ユラーナ Ulana - A bridge between Japan and Overseas Countries

龍神由美のブログ。江戸の面影を残す川越に、先祖代々300年住んでいます。私の川越暮らしを綴ります。

オハイオ州・トレド市の思い出

2010年12月04日 | 旅行
1996年1月から丸2年、アメリカ・オハイオ州トレド市に、仕事のために滞在しました。外国人が誰もいず、全員アメリカ人という環境の中に放り込まれて、とても苦労しました。引っ越し荷物の整理が終わらない内に、会社に出勤し、新しい仲間の顔と名前を覚えることから新生活は始まりました。

会社では、「あなたの発音は可笑しい」、と言って笑われ、「あなたの服装は、私たちの着ているものと似ているけれど、どこで買ったの?」とまるで、異星人のような扱いを受けましたが、可愛いがってもらっていると考えることにしました。黒人も少なければ、外国人がほとんどいない地域だったのです。パソコン、インターネットが普及する前のことです。

最初は、皆、素晴らしい英語を話しているので(当たり前のことですが)、「おお、すごい!」と感心していましたが、段々、仕事に慣れてくると、「こんな仕事の仕方では、非効率ではないか」などと思ったりしました。会社の仕事は、どこでも同じようなものだと思いました。

苦労したのは、日本食の食材でした。トレド市には、当時、日本食専門のお店はなく、ラオス人が経営しているアジア食のお店しかありませんでした。餃子を作りたいと思ったとき、そのラオス人のお店で、ニラを見つけたときはとても嬉しかったです。餃子の皮は、冷凍したものをそこで売っていました。(でも、賞味期限の記載もなく、とても不安でしたが。)

お肉は、スーパーの肉売り場で、半ポンドだけ挽肉にしてもらいました。キャベツは、普通に売っていたので、問題はありませんでした。

しかし、これらの食材を集めるのに、車であちこち行かなくてはならず、運転が好きでない私にとっては、苦痛でしたが、やっと集めた食材で作った餃子は、美味しかったです。

カレーやシチューは、ルーを売っていたので、簡単に作れました。困ったのは、薄切りのお肉を売っていなかったこと。魚類が全く手に入らなかったこと。お鍋の材料が手に入らなかったことなどでした。

帰国して、近くの生協に行ったら、コンパクトな店内に欲しい食材がぎっしり詰まっていて、涙がぽろぽろこぼれました。(一緒に行った母は、「恥ずかしくてどうしようかと思った」と言いました。)それ程、食べ物というのは、生きていく上で大きな存在だということを認識しました。

観光旅行でアメリカに行かれ、アメリカの魅力に惹かれる方は多いと思いますが、私にとっては、とても厳しい2年でした。1998年1月の帰国以来、アメリカには行っていません。子供の頃、とても憧れた国でしたが、弱肉強食の世界に身を置いて、私の住める世界ではない、と実感しました。それ以来、(良いことかどうかわかりませんが)、心は、日本と川越に向いています。


ユラーナ
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