黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

戸山ヶ原逍遙 陸軍軍医学校

2006-05-01 04:22:20 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
東京新宿の北部に位置する地域はかつて戸山ヶ原と呼ばれ、
敗戦までは大規模な陸軍の施設があった地域です。
今回はその中でも最もディープな場所、
陸軍軍医学校跡です。

かつて731部隊が、生体人体実験を行ったとされる、
防疫研究室を含む軍医学校は、
現在は戸山公園の運動場や、
国立感染研究所、障害福祉センターなどになっています。
Mapion地図
歴史ある早稲田の杜の一角にありながら、
道路や周囲の雰囲気が妙に新しいのは、
ごく最近整備されたためでしょう。

その一角に、かつて隣接した陸軍第一病院から軍医学校へ通じる、
地下道の出入口の跡が残っています。



90年代後半までは出入口としての形をとどめていたようですが、
現在では埋められ、出入口の形だけが残っている状態です。

またその向かいにある当時の車止めや門柱は、
今では近所の犬のマーキング・ポイントになり果てていました。



この地域の一連の再開発の際に発見された大量の人骨に、
数多くの実験の痕跡が認められたそうです。
戦後60年以上経つ現在でも、
もっとも戦争の究極の形を伝える場所だと思います。
 
人骨発見を中心にした戸山ヶ原に関しては、
『人骨(ほね)は告発する』に詳しく掲載されています。
ちょっと重いタイトルですが、
平和な現在の下に何があったのかを教えてくれるサイトだと思います。

◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
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戸山ヶ原逍遙 陸軍技術本部・陸軍科学研究所

2006-04-30 04:01:31 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
東京新宿の北部に位置する地域は、かつて戸山ヶ原と呼ばれ、
敗戦までは大規模な陸軍の施設があった地域です。
2ヶ月程前にアップした記事の続きになりますが、
今回のシリーズは最もディープな施設跡です。

現在は東京都健康安全研究センター、国立科学博物館分院、社会保険中央病院
がある一帯(Mapion 地図)に、
陸軍技術本部と科学研究所がありました。
これらの機関は細菌戦や化学兵器戦のための研究機関で、
特にここで行われた毒ガスの研究が、
やがて広島県の大久野島にある毒ガス大量製造工場の建設へと、
繋がっていったとききます。

建て替えの際に毒ガスボンベがみつかった、
東京都健康安全研究センター内の不要に広い空地。



前回アップした記事「戸山ヶ原逍遙 陸軍戸山学校跡」でふれた、
野外音楽堂の跡地のまわりには、
陸軍軍楽学校のことを記したものはなにもなく、
唯一陸軍戸山学校址の碑文の中に
「音楽」という文字がみあたるだけですが、
モニュメントの台座の中央をよく見ると、
ラッパを吹く天使のレリーフがあります。



おそらくこれが忌まわしくも忘れてはならない過去を、
綺麗な形で残そうとした、
新宿区の苦心の結晶なのかもしれませんね。

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戸山ヶ原逍遙 都営戸山アパート

2006-03-11 23:20:30 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
戦前まで広大な陸軍の施設があった、
東京新宿の北部に位置する戸山ヶ原。

戦後すぐに建てられた都営戸山アパート群も、
この跡地に建てられたものでした。
戦後の公営アパートの見本的なアパートでしたが、
惜しくも去年、全ての棟が解体されてしまいました。
画像は鬱蒼と茂る森の中に佇む、
最後まで残っていた棟です。



思えばこの緑深いアパートの光景が、
特殊な光景に見えだしたのはいつごろからでしょうか。
いまでも残る都営アパートの中庭の光景をみると、
とても不思議な感じがしますが、
それだけ集合住宅の庭に植物がなくなってしまったんだと思います。

そんな自然に囲まれたいい環境ですが、
今都営アパートへ行ってみると、どこでも高齢者の方が目立ちます。
おそらくそこで生活の基盤を築き子供を送り出して、
余生を過ごしている世代だと思います。
これら緑多き集合住宅で育った世代は、
緑を捨てて、カチカチのマンションへ引っ越していったのでしょう。
もったいない。

最後まで残っていた敷地内の遊園地も、
今では完全になくなっています。



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戸山ヶ原逍遙 陸軍戸山学校跡

2006-03-10 02:11:45 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
東京新宿の北部に位置する地域は、かつて戸山ヶ原と呼ばれ、
敗戦までは大規模な陸軍の施設があった地域です。

そのほぼ中央に位置する標高44.6mの箱根山は、
江戸時代、尾張徳川家の下屋敷<戸山荘>の
庭の一部として築山された人工山で、
維新以降この一帯を譲り受けた明治政府によって
軍事演習場などが作られたそうです。

敷地内には作曲家団伊玖磨氏が所属し、
芥川也寸志氏が学んだ軍楽学校もあり、
いまでもその野外音楽堂跡が園内にひっそりと残っています。



元来の音楽堂は戦後しばらく残っていたそうですが、
現在は近年整備されたモニュメントがあるだけです。

戸山ヶ原のことをいろいろ教えて頂いたzeroさんがアップされてる、
大正12年(1923)の戸山ヶ原の地図を見ると、
現早稲田大学の文学部近くの軍楽学校と
箱根山の麓にある野外音楽堂が以外に離れてるのが判りますが、
近隣の住民への配慮だったのでしょうか。

また音楽堂のすぐ横には、
<陸軍戸山學校址>の碑がぽつんと佇んでいます。



今日3月10日は、
かつて日露戦争で大勝利を納めたのを記念してできた、
陸軍記念日でした。
そして今から61年前の今日、
あえてその日を狙って東京大空襲がありました。
死者は10万人と言われています。
最近<東京都平和の日>となった今日は、
民族とか国家とかそんなことを超えて、
敗戦の日より忘れてはならない日だと思います。

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戸山ヶ原逍遙 陸軍会議室跡

2006-03-09 04:04:09 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
かつて東京の新宿北部に広がっていた戸山ヶ原は、
戦前までは大規模な陸軍の施設があり、
戦後戸山公園、戸山ハイツ、そして各種学校などが建設されるものの、
いまだになんとなく当時の空気を感じさせる場所です。

戸山公園は大きく2つに分かれた公園で、
その一つ箱根山地区は、
東京旧市街で一番高い山と言われる箱根山が名前の由来です。

同じ軍用地転用の平坦な代々木公園と違い、
箱根山を中心にした高低差のある公園内は、
木々がかなり深く茂る、
東京のど真ん中とは思えない自然な環境です。

その戸山公園の中に、
かつての陸軍の施設が残っていると、
時々blogへ書き込みを頂くzeroさんから教えて頂きました。



現在は日本基督教団戸山教会の施設の一部に転用されている、
旧陸軍の会議室の跡です。
窓からなかをのぞくと木製の小さな椅子が沢山積んでありました。
この教会は幼稚園を併設しているので、
園児たちのつかう椅子だと思います。

1階の重厚な石造りの外観とは裏腹に、
2階には真っ白な教会が建っています。
裏手にトマソン的な構造がありますが、
これが陸軍時代のものなのかどうかはわかりません。



都立公園である戸山公園のど真ん中に教会があるのは不自然ですが、
戦後この一帯を摂取したGHQの指示があったとも聞きます。

陸軍会議室跡のほぼ全景は前述のzeroさんの記事
新宿・戸山公園「陸軍戸山学校 将校会議室」をご覧ください。

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戸山ヶ原逍遙 戸山交通公園跡

2006-03-08 07:32:50 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
東京・新宿の北部に位置する戸山地区には、
かつて大規模な陸軍の施設がありましたが、
現在その跡地は、戸山公園および住宅地などに転用され、
殆ど当時の面影を残す物はみあたりません。

軍から譲渡された都が公園として整備し、
昭和29年に開園した戸山公園は、
もともと公園としてゼロから造られたものではないので、
その敷地もかなり変形で、
東京都の旧市街で一番高い山といわれる箱根山がある、
箱根山地区と、
明治通をはさんで早大理工学部の裏手にある少し規模の小さい、
大久保地区に分かれています。

そしてこの大久保地区は、
かつてゴーカートで遊べる戸山交通公園でした。



この公園がいつからゴーカートで遊べたのかはわかりませんが、
東京都の公園条例などをみると、
昭和30年に既にゴーカートの件が記載されているので、
初期のころからあったのだと思います。

また現在は既にゴーカートが走る交通公園ではなく、
普通の公園になっています。

ただ現在も当時のコースだけは園内に残存し、
通常の公園と比べるとはるかに入り組んで、
妙に蛇行が多い園内の道が、
当時を偲ばせるだけです。



公園の周囲には、
土が小高く盛られた状態の光景が見えますが、
これは軍施設があった当時の、
射撃練習用の土塁跡だそうです。

またこの公園は近隣に職安があり、
平成に入ってからはホームレスが急増し、
その数は代々木公園についで都内2番目の数とも言われています。

時代と共にめまぐるしく変化する東京の、
一つのモデルケースの様な場所だと思います。

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戸山ヶ原逍遙 都立豊多摩病院跡

2006-03-07 07:00:31 | ・軍都戸山ヶ原逍遙
もともと何か強烈だったり特殊だったりしたものがあった土地は、
現在その姿を変えていても、土地が<発する感じ>
みたいなものが違う気がします。

東京の新宿の北西地区再開発に関しては以前の記事でアップしましたが、
その更に北部地域にあたる戸山地区は、
かつて<戸山ヶ原>と呼ばれた大規模な陸軍の施設があった場所です。

高田馬場や新宿には幼少の頃から縁があって、
なにかにつけてよく出かけた地域ですが、
陸軍の施設跡という事を知らない頃の記憶をたぐり寄せてみると、
なにか他とは違う地域という印象があって、
そこを通るたびに僅かながら特別な感情が涌いていたのを思い出します。

画像はそんな戸山地域にある、
時々このblogに書き込みを頂くzeroさんから教えて頂いた、
都立豊多摩病院跡です。



元来伝染病を扱う隔離病院だったそうですが、
戦時中は思想犯や政治犯の収容所に使われたこともあるとか。
戦後、昭和46年(1971)に高等看護学校になるものの、
昭和63年(1988)に廃校、
その後新宿区の施設として転用されるも、
現在は既に使用されていないそうです。
(すべてzeroさんから教えていただきました)

zeroさんの言葉を借りると、
廃墟というよりはただの<放置物件>。
周囲の塀の随所にセキュリティーシステムがあるのが、
綺麗に保ってる原因かと思いますが、
それにしても綺麗な廃墟です。

唯一自転車置き場の屋根がめくれて、
下に落ち葉が溜まっているのが、
時間の経過を感じさせてくれるくらいです。



裏手には講堂のような建物もありますが、
これもよくよく見ると使われていない様子ですが、
外からはまったくそうは見えません。
全体的に人の気配を感じるので、
まだ何らかの目的で時々使用しているのかとも思います。

■追記■ 13.MAR.2006
明治42年(1909)の日本帝國陸地測量部の地図をみると、
この場所に既に<郡病院>と記載されているので、
かなり古くから病院の敷地として使われていたことがわかります。
ちなみに豊多摩病院になったのがいつかは解りませんが、
大正14年(1925)にはまだ<郡病院>の表記、
そして昭和12年(1937)には<豊多摩病院>の表記になっているので、
この間だと思います。
 
またこの地域は
明治、大正の地図にはそれぞれ大久保村、大久保町と表記され、
<戸山ヶ原>の文字が出てくるのも病院と同じく、
昭和12年の地図になってからのことです。

■追記■ 18.NOV.2007

この記事のコメント欄の9番目、11番目に、
豊多摩病院時代にご入院の経験をお持ちのねこちゃんさんから、
当時の院内の詳細な様子のお話を頂きました。
隔離病院ならではの重厚なルックスと暗い印象の院内とは裏腹な、
とても開放的で明るい雰囲気だった院内のお話は、
豊多摩病院の知られざる真実ですので、
ぜひご覧になってください。

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