黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

三池炭鉱 #04:宮浦坑

2014-01-07 04:04:23 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
前回まで三池炭鉱の歴史をさらっと触れて来ましたが、
今回からは具体的に施設を見えて行きたいと想います。
まずは文化財に指定されるなどして保存されている施設、
次に、惜しくも壊されてしまった施設、
最後に、史跡などに指定されてはいないけれど、
保存する価値のある施設、
の順番でアップして行ければと想います。

最初の保存されている施設は宮浦坑です。

三池炭鉱

大牟田市の中心地からも見ることのできる、
かなり高い煉瓦の煙突が宮浦坑の煙突です。
竣工明治21年(1888)、高さ31.2mで、
平成10年(1998)に国の登録文化財となっています。





三池炭鉱

盆踊りの定番『炭坑節』に出てくる高い煙突が、
この煙突のこと、という話をたまに聞きます。
それは歌詞が

 月が出た出た 月が出た
 三池炭鉱の上に 月が出た
 あんまり煙突が高いんで~

ということですが、そもそも私は、
「三池炭鉱の上に」の炭坑節を聴いたことがありません。
東京で幼少の頃聴いた炭坑節の2行目は

 ウチのお山に 月が出た

でした。
なので三池炭鉱の歌かどうかすら全く知らなかったわけですが、
ともあれ現在では、炭坑節の原型は三池ではなく、
筑豊にあった三井田川炭鉱の煙突がモデル
というのが定説になっている様です。

田川市のサイトにも炭坑節の経緯や、
「三池炭鉱の上に出た」ではなく、
「三井炭鉱の上に出た」が正しい歌詞として記されています。





三池炭鉱

宮浦坑は前回の記事でも触れた、
明治前半の官営時代の最後の坑道で、
第一竪坑が明治21年(1888)に創業を開始しますが、
すぐに三井の経営になるので、
それ以降三井の主力坑道として活躍します。
画像は三井に移管した頃の宮浦坑。
既に現存する煙突が建っています。
また竪坑櫓は、画像を見る限り木造のように見えます。





三池炭鉱

大正8年(1919)に第二竪坑が創業を開始。
画像は大正末期の頃の宮浦坑の様子なので、
手前に見えるのが第二竪坑でしょうか。
奥には第一竪坑の櫓も見えます。
櫓の左に写る白い建物は捲座だと想いますが、
第一竪坑の捲座がその色から判断して煉瓦の様子なのに比べ、
この捲座は白い壁面なので、おそらくRCなのではないでしょうか。





三池炭鉱

大正末期の選炭場の様子。
選炭とは、採掘された鉱石の中から、
石炭とそれ以外の石を分別する作業のこと。
画像は手選(しゅせん)と呼ばれる、
いわゆる手作業で選別をしている場所。
この作業は殆どの炭鉱で行なわれていたもので、
主に女性が従事していました。





三池炭鉱

大戦前夜の昭和14年(1939)頃の坑内。
電動コールドリルで採掘している様子。

2つの竪坑は、戦後すぐに閉坑しますが、
大正末期に開削した大斜坑はその後も稼働し、
昭和43年(1968)年の閉坑までの81年間、
約4000万tもの石炭を産出し、
三池炭鉱の主力坑道として活躍した坑道でした。





三池炭鉱

現在、宮浦坑の敷地の一部は、
前述の煙突とともに記念公園として整備され、
最後まで稼働した大斜坑の坑口も当時の姿で残っています。





三池炭鉱

また煙突に隣接して、第一竪坑の坑口跡も、
形ばかりですが保存されています。






三池炭鉱

その他幾つかの関連施設が、
整備された形で保存されています。
画像は材料降下坑口跡と材料運搬車の模擬展示。
先頭が、採掘用工具などを運ぶ工具車、
真ん中が掘った穴のための支柱を運ぶ坑木車、
一番後ろが石炭採掘後の空間を埋める材料を運ぶタンク車
だそうです。





三池炭鉱

入坑のために人を運んだトロッコも、
プラットフォームとともに残っています。





三池炭鉱

新しい時代のものだと想いますが、
坑内で使われていた機器も展示されています。
画像はドリルジャンボ。
エイリアン2に登場するパワーローダーをも連想させるルックスですが、
映画のように重量物の運搬機器ではなく、
坑道の掘り進みの際に使うダイナマイトを挿入する穴を、
岩盤に開ける機器だそうです。

明治初期の官営時代の炭鉱を今に伝える宮浦坑は、
数少ない貴重な遺産だと想います。



【宮浦坑】

大牟田市西宮浦町132番地8
宮浦石炭記念公園内
連日公開。見学無料。

三池炭鉱

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