ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

自閉症ガイドブック 完成

2012年03月10日 16時54分11秒 | コンケン 第9特別教育センター


    

印刷会社から受けとった製本済みのガイドブック。

「よくわかる自閉症」

その数500冊。
山積みの高さに おおお と驚く。

     



私が直接教育省に行くのは時間的に厳しいので、配属先から
タイの各地の特別教育センターに配布してもらえるよう手配してもらう。

できあがった本は装丁が美しく、こんな風に最後はきれいに仕上げてしまうタイの
人たちに、さすがだと感心する。
     



ピードンは、私が好きなお花を用意して待っていてくれた。
ここに来た当初、ひとりぼっちでいた私のために いつもさりげなく机においてくれていた花。
私があげた折り紙の箱を見て、自分で見よう見まねで箱を折って。
     


そういう心通じる人たちは、できあがった本をどこに配布してどうするかだけではなく、
この本を作った経緯を想像し、ともに働いた私が作った本なのだという思いで、
本を手に取ってみてくれているのが、顔つきでわかる。
     



ホラホラ さちえがここにいるわよ、
と 自分のことみたいに嬉しそうにいう食堂のリーダー。
   


えらい人たちがやってきて、タイ恒例の記念写真。
     


タイ語と日本語で 書いてちょうだいと頼まれ、1ページ目には
「さちえ(サーイ)から ピードンへ」
と、たくさんの人に書きまくる。
これだけで1時間近くかかる。
     


食堂のピーマラーにもあげたいの、と一冊もらって
同じように
「さちえ(サーイ)から ピーマラーへ」と
タイ語と日本語で書いて持って行く。
仕事の手を止め「これが、さちえが作った本なのね」と、まず、まじまじと真剣に見つめてくれるピーマラー。
      


字を読むのがあまり得意ではない、自閉症のことも先生達から見れば「知らない」と見なされる
ピーマラー。
だけど、食堂に来る子どもたちに接するピーマラーの姿には、教師としても見習うべき
思いやり優しさにあふれていて、子どもの特性を尊重する姿だってすばらしい。
センターのたくさんの先生達は大学院まで出て、特別支援教育を履修し知識のある人たち、
だけど、ピーマラーには紙の上の知識ではなく、人間として必要な豊かさがあふれていて
どんな人でも否定せず受け止める広さは、どこで勉強しても身につけられるものではない。
国も言葉も超えて、人間として、とても尊い内面をもつ ピカイチの人だ。

「ありがとう」と喜んでうれしそうに、いとおしげに本を見るピーマラー。
こんな人に出会えて私はここにきて幸せでした。
      





翻訳作業を手伝ってもらったコンケン大学の先生にも会って感謝を込めて本を渡す。
明るくて大らかなこの先生は、とてもタイ人らしく、時間にはちょっとルーズで
でもそれをすごい馬力でエンジン全開、猛烈な力を発揮して最後にはすべてやってのけてしまう。
2人で深夜の作業に及んだあの日、あの時間は、
もうもっと焦ってよ、と焦り、
一旦取りかかったときの底力とスピードに度肝を抜かれ、
切羽詰まっているときこそ心をゆったりとかまえる、タイ人の心の持ち方に感嘆した。
先生とのあの時間は、タイ人というものをもっと理解できて、好きになった時間だった。
     


あまりの疲れに、立ったまま眠りそうになったこと、
2人の力を合わせるとすごいスピードで仕事が進んだこと、
話し合いながら、2人で共感し、知識を分け合えたこと、
二度とない貴重な時間だった。
先生が言う。
「私、あの夜のことは一生忘れないと思う。」
私も、一生忘れないと思う。     (→ 過去ブログ 「深夜の作業」


そうやって通じ合えた先生が、配属先センター以外の場所にもいて、
そこから、また自閉症理解が深まっていけば、なんて嬉しいことだろうと思う。
この本を作る作業から生まれた産物は、たぶんあちこちにある。
     

「うれしい!こんな立派な本になるなんて!うれしい!」
と とても喜んでくれる先生。
タイのイサーン料理のお店の中で、先生にも日本語とタイ語でメッセージを書く。
     


先生へ翻訳代金を手渡すが、
「翻訳は私が一人でやったことではないから、これは私は受け取れない。
 だから、3つに分けて、
 1つは、第9特別教育センターに私とさちえの名前で寄付しましょう。
 1つは、コンケン大学のお金のない学生にごはんを食べさせてあげましょう。
 1つは、さちえの友だちが日本からきたときに、どこかへ連れて行ってあげるための
 ガソリン代と食事代にしましょう。」
一切自分では受け取らない先生。
実際に、コンケン出立まぎわの、今日。
日本から来た知人をどこにも案内する時間がない私に代わり、今日一日車であちこちに連れて行ってくれた。


「先生はすごいと思います。 日本人には自分で働いて得たお金を自分以外の人のために
 全部使ってあげようという気持ちはあまりないです。」

そういう私にいったのは
「私は母親からそう教えられたから。人のためになりなさいと。 
 お金はもらえなくても今日はいいことがひとつあったのよ。
 きれいな本をもらえたの。
 それに、さちえと一緒にいいことをしたから、また、さちえとも会えるわね。」

タイのタンブン思想を根底とする、しっとりと人間を包み込む深さ、
なんと表現していいか分からないけれど、なんて すばらしい人たちだろうと思うのだ。
ここに住んでいて、一緒に仕事をし、こうやってともに時間を過ごし話してきたから
わかった、体感したこの人たちのすばらしさ。



できあがった本には、先生と私の名前が右下に並んで書かれている。
この文字を見ると、私はこれから先もずっとあの夜のこと、
そして今日の先生の言葉を思い出すと思う。
     



字が読めない保護者もいるので、なるだけ多くの絵を描いた。
○や×など 目で見てわかりやすく、誰にでも理解しやすくと心がけた。
    



最後には、保護者が家で切り取って使えるように、
子どもたちが理解しやすい絵カードをつけた。
カラーで印刷してくれたこと、保護者や子どもたちが実際に使うものに色がついているというのが嬉しい。
     


この本を作ろうと思ったきっかけは、お母さんたちの
「クーサーイ、家でこの子にどうしてあげたらいいの?」
の言葉。
私を信頼して、私からアドバイスを受けたいと思って聞いてくれているのに
タイ語で思うように十分に説明ができなかったこと。
お母さんたちのために、わかりやすいガイドブックを作って助けになりたいと思った。



そして、センターの先生達にむけての目的はただ1つ。
パニックを起こした子どもたちへの対処法を変えていけたらという思い。  (→ 過去ブログ   「だたひとつだけ」
パニックを起こした子どもを押さえつけるのではなく、
パニックを起こさせない、という考えに切り替えていってほしいという思いだ。

1:数十人というこのセンターの先生仲間の中で、教師主導の考え方の強い
タイの先生達に、言葉だけで伝えるには難しかった。
それに、そもそも、知識としては先生達には十分にある。
だから、本を作るその制作過程で、原稿をもとに話し合い、
「わかってますよね、だから、やっていきましょうよ。」
と、意思を疎通させ、欠けている意識を問題視できればと思ってのことだった。
だから、約50ページにわたるこの本で先生達に本当に伝えたい部分は、
たった3ページ。
そのために、この本を作った、作ることを利用して先生達と話し合いをした。
      


こうやって本を作れば、本を作ったという成果が残り、センターとしても鼻高々。
JICAの青年海外協力隊が来れば事務所の協力を得て、形を残してくれる、
資金の援助も、これだけの仕事も当然のこと、という考えもセンター内のえらい人たちには存在し、
それを感じれば感じるほど、本なんか絶対作るものかと反発する気持ちも以前からあった。
すでに後任者を希望しているカウンターパートやえらい人たちを見ていると、
確かに私という人間を大事にはしてくれたが、JICAを背負っていれば要するに誰でもよく、
何かしてほしいから来てもらったのではなく、
ここに呼んでから、さて形になる何をやってもらおうかと考えるそんなところも感じて悲しく思うこともある。


それでも作ったのは、お母さんたちのためであり、子どもたちのためであり、自分のため。

日本に一時帰国し、残り時間 たった4ヶ月でタイに戻った私の活動がうまくいくように
私のやりたいことをバックアップしてくれた、タイ事務所にも、
このセンターでバシッと言い放って話をまとめてくれた調整員にも心から感謝している。  (→ 過去ブログ 「仕切り直し」


マハサラカムに住む 最後の最後までお世話になった 日本人の先生にも一冊渡す。  (→ 昨日ブログ 「イサーンを走る」
どこがさちえさんの本当に伝えたい部分だったのか、
私も時間をかけて探してみます、自分で見つけたいから、といってくれ
こうして理解したいと思ってくれる人がいるのは私の財産だと思う。



作る過程では、いろんなことがあった。 (関連ブログ 「ガイドブック作りの夕べ」  「日曜出勤」  「ガイドブック印刷依頼」
協力してくれないとがっかりしたこともあったし、
一人で焦ったこと、逆にカウンターパートが焦ったこともあった。
誤解もあったし、意思がうまく伝わらないこともしょっちゅうだった。
だけど、そういう中でも私の伝えたいことを分かろうと歩み寄ってくれたり、
手伝おうとしてくれたり、
「さちえはね、よきライバルなの」といってくれる人たちがいた。


心を注いだ子どもたちや保護者がこの本を手に持ち、
絵や文字を見て、ああそうかと1つでも自分自身を理解したり、子どもを理解したりする
手助けになれば嬉しい。
     


私を大事に見守ってくれるピーマラーや、ナムプリック屋のお母さんたちが
私がやってきた仕事内容はよくわからなくても、
時には私が険しい顔をして、時には元気がなく、時には意気揚々とやって来た姿を
これまでじっと見てくれていた。
そして、最後に「おつかれさま」といってくれる。
たとえ、誰からも感謝の言葉がなくても、私を思ってくれる家族のような人たちのこの
ねぎらいの気持ちだけで、涙が出るほど。
      


ひとつ、残念なのは、お母さんたちに、この本でどう理解が深まって
どういうところがわかりにくくて、もっと知りたいのはどんなことか、
本を使った理解度や成果を尋ね、それを活かす時間がなかったこと。


このセンターで1年9ヶ月一緒にいた私が書いた本。
知らないどこかの誰かが書いた本よりも、身近なものとして、目を通してくれると思う。


この本の完成も含めて、私の協力隊の活動を
遠くから応援してくれた人たち、実際に手を添えてくれた人たち
さりげなくそっと手助けしてくれた人たち、
私がきっと思っている以上のたくさんの人たちがいての活動期間。

どうやって伝えたらいいのか分からないほど、たくさんの人たちがいる、
その人たちに心から感謝の気持ちを伝えたい。







   知命 
            茨木のり子

   他のひとがやってきて
   この小包の紐 どうしたら
   ほどけるかしらと言う

   他のひとがやってきては
   こんがらかった糸の束
   なんとかしてよ と言う

   鋏(はさみ)で切れいと進言するが
   肯じない(がえんじない)
   仕方なく手伝う もそもそと
   生きてるよしみに
   こういうのが生きてるってことの
   おおよそか それにしてもあんまりな

   まきこまれ
   ふりまわされ
   くたびれはてて

   ある日 卒然と悟らされる
   もしかしたら たぶんそう
   沢山のやさしい手が添えられたのだ

   一人で処理してきたと思っている
   わたくしの幾つかの結節点にも
   今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで

         



                   (→ 過去ブログ 「知名 ある日卒然と悟らされる」







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