのです。

本書は鎌倉時代の往生譚として現存する唯一のものであって、その点でも史家にとり貴重な文献と云わなければなるまい。またこの書が上野国という東国僻遠の地で著されてゐることも、文化史的に興味深い事実である。

 

現存する鎌倉時代唯一の往生譚が、東国僻遠の地・上野国山上で生み出されたのです。

では、その『念仏往生伝』の構成を確認です

(欠)
第廿四 (欠)嵯峨の正信房湛空
第廿五 禅門寂如
第廿六 武蔵国吉田郷尼
第廿七 上野国淵名荘波志江市小中次太郎母
第廿八 同国赤堀紀内男
第廿九 同国同所懸入道
第三十 同所毒島尼
(欠)

第卅四 上野国山上周辺の往生者
第卅五 信濃国小田切四郎滋野遠平
第卅六 伊豆御山尼妙真坊
第卅七 武蔵国阿保比丘尼
第卅八 比丘尼青蓮
(欠)

第四十五 遠江国禅勝坊
第四十六 上野国大胡小四郎秀村
第四十七 同国細井尼
第四十八 小松新左衛門尉国頼
第四十九 摂津国井戸庄小野左衛門親光〈法名成仏〉
(欠)

(テキストは、日本思想体系 『往生伝 法華験記』 岩波書店1974 )


往生の時期の確認

 宝治2年(1248)11月5日   信濃国小田切四郎滋野遠平

建長元年(1249)閏12月22日 上野国赤堀紀内男

建長3年(1251)6月2日    上野国赤堀懸入道

          9月8日    武蔵国比丘に青蓮

建長5年(1253)7月23日   嵯峨正信房湛空

          11月11日  吉田郷尼

建長6年(1254)5月23日   上野国山上周辺の念仏往生者

正嘉2年(1258)        遠江国禅勝坊

正元元年(1259)10月5日   上野国大胡小四郎秀村

文応元年(1260)夏       同国細井尼

弘長2年(1262)7月23日   小松新左衛門尉国頼

 

 

建長年間が多いですね

新編浄土宗大辞典によると、行仙上人の没年は弘安元年(1276)です。

往生の日がわかる最後は、小松国頼の弘長2年(1262)7月23日です。

あと16年、行仙さんは生きました。

もしかしたら、100人くらいの往生伝だったかな?

 

 

伊勢崎市上植木に、この建長年間(1249年~1256年)に建立された石仏群があります

改元が激しい時代に、ちょっとだけ長い年号です。

そして、上野国山上で記された『念仏往生伝』に、何人かの人が念仏往生している年号です

もしかしたら『念仏往生伝』の記憶かも

一昨年の2月、訪問しました。

 

 

住所・上植木本町996-5をナビに入れて出発です。

個人のお宅のような門柱に、「上植木建長石仏」の文字があります。

入っていいのかな?

ためらいながら車を乗り入れて、到着です。

振り返って門柱です。

 

駐車スペースもしっかりあります

こんにちは

 

説明板も、ちゃんとあります

右側の背面に建長三年(1251)の銘があるのですね

700年以上の歳月、人々を見守ってきたのですね

合掌です

 

 

隣に馬頭観音とお馬の親子です。

この親子に起こった出来事の碑があります。

かなりの要約です。

けがをした子馬を置いて、ママさん馬はご主人とお仕事に行きました。

子馬にお乳をあげたいママが綱をかみ切っておうちに戻ろうとしました。

その時、運悪く電車がやって来て、ママは電車にひかれてしまいました。

 

同行のおじさん、ウルウルです

 

歌があるのですね。

おじさん、さらにウルウルです

 

 

佐韋の花園(佐位郡の語源)です。

百合は古くは早由里ともいわれ、もっと昔はただ「佐韋」とも呼ばれた。粕川はかつて佐位川とも呼んで白百合が多く乱れ咲いていた。明治29年迄は、広瀬川より東は佐位郡と呼ばれその語源は佐位からとったもので、百合の郷であった。

そうだったんですか

 

上植木廃寺跡の礎石もあります。

そういえば、上植木廃寺跡も近くです。

上植木廃寺には、新里の雷電山付近にあった瓦工房の瓦が、使われたといいます

雷電山には、『念仏往生伝』の編者・行仙上人が居たかも知れないのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2 コメント

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Unknown (形名)
2022-08-30 05:17:24
建長三年の石仏はもちろん大事ですが、私には
檜前部君の氏寺といわれる上植木廃寺跡の痕跡が
礎石だけで、それも時代の異なる石仏と一緒に
放置されているのを見ると悲しいですね。笑

上植木廃寺跡は農業ハウスが並んでるだけで何も
残ってないんですよね。道端に看板があるだけだったような。
佐位郡の正倉跡も比較的近かったと思うのですが、
何か展示されているのかな?
返信する
Unknown (samanthahomami)
2022-08-31 20:13:03
こんばんは。
お久しぶりです。
伊勢崎には平成の大合併前には市立の歴史資料館はなかったと思います。本来ならば、市立の歴史資料館に置くべきものでしょうね。ここは、地域の歴史を大切に思う個人のお宅の敷地内のようです。
確か上植木廃寺跡は説明板が道ばたにあるだけでしたね。
佐位郡正倉跡は未だ訪問してませんけど、近くですね。何か資料があるとすれば、合併して伊勢崎市立になった赤堀歴史民俗資料館ですね。
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