黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

三池炭鉱 #24:エピローグ

2014-02-18 11:48:19 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
今回で最終回です。

三池炭鉱

こうして三池炭鉱を、表面的ですが一通り見て来ました。
1つの炭田をまるごとその黎明期から閉山まで、
一企業が独占して経営した例は、
国内では三池以外にありませんが、それもひとえに、
初代の指導者である團琢磨の力に寄る所が大きいのかと想いました。





三池炭鉱

国内に数多あった炭鉱は、
その殆どが閉山後放置され、廃墟と化しています。
経営していた企業の多くは、
その会社の発展に大きく貢献したはずの炭鉱の跡地を、
自然に還元することもなく、地元民のために有効利用することもなく、
「用がなくなったら知らん顔」を決め込みます。

しかし、百年後の未来を見通した團琢磨は、
炭鉱の発展にも役立ち、
同時に炭鉱が無くなったあとの町の発展も考慮に入れて、
三池港を造ったといいます。
そして今も三池港は現役で大牟田の産業に貢献しています。





三池炭鉱

しかし、文化財として既に保存されている施設は別として、
本来、充分保存に値すると想われる多くの施設が、
文化財の指定も受けず、保存の手だてもなく、
ただ時の流れに任せて放置されているものも少なくありません。
特に藩営から官営そして三井の創成期に関わる施設は、
日本の近代化をしるうえでも重要な施設なので、
是非とも保存して頂きたいと想います。





三池炭鉱

そこには今の日本を作り上げた石炭産業の、
いわば象徴的な形が残っていると同時に、
明治期の囚人労働や戦中の強制労働、
そして戦後最大の労働争議と産業事故という、
三池の、ひいては日本の20世紀の光と影が、
丸ごと封印されているからです。





三池炭鉱

逆にこのシリーズをアップする切っ掛けとなった有明坑をはじめ、
多くの三池炭鉱関連の施設が解体されてしまったのは残念です。
一度解体されてしまった施設は元には戻りません。
解体するのはせいぜい長くて数ヶ月ですが、
それは長い歴史の記憶が無くなってしまうことでもあります。
そして営々と育まれて来た文化を消し去ってしまうことだと想います。





三池炭鉱

三池には激動の20世紀が全て詰まっています。
そして三池を語り継ぐことは、
20世紀の日本を語り継ぐことだと想います。
三池を語るとき、時には重く暗い話が多くなるかもしれませんが、
それが20世紀の日本であり私たちの過去であることには違いません。
そして、未来は過去の積み重ねで造られます。





三池炭鉱

三池の光と影を語り継ぐことは、
未来へ襷をわたすことだと想います。
保存された建物や施設も、いずれ老朽化し崩れてなくなると想います。
たとえ残ったとしても、それらはなにも語りません。
残った建物や施設は、
人が語ることではじめて命を吹き込まれるんだと想います。

そして今、三池炭鉱が残してくれているものは、
この記事をご覧になって頂き、
そして何かを考えたり感じたりして頂いたことを一例として、
人と人が、地域と地域が繋がり、
未来を考える場を与えてくれていることだと想いました。





最後にこのシリーズで取り上げた坑口と炭鉱関連施設、
それに記事では取り上げなかった坑口施設を、
おおまかな地図にまとまました。
画像はクリックすると拡大します。
記事を読まれる際にご参考頂けたら幸いです。

またこのシリーズでアップして来た操業時と写真は、
すべて大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブさまからお借りしたものです。

<参考文献>
『筑後の近代化遺産』(弦書房)
『大牟田の宝もの100選』(海鳥社)

◆ シリーズ 三池炭鉱 ◆
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三池炭鉱 #23:大牟田点景

2014-02-17 01:43:24 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
今回は、これまでアップしてこなかった物件にさらっと触れたいと想います。

◆石炭露頭◆

三池炭鉱

石炭の発見伝説が残る稲荷山の付近には、
今も石炭の露頭があります。
今でも採掘出来る石炭なので場所は非公開に、
ということなので所在地はアップ出来ませんが、
「伝治左衛門夫妻がとろとろと燃やした石」
の伝説をリアルに実感出来ます。





◆排気竪坑用の人工島◆

三池炭鉱

画像中央に写るのは、有明海に浮かぶ「初島」と呼ばれる、
排気竪坑の為に造られた人工島です。→google map
稲荷山近辺に露頭していた石炭の層は、
有明海に向かって徐々に深くなって行き、
採掘拠点も次第に海寄りへと移動して行きました。
そして有明海の外海へどんどん行くに従って、
坑道内の換気施設も海上に造らざるおえなくなり、
その結果造られた人工島です。
上から見ると円形をしていて、かつては竪坑が口を開けていましたが、
現在では坑口は塞がれ、島の上には植物が繁茂しています。

手前に写る無数の細かな柱は海苔の養殖場です。
有明は海苔で有名ですね。





三池炭鉱

初島は海岸から見ることができますが、
更に遠くの沖合には三池島と呼ばれる、
初島同様排気竪坑のために造られた人工島もあります。
google map ※もう詳細写真が表示されないエリアです。





◆泉橋と旭橋◆

三池炭鉱

画像は大正5年(1916)竣工の「泉橋」で、
大牟田に残る最古の鉄筋コンクリート橋だそうです。
上から見るとラッパのような形をしていて、
南側の幅が4.5mなのに対し北側が13mもある、
不思議な形をした橋です。→google map





三池炭鉱

泉橋のすぐ隣には大正13年(1924)竣工の「旭橋」があります。
こちらは泉橋と違って橋の形は普通で、
頂部に球を載せた四隅の親柱と中央にある、灯りを載せた台座柱は、
泉橋より遥かに凝った趣のあるデザインですが、
欄干等は作り替えられてしまっています。





◆炭鉱鉄道軌道跡◆

三池炭鉱

泉橋の近くに残る炭鉱鉄道の軌道敷跡。→google map
これまでアップして来た主要な坑口と港を結び、
大牟田市内をぐるっと曲線で囲む様に走っていた鉄道敷は、
すでに線路は殆ど撤去されているようですが、
それでもコンクリート製のホームや鉄橋等、
残存する施設もあるというので、
今回は時間がなく巡ることはできませんでしたが、
次回訪れた時は、是非巡ってみたいと想います。

ちなみに三池鉄道の軌道跡は、
「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産にリストアップされています。

また、以前の記事でアップした、
電気機関車が保存されている三井の化学工場のヤードから、
鹿児島本線までの約1.8kmを繋ぐ旭町支線は、
かつての炭鉱電車の機関車が現役で運行しています。





◆大牟田の夜◆

三池炭鉱

市内に残るかつての炭鉱電車軌道の橋跡。
彫刻風のレリーフを左右にあしらい、
中央には時計まで埋め込んだ、
凝った造りの鉄橋です。

炭鉱鉄道は築堤の上を走っていたようで、
市内には、至る所に築堤をくぐるトンネルがあります。





三池炭鉱

夜の市内はひなびた雰囲気が色濃く漂います。
炭鉱が最盛期だったころには20数万人いた人口も、
現在では約半数の12万人ぐらいだといいます。
駅前の商店街も、かつては大いに賑わっていたのでしょうが、
今では使われなくなった雑居ビルが点在し、
草が生い茂る更地も目立ちます。





三池炭鉱

炭鉱の時代からあったスナック通りでしょうか。
多くの炭鉱マンの疲れを癒した場所かもしれませんが、
そのほの暗い灯りは、
かつての栄光を夢見ながら消え行く残照のようでもあり、
なんか切なくなります。





三池炭鉱

画像は1本10円!の焼き鳥。
戦後すぐの昭和25年(1950)に開業した「元禄」は、
三池炭鉱とともに歩んだ焼鳥屋さん。

当初は5円だったそうですが、
二代目の店長さんの今でも赤字覚悟の1本10円!
大牟田には以外と焼鳥屋は少ないらしく、
とても繁盛している様です。

この10円の焼き鳥は皮でしょうか。
さすがに10円。決して<凄く>美味しいとはいえませんが、
炭鉱時代からの時間の繋がりを感じれば、
その味も格別でした。



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三池炭鉱 #22:四ツ山配水池

2014-02-16 18:38:02 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は炭鉱施設ではありませんが、
巨大な地下水槽、四ツ山配水池です。

明治末期から大正の初期にかけて、
三井三池の発展によって人口が増加し、
それに伴う飲料水不足を解消すべく造られたのが、
四ツ山第一配水池です。

大正10年(1921)に供給を開始した貯水槽は、
三池炭鉱閉山後もずっと使用され、
平成24年(2012)にその役目を終るまで、
大牟田の市民の水を供給し続けた施設です。





三池炭鉱

小高い平らな丘の上に整然と並ぶ換気塔。
これが、四ツ山第一配水池の地上部分の光景です。
地下に貯水槽を掘り、上部を塞いだ後に盛り土をし、
その上部を平らにして、換気塔を均等に配置してあります。

一つひとつの換気塔は、
まずコンクリートで八画柱状に作られ、
換気窓をそれぞれの面にくり抜いています。
本来、機能的はここまででいい筈ですが、
さらに各面に型抜き(だと想います)で、
出っ張りのあるデザインを追加し、
しかもそれが同種のコンクリートではなく、
洗い出し仕上げになっているのは驚きです。





三池炭鉱

土もりされたほぼ正方形の四辺のうちの、
対格する二辺の中央に内部への入口が作られ、
ちょうど配水池の中央上部を横断する形で通路が造られています。





三池炭鉱

通路両側にある蒲鉾型の窓の奥が、
すべて巨大な貯水槽です。
貯水槽は左右5つに区切られ、
それぞれは流動壁によって区切られています。

壁面下部の赤くなっている部分が、
かつて水が溜まっていた高さの跡だと想います。





三池炭鉱

そして壁面の色が変わっている高さの位置に、
配水口と想われる太い鉄管が口を開けています。
配水口の上部に張られたネットは、
おそらくごみ取りだと想います。







三池炭鉱

第一配水池から南の位置にあたる四ツ山神社の裏手には、
昭和初期に配水を開始した第二配水池もあります。
第一配水池の盛り土はかなりの高さがあり、
出入口の施設は盛り土の高さより低いのに対し、
第二配水池の盛り土はそれほど高くないので、
出入口の施設が盛り土よりはるかに出っ張っています。

第一配水池の換気塔の装飾に使われていた、
洗い出し仕上げの壁面による円筒形の出入口施設は、
扉の左右のヨーロッパテイストの柱や、
銅板張りのドーム型の天井とともに、
かなり趣のある凝ったデザインです。





三池炭鉱

また、第二配水池上面の換気塔は、
第一配水池のそれとはまったく異なり、
よく古い時代のトイレ等で見かける形のベンチレーターです。
ベンチレーターは、第一配水池同様、
施設の上面にも均等に設置されていますが、
第二配水池では、上部盛り土の側面にも均等に設置されています。





三池炭鉱

第二配水池の敷地には、
水道記念碑が立っています。
記念碑の下部には龍の蛇口が取り付けられていますが、
もともと大牟田市は龍に年の深い土地だったことを表しているそうです。





三池炭鉱

また敷地の出入り口付近には、
珍しい角柱形のコンクリート電柱が立っていました。

四ツ山の配水池は、大牟田の水を供給し続けたという歴史と同時に、
建築的に見ても、大正から昭和のデザインを色濃く残す施設なので、
これもまた是非とも保存して欲しいと想います。



【四ツ山第一・第二配水池】

熊本県大荒尾市大島
現在四ツ山配水池は、第一と第二ともに、
一般の見学はできませんが、
唯一、四ツ山神社の境内から、
第二配水池の一部を見ることができます。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #21:炭鉱電車

2014-02-15 16:21:44 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は三池鉄道の保存機関車群です。

三池炭鉱が閉山した時に、
四輛の炭鉱電車が大牟田市に寄贈され、
現在も三池の化学工場の一角に保存されています。

三池炭鉱

4つの車輛はどれも今では珍しい貴重な車輛ですが、
中でも目を惹くのは、最も古いL字型をした15tB形の5号機関車です。
その特徴的な形状と運転速度の遅さから、
大牟田の方言で亀をあらわす「ガメ電車」と呼ばれたそうで、
明治43年(1910)にアメリカから輸入されたものです。
ずんぐりとした低い車体と、
バランスが悪いほど大きなパンタグラフは、
とても愛嬌のあるルックスですね。





三池炭鉱

ガメ電車の運転席部分の外観。
扉の構造がみあたりませんが、
なんと窓から入るのだそうです。





三池炭鉱

限りなくシンプルな運転席。
左側中央のとってのついた青い部分が、
荷物入れ兼用の運転席のようですが、
ただの鉄板なので、さぞかしおしりも痛かったのでは。





三池炭鉱

ガメ電車の後ろにある、
少し重量が大きい凸型をした20tB形の1号機は、
明治44年(1911)にドイツから輸入されたもので、
その後の三池機関車のレファレンスにもなったモデルです。

さらにその後ろには凸の底辺部分がより長い、
昭和に入ってから芝浦製作所で製造された、
45tBB形の17号機が鎮座していました。





三池炭鉱

この運転席は、上述の20tB形の1号機を模して、
日本車輌と三菱造船所で大正4年(1915)に製造された、
20tB形の5号機のもので、
国産機関車としては国内最古クラスのものだそうです。
ガメ電車のそれと比べると、かなり複雑な構造ですが、
それでも現代の運転席と違って、
産業遺産の雰囲気出まくりですね。





三池炭鉱

上記の4車輛は、三池の機関車の中でも
ある意味重要な機関車なので保存されているのだと想いますが、
実は炭鉱時代の機関車は、現役で動いているものもあるんです。

この記事最下段の地図の上部にある、
修理工場と書いた建屋の中とその周辺のヤードに、
幾つもの車輛が停まっています。

画像は修理構造内に停車する、
20tB形の11号機(手前)と45tBB形の18号機です。
ご存知の方も多いと想いますが、
凸型の小さめのが20tB形、
凸型の底辺が大きいのが45tBB形ということですね。





三池炭鉱

なので修理工場の一番奥に停まっていたこの車輛は、
20tB形の9号機関車ということになります。

この他20tB形の12号機と45tBB形の19号機をあわせて、
現役で動いている電気機関車は全部で5輛あるそうです。





三池炭鉱

20tB形11号機の後ろには電源車輛が連結されていますが、
これは、化学工場内では架線による運行が危険なためだそうです。
それにしても機関車よりもはるかに大きい電源車。
機関車を動かすのも容易ではないんですね。





三池炭鉱

電源車に搭載されたバッテリーボックスの中には、
小分けされていくつものバッテリーが埋め込まれています。

三池炭鉱の電気機関車はいずれも、
なんの文化財にも登録されていないようですが、
これだけの状態で保存されているのはとても珍しいと想います。
是非とも保存して、後世に伝えて行って欲しいと想います。



【三池鉄道の保存機関車群】

修理工場と保存基地は、
いずれも11月最初の週末の一般公開の日に、
同時に公開される様です。
私も、この記事の撮影は、他の方々と一緒に、
一般公開の日に撮影させて頂きました。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #20:三池港

2014-02-14 05:20:29 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は三池港の諸施設です。

三池港は明治35年(1902)に團琢磨の指導のもとで着工。
團琢磨は三池港の築港に祭し、以下の様に述べています。

「石炭山の永久などという事はありはせぬ。
無くなると今この人たちが市となっているのがまた野になってしまう。
これはどうも住民の救済の法を考えて置かぬと
実に始末につかぬことになるというところから、
自分は一層この築港について集中した。
築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起こすことができる。
石炭が無くなっても他処の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。
築港をしておけば、何年もつかしれぬけれども、
いくらか百年の基礎になる」

その言葉通り百年経った今も、
三池港は大牟田市の重要な施設として活躍しています。





三池炭鉱

三池港の諸施設の中でも最も重要なものの1つが、
「閘門(こうもん)」と呼ばれる水位調節扉です。
元来潮の干満が激しい大牟田湾で、
干潮時にも石炭積出用の大型船舶を停泊出来るようにと、
開閉式の扉を設置することで、
港内の水位を維持出来るようにした施設です。

画像は遊覧船からの光景。
この日は満潮に近かったため、
閘門が閉まることはありませんでしたが、
干潮時にはいまでも開閉が行なわれ、
港内の水位を調整しているようです。





三池炭鉱

堤防にしっかりと収まっている閘門の片側の上部。
閘門は築堤によって狭くなった場所の両側から真ん中に向かって開閉し、
中央で閉じ合わさると、水の出入りがなくなる構造です。





三池炭鉱

閘門が開いている時には、
閘門の手前にあるスライド式通路で、
対岸と行き来します。
手前に写るのが両側から伸びる途中のスライド式通路。
画像奥に写る青い4本の柱の部分が閘門の一方の扉部分です。





三池炭鉱

閘門に隣接する事務所内にあった閘門の施設図。
図の上が内湾側、下が外海側です。
中央に、右の閘門だけ開閉の様子が描かれています。
また上の画像のスライド式通路は、
この画像の下部に描かれた横一直線の構造のところです。





三池炭鉱

隣接する事務所は木造で、
敷地内に立つレトロな鉄塔とともに、
日本離れした雰囲気を醸し出しています。





三池炭鉱

現在、閘門は三池港物流株式会社が管理していますが、
今でも○に井桁と三の三井のマークが残り、
團琢磨の百年後の構想が今も息づいていることを伝えています。





三池炭鉱

建屋の中には、閘門を開閉するための水圧ポンプがあります。
このポンプも明治時代のものだそうですが、
今でも現役で、カタカタと軽快な音をたてて駆動するその様子は、
小さいながら産業遺産の風格を充分に出しています。







三池炭鉱

閘門のすぐ南に位置する堤防沿いには、
「大金剛丸」というクレーン船が停泊しています。
明治38年(1905)に三池へやってきた、
三池港築港のために活躍したクレーン船です。

クレーンの機動部分はイギリス製で、
石炭による蒸気機関で動くそうですが、
100年以上経った今でも現役というのには驚かされます。





三池炭鉱

大金剛丸のすぐ隣には、
バンカー炭(船舶で焚く用の石炭)の積み込み桟橋も残っています。







三池炭鉱

大金剛丸からさらに南へ行くと、
「長崎税関三池税関支署」があります。
三池港開港と同時に作られた税関ですが、
国内に残存する税関の建屋は少なく、
三池港とともに三池の足跡を今に伝える、
貴重な建物だと想います。

なお、
税関支署は平成22年(2010)に市の文化財に登録され、
現在のものは、かつての姿に復元されたものです。





三池炭鉱

税関支署のすぐ近くには、
かつて港に縦横無尽に走っていた、
炭鉱鉄道の軌道跡が残っていました。

なお、税関支署以外の三池港の諸施設は、
文化財には指定されてはいませんが、
昨年世界遺産への推薦が出された、
『明治日本の産業革命遺産』の構成資産として
リストアップされています。



三池炭鉱

三池港の外海寄りの敷地には、
港沖竪坑と呼ばれる、
以前アップした四ツ山坑関連の施設跡も残っています。
画像は海上から見た事務所棟跡。
昭和40年(1965)に開坑し、昭和62年(1987)まで稼働した竪坑だそうですが、
その櫓の姿は、
このシリーズの一番始めにアップした記事の画像

三池炭鉱

駅前の炭鉱資料館に展示されていた絵画の左奥に描かれています。
もともとは筑豊の田川炭鉱から移設された櫓だそうですが、
竪坑櫓は既に現存せず、
現在では竪坑の右隣に描かれている事務所棟などが、
わずかに残っているだけです。



【三池港】

地図にはこの記事で取り上げた施設の所在地を記入しました。
ただしこの記事で取り上げた施設は、
税関支署の外観以外、特別な許可を頂いて取材したもので、
一般の見学は受け付けていません。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #19:三川坑

2014-02-12 01:44:46 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
坑口施設の最後は三川坑です。

これまで沢山の三池の坑口をアップして来ました。
江戸時代から操業する龍湖瀬坑や生山坑、
明治初期の官営時代の大浦坑、七浦坑、宮浦坑、
そして三井三池炭鉱の黄金期を築いた、
勝立坑、宮原坑、万田坑、四ツ山坑、
そして最後に操業していた有明坑。
しかし、今回の三川坑は、
戦後最大の労働争議の舞台となった坑口でもあり、
また戦後最大の産業事故が起きた場所でもあり、
三池炭鉱の足跡という枠を越えた歴史的意味を持つ、
最も重要な坑口施設と言っても過言ではないと想います。





三池炭鉱

三川坑は第二次世界大戦の前夜、
昭和15年(1940)年に開削された坑口で、
その後閉山までの主力坑でした。
戦後、石炭増産政策のもとでは、

現在、文化財などの対象とはなっていませんが、
その多くの施設が現在でも残存しています。
その門は、永く閉ざされていましたが、
一昨年(2012)の秋、初めて一般公開されました。





三池炭鉱

草むらの中にひっそりと残る三川坑の施設群。





三池炭鉱

事務所跡。
さすがに最後まで操業していただけあって、
施設に歴史の趣はありません。





三池炭鉱

事務所を越えて暫く進むと、
小さな売店の跡の様にも見える建物がありますが、
実はこれが入坑口の跡です。
このシャッターの奥に階段があり、
斜坑の坑口へと繋がっていました。
今でも坑口までの通路はそのまま残っているそうです。





三池炭鉱

入坑口を左に見ながら通路は右折します。
そしてその奥にあるのは繰込場。
繰込場とは入坑する前の点呼などをとったり、
その日の作業の安全を祈ったりなど、
いわば入坑の準備室みたいなものです。





三池炭鉱

繰込場の建物は、最初の事務所とかとは違い、
完全な木造で、その時間経過の永さを感じさせてくれます。





三池炭鉱

外階段も全て木造です。





三池炭鉱

さらに奥へ進むと炭鉱風呂のあった建物も残っています。
勿論、風呂も残っているそうですが、
この見学の日、内部までは公開していませんでした。





三池炭鉱

浴場から小さなトンネルを抜けて更に奥へ進むと、
圧気室も残っています。
圧気室とは、坑内で使用する圧縮空気を製造する場所です。
こちらも事務所棟と同様、建屋はあまり趣がありませんが、





三池炭鉱

内部には沢山のコンプレッサーが残存し、





三池炭鉱

そのルックスは圧巻です。
ただ、屋根が一部崩落していて、
放置するとコンプレッサーも錆び付いてしまうと想うので、
なるべく早く屋根の修理はした方がいいと想いました。





三池炭鉱

繰込場や圧気室等はコの字型に配置されていて、
それらに囲まれた真ん中にトロッコの点検場があります。
この画像はトロッコの点検場を坑口とは反対方向に見ていますが、
振り返るとその先に、



三池炭鉱

歴史のオーラを強烈に放つ第二斜坑の坑口が見えます。
当然坑道は塞がれているものの、
坑道手前の建屋が残っているので、
坑道と繋がる斜坑の操業時の雰囲気がとてもよく伝わります。





三池炭鉱

坑口の付近には沢山のトロッコや人員運搬用の車輛が、
錆び付いた状態で横たわっています。





三池炭鉱

三川坑初の一般公開ということで、
この日は、沢山の報道陣も取材に訪れていました。
同時に、この三川坑でお仕事をされた方々も、
沢山いらっしゃっていました。
そこら中でインタビューが行なわれていたので、
否が応でもその会話が耳に入って来ましたが、
その多くは炭塵爆発に触れたものが多かった様です。





三池炭鉱

トロッコや圧気室の屋根に限らず、
その多くの施設の老朽化は否めません。
三川坑は三池炭鉱最後の生き証人として、
是非とも保存し、
その意義を後世へ伝えてもらいたいと想います。




【三川坑】

福岡県大牟田市三川町
地図をご覧になってもお分かりの様に、
現在でも敷地内には沢山の施設が残っています。
また2014年以来、毎年11月の第一週末には、
一般公開されている様です。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #18:勝立坑

2014-02-11 18:52:15 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は勝立坑です。

三池炭鉱

前回までは官営時代に開削された竪坑をアップして来ましたが、
今回からは三井時代に開発された竪坑です。
写真は明治31年(1898)の勝立坑。
勝立坑は元来官営時代に着手されていましたが、
三池炭鉱の最大の大敵である大量の地下水に阻まれ、
結局操業することは無かった竪坑でした。

それを三井の時代になって、
團琢磨が当時国内最大であるデビーポンプを導入することで、
湧き水問題を克服し、操業に至った竪坑でした。





三池炭鉱

デビーポンプ原動部分の据付けと題された写真。
デビーポンプに関しては既に沿革~後編や宮原坑の記事でお伝えしましたが、
写真に写る竪坑櫓の手前側のものがデビーポンプだと想います。

また、写真に写る竪坑櫓は、
現存する万田第二竪坑や宮原第二竪坑の櫓のように、
細かな鉄骨の組み合わせではなく、
シンプルな鉄骨構造の櫓だったことが分かりますが、
現存しない宮原の第一竪坑もまた同様の構造の櫓ででした。





三池炭鉱

沿革~後編の記事でもアップしましたが、
改めて当時国内最大だった勝立坑のデビーポンプ。





三池炭鉱

写真は昭和14年(1939)の勝立二坑跡俯瞰と題された写真。
勝立坑は第一竪坑が明治28年(1895)、
その第二竪坑が翌年に始動し、
昭和3年(1928)まで操業した竪坑でしたが、
実は第二竪坑は、
昭和23(1948)年に一度再開坑され、
再び昭和25(1950)年に再閉坑されています。
その理由はわかりませんが、
勝立坑は操業が終わったあとも閉坑せずにいたので、
戦後の一時期、再開坑出来たのだと想います。

一般的に明治時代の竪坑は四角く造ることが多いですが、
この竪坑の跡は円形をしています。





三池炭鉱

写真は昭和14年(1939)の勝立坑跡竪坑櫓台座と題された写真。
1つ上の写真を見ると、第二竪坑の周囲には、
壁状の構造物が隣接していますが、
この写真の周囲には、壁状のものが隣接していないので、
この竪坑は第一竪坑の跡ではないかと想います。

写真を見る限りこの竪坑も閉塞していないように見えます。
またこちらの竪坑は四角い穴のように見えます。





三池炭鉱

現在の勝立坑第二竪坑跡。
(大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
現在では第二竪坑の基礎部分の一部が残るのみです。
コンクリートの塊の下部を見ると、
煉瓦造りのアーチ状の構造が見えますが、
これがおそらく2つ手前の写真の、
右寄りに写る部分だと想います。



【勝立坑】

福岡県大牟田市新勝立町
ここも今回の見学では訪れていないので詳細はわかりませんが、
竪坑の基礎までは近づける様です。
google map の航空写真を見ると、
四角い構造物がはっきりと分かります。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #17:七浦坑

2014-02-09 02:30:36 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は七浦坑です。

三池炭鉱

七浦坑は、明治16年(1883)に稼働開始した、
大浦坑に継ぐ官営時代の主力坑で、
その後第二竪坑と第三斜坑が造られ、
昭和6年(1931)まで稼働した坑口でした。

約40年稼働した七浦坑から産出した石炭は、
主に上海に輸出、外貨獲得に貢献したそうです。

写真は大正末期の七浦坑ですが、
少し珍しい形の竪坑が写っています。
また高さのある4本の煙突や、
煉瓦造りの建屋も幾つも見え、
規模の大きな坑口施設だったことが伺えます。





三池炭鉱

写真は現在の七浦坑第一竪坑巻上機室。
(大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
現在では、第一竪坑巻上機室の建屋や、
竪坑の煉瓦囲いおよび櫓の一部が残存。
最初の写真に写る竪坑櫓が第一竪坑ならば、
その左隣に移る、屋根が開いている建物が巻上機室なので、
おそらく現存する建物だと想います。

前回アップした大浦坑は、
既に官営時代の施設は残存していませんが、
七浦坑の巻上機室はまさに官営時代のものなので、
是非とも残って欲しいものです。

また、官営の時代には、
これまでアップして来た大浦坑、七浦坑、宮浦坑の他にも、
三池炭鉱で最初に坑底(坑道の一番深い所)に排水用ポンプを設置した、
明治10年(1876)操業開始の三ツ山坑や、
大浦坑などの坑内排水坑として、
明治20年(1886)から操業開始する早鐘坑など、
多くの坑道が造られていました。



【七浦坑】

福岡県大牟田市合成町
今回は時間がなく見学出来ませんでしたが、
いずれ機会があれば見てみたいと想います。
『筑後の近代化遺産』(弦書房刊)によると、
許可を求めれば見学出来る様に書いてありますが、
詳細はわかりません。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #16:大浦坑

2014-02-08 03:23:37 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回はこのシリーズの最初の頃の三池炭鉱 #03:沿革~後編の冒頭で触れた大浦坑です。

三池炭鉱

明治6年(1873)、官営となった三池炭鉱で、
最初に洋式の炭鉱技術を投入して開削されたのが、
大浦坑でした。
画像は沿革の記事でもアップしました、
『筑後地誌略』に掲載されている官営時代の大浦坑の様子。
※画像はクリックで拡大します
左右のページが一連の場所を表したものなのか、
それとも異なる場所を表したものかは判別しがたいですが、
右頁の蒸気機関で動く巻上機から伸びるワイヤーが、
左頁の斜坑のトロッコに繋がっていると考えると、
途中、多少の省略はあるものの、
一連の場所を表したものではないかと想います。

右頁を見ると、空の炭車は人が押し、
石炭を搭載した炭車は馬が引いているのが見てとれます。
また、右頁の煙突の裏では、
露頭した石炭を手掘りで採掘している様子などが描かれ、
官営時代の炭鉱の様子がわかります。





三池炭鉱

「大浦坑 官営時代の少年労働」と題された写真。
囚人労働が行なわれていたことは龍湖瀬坑の記事でお伝えしましたが、
囚人に限らず、少年も沢山労働力として使われていたんですね。





三池炭鉱

明治22年(1889)の大浦坑。
木造の立屋が建ち並ぶ坑口付近の様子。
明治22年と言えば、三池炭鉱の経営が、
官営から三井になった年。
おそらく官営時代からあった大浦坑を、
三井が記録として撮影したものではないでしょうか。





三池炭鉱

明治31年(1898)の大浦坑。
手前には軌道を走る炭車も写り、
奥の施設からは至る所から蒸気が立ち上っています。
まさにスチームパンク時代の炭鉱の様子ですね。

その後明治40年(1907)に第二斜坑が開削され、
二本の斜坑体制で採掘されましたが、
大正15年(1926)にその役目を終えます。





三池炭鉱

昭和44年(1969)の大浦坑斜坑口。(高木尚雄氏撮影)
大浦坑は戦後一時期復活し、
昭和31年(1956)まで使われて時期があったようです。
なので、昭和44年でも、写真の様に、
そこそこ奇麗な姿て残っていたのだと想います。





三池炭鉱

尚、大浦坑の坑口は2つとも現在でも残存しています。
ただし、市の一般廃棄物最終処分場の敷地内のため、
普段見ることはできません。
画像の右奥に閉塞された坑口の跡があるそうです。
この時は時間もなく、坑口まで見ることはありませんでしたが、
市役所に申請すると見学も可能な様です。

フクダジマ探検記様のサイトページに大浦坑を見学された様子がアップされています。
両坑口の現在の様子もアップされていますので、
是非ご覧下さい。





三池炭鉱

また、以前にアップした三井港倶楽部の記事で触れた、
敷地内の残る『大浦坑遺址』は、
大浦坑で使われていた捲座の礎石、
および明治14年(すなわち官営時代)に造られた油小屋の煉瓦、
を用いて、大浦坑の記念碑として造られたものだそうです。

既に、コンクリートで塞がれ、
往時を偲ぶにはあまりにも姿を変えてしまっていますが、
官営時代の三池炭鉱を今に伝える遺構として、
是非とも残ってもらいたいと想います。



【大浦坑】

福岡県大牟田市大浦町
道が行き止まりになっている所までは行け、
金網越しに坑口を確認することは可能です。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #15:生山坑

2014-02-07 02:09:50 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
現存してはいるものの、まだ文化財等に指定されていないもの、
すなわちいつ解体されてもおかしくないが、
活動の如何によっては、
文化財として後世に伝えられる可能性のあるものをアップしていきます。

その2つめは生山(いもうやま)坑です。

三池炭鉱

前回アップした龍湖瀬坑同様、
江戸時代に既に藩営の坑道として開削されていた坑口です。
画像の左寄りに全開アップした龍湖瀬坑、
右寄りの高取山の麓付近に生山坑がありました。
生山坑も龍湖瀬坑同様、
明治時代に入って官営の時代になっても創業した坑口でした。





三池炭鉱

現在では坑口などは殆どわかりませんが、
鬱蒼と茂る薮の中に、
他の古い時代の坑口にはない貴重な施設が残存しています。
「登治焼場」(とじやきば) と呼ばれる、
石炭を蒸し焼きにした施設の跡です。





三池炭鉱

殆どただの雑木林にしか見えない薮の中に、
確かに言われてみると、焼けこげた跡のある、
煉瓦造りの構造物が確認出来ます。
おそらく天井部分は崩落し、
左右の壁面だけが残存しているのだと想いますが、





三池炭鉱

左右の壁面の外壁部分を見ると、
小規模な煙突が立っていたであろうと想われる窪みが、
いくつも確認出来ます。

生山坑の詳細はまだ殆どわかっていない様ですが、
藩営から官営時代の三池を今に伝える、
とても貴重な遺産だと想います。

尚、生山坑は現在私企業の私有地内にあるため、
一般の見学はできません。
画像も大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様を通して
許可を頂いて撮影したものです。

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三池炭鉱 #14:龍湖瀬坑

2014-02-06 03:24:31 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
これまで三池炭鉱の施設の中で、
既に文化財として保存されているものと、
逆に、保存活動もむなしく失われてしまったものをアップして来ました。
これからは、現存してはいるものの、
まだ文化財等に指定されていないもの、
すなわちいつ解体されてもおかしくないが、
活動の如何によっては、
文化財として後世に伝えられる可能性のあるものをアップしていきます。

三池炭鉱

このシリーズの最初の頃の沿革で既にお伝えした通り、
三池炭鉱は江戸時代にかなりの発展を遂げていた炭鉱でした。
それにともなって、江戸時代に既に多くの坑口も造られていました。

そしてそれら江戸時代の坑口は、
現在の大牟田市の中でも内陸の位置に造られていました。
石炭発見伝説の残る稲荷山(とおかやま)も、
地図の左上に描かれています。
江戸時代、この地域には石炭が地表に露出した場所(露頭)が多くあり、
その露頭をたよりに掘り進んだために、
このエリアに坑口が集中しています。





三池炭鉱

その後明治の官営の時代を経て、
三井の時代になるにつれて、坑口は徐々に西へ、
すなわち大牟田湾へ向かって造られて行きます。
図を見ると、坑口が東から西へ行くに従って、
時代が下っているのが分かると想います。
これは、石炭の層(炭層)が、
江戸時代に掘削していたエリアから、
西に向かって続いていたためです。





三池炭鉱

さて、そんな江戸時代から開削されていた坑口の1つ、
一番上の画像にもある龍湖瀬坑は、
現在でもその遺構がちらほらと残存しています。

画像は坑口のあった付近と想われる場所です。
画像からはその構造がよくわかりませんが、
実際に見ても、よくわかりません。
ただ、人工で造られた石の構造物が配置されているので、
明らかに何らかの施設があったのだと感じるだけで、
それも半分崩れ、植物に浸食されているので、
もはや施設の全貌を伺い知ることはできません。





三池炭鉱

また両側を石垣で築堤した構造も見られます。
これは、採掘した石炭を大牟田湾まで運搬するための、
運搬道路の一部かと想われますが、それもはっきりしません。
ただし、この石垣の構造物は、かなり長い距離に渡って残存しています。





三池炭鉱

唯一分かるのは、近年惜しくも自然崩壊してしまった
山の神祭祀跡です。
これは確かに、ここに祠があったのだと確認出来ます。





三池炭鉱

祠の手前には、既にその形がかなり変わってしまっていますが、
狛犬だっただろうと想われる構造物も残っています。





三池炭鉱

また祠の敷地内には、
「露頭坑 職員 従業員 一同」と彫られた手水があります。
裏側には「昭和十四年三月」とあります。
ご案内頂いた大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方のお話だと、
戦時体制に備えて、
このエリアの残存していた露頭の石炭も採掘したのだろう、
ということでした。

江戸時代の多くの坑口が、
いまではその姿を留めていない中、
この龍湖瀬坑がこうして残存しているのは、
戦中まで掘削が行なわれていたことによるのかも知れません。



なお、この龍湖瀬坑は、
官営の時代になっても使われていた坑口で、
坑口の付近に監禁所を設けては県内の囚人を収容し、
石炭の採掘および運搬の使役として使っていたそうで、
これが三池炭鉱の囚人労働の始まりと言われています。

江戸時代から官営、
そして戦時下の時代の記憶を残す龍湖瀬坑は、
その地味なルックスとは裏腹に、
三池炭鉱にとってはとても重要な遺構だと想います。



【龍湖瀬坑】

福岡県大牟田市龍湖瀬町
地図はだいたいその辺といったアバウトなものですみません。
現地へ車で行ったので、正確な場所を覚えていないので。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #13:ダンクロ・ローダー

2014-02-05 04:13:14 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
惜しくも解体されてしまった施設の最後は、
三池炭鉱の生みの親、團琢磨にも所縁が深いダンクロローダーです。

三池炭鉱

明治44年(1911)に製造された高速石炭船積機。
開発者の團琢磨と黒田恒馬の頭文字をとって、
「ダンクロ」の愛称で親しまれたローダー。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
その愛称と特徴的なルックスは印象深く、
いつか三池を訪れたら、必ず見ておこうと想っていた施設でした。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
しかし、平成16年(2004)に、保存活動も虚しく解体されてしまいました。
解体のニュースは大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方々の、
ブログやSNSの記事で知りましたが、
とてもショックだったのを今でも覚えています。

四ツ山坑、有明坑、そしてこのダンクロ・ローダーは、
いずれも三池炭鉱の、ひいては国内の産業の発展の過程を記憶に留める、
貴重な産業遺産だったと想います。

しかし一度解体されてしまった施設は、
二度ともとには戻りません。
それは産業の記憶と文化を消し去ってしまうことに、
ほかならないと想います。



【ダンクロ・ローダー跡地】

福岡県大牟田市新港町
地図はかつてダンクロ・ローダーがあった場所。
現在ではほとんどの施設が解体されています。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #12:四ツ山坑

2014-02-04 02:41:55 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
惜しくも解体されてしまった施設の2つ目は、
その櫓の形がとても特徴的だった四ツ山坑です。

三池炭鉱

大正12年(1923)に開削された、
三池炭鉱では中期に活躍した坑道の四ツ山坑は、
なっといってもその竪坑櫓の形が際立っていました。
ワインディングタワー式と呼ばれる竪坑櫓で、
志免炭鉱、真谷地炭鉱、中興鉱業、羽幌炭鉱、
そしてこの四ツ山とあわせて、
国内では5基しか造られなかった形の櫓の1つです。

ワインディングタワー式の竪坑櫓に関しては、
以前アップした志免炭鉱の記事で触れているので、
そちらをご覧下さい。

志免鉱業所竪坑櫓 #02

四ツ山坑は昭和40年(1965)まで稼働しました。
その後タワー櫓は残っていましたが、
保存の声も届かず、惜しくも平成8年(1996)に解体されました。
それは三池炭鉱閉山の前年でもありました。





三池炭鉱

(画像は大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
現在はその基礎が残るばかりで、
華麗なワインディングタワーの姿を見ることはできません。
この櫓は、三池炭鉱だけではなく、
国内の炭坑史の中でも貴重な技術として存続しても良かったしせつなので、
こうして亡くなってしまったことを思うと、
とても残念です。



【四ツ山坑跡】

福岡県大牟田市新四ツ山
地図はかつて有明坑があった場所。
四山坑はほとんどの施設が解体されています。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #11:有明坑

2014-02-03 01:50:31 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
これまで国や県などから文化財として指定され、
ちゃんと保存されている遺構をアップして来ましたが、
これからは惜しくも解体されてしまった遺構を少しアップします。

まず最初は「有明坑」です。
このシリーズをアップする切っ掛けは、一昨年の夏、
有明坑竪坑櫓の最後の姿を見学に行ったことに端を発します。

三池炭鉱

江戸時代から数多坑道を開削して来た三池炭鉱にとって、
有明坑はほぼ最後に稼働した坑道でもあります。
もともと日鉄が開発していたものの、
技術力が追いつかずに断念したものを三池が買収した坑道でした。
三池はその技術力でなんなく着炭し、
昭和51年(1976)に創業を開始します。

その後四ツ山坑、三川坑(共に後日の記事で触れます)とともに、
三池の終盤期をささえる主力坑道となり、
昭和64年(1989)からは、それらを統合した三池坑の、
メインの坑道として閉山まで稼働しました。





三池炭鉱

三池炭鉱の閉山後、
有明坑は周辺施設とともに残存していましたが、
やがて様々な施設は解体され、
最後まで残っていたシンボルである2つの竪坑櫓も、
一昨年の夏に解体されてしまいました。

この画像はその解体直前の見学会の時に撮影したものです。
大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブが主催の見学会に参加させて頂き、
初めて有明坑を実際に見たわけですが、
それは解体直前の姿でもあったわけです。





三池炭鉱

第一竪坑の櫓は俗に合唱型とも呼ばれる、
シンメトリーな形をした櫓で、
その形は世界遺産にも登録されている、
炭鉱の竪坑櫓としてはおそらく世界で一番知名度の高い、
ドイツのツォルファアイン炭鉱の第12竪坑にも似た形をしています。





ツォルファアイン炭鉱第12竪坑櫓

ツォルファアイン炭鉱の第12竪坑櫓





三池炭鉱

またすらりとした外観の第二竪坑の櫓は、
長崎県の池島炭鉱に現存する、
第二竪坑櫓ににた形をしたもので、
第一と第二、ともに三池炭鉱の最後の炭鉱技術を伝える、
貴重な遺産でした。





池島炭鉱

池島炭鉱の第二竪坑櫓。





三池炭鉱

有明坑竪坑櫓の保存活動は、
解体の話が持ち上がってから始まったものでした。
しかし、それはあまりにも遅すぎた行動でもありました。
結局保存活動は実ることなく、
2つの巨大な櫓はあっけなく解体されてしまいました。



【有明坑跡】

みやま市高田町昭和開
地図はかつて有明坑があった場所。
有明坑は全ての施設が解体され、
さらにその敷地は企業の私有地となっています。

三池炭鉱

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三池炭鉱 #10:三川電鉄変電所

2014-02-01 01:36:17 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
保存されている施設の最後は、三川電鉄変電所です。

三池炭鉱

以前にアップした三池港倶楽部からほど近いところにある、
重厚な煉瓦造りの細長い建物は、
かつて三池の炭鉱鉄道の変電所でした。





三池炭鉱

明治40年(1907)に隣接地に建設された発電所の創業を受けて、
明治42年(1909)に、鉄道用の変電所として建てられたものだそうです。
ということは築105年になりますか。
しかし、現存する煉瓦の外壁を見る限り、
とても100年以上も経っているとは想えない程奇麗です。





三池炭鉱

実はこの建物は三池炭鉱の閉山に伴いその役割を終え、
解体の危機に瀕した建物でした。
しかし、
三池炭鉱の電気工事の仕事を請け負っていた会社<サンデン>が、
仕事を通じて建物の価値を知り、また愛着もあることから、
異例の企業買い取りによって現存保存されることになった、
極めて珍しい建物です。

上部の小窓にはステンドグラスがはめ込まれていますが、
まあ、これは当然炭鉱時代からのものではなく、
サンデンの社長さんの奥さんの趣味と聞きました。

果たしてステンドグラスが入っているのがいいかどうかは別にして、
港倶楽部同様、三池には公共ではない機関が働きかけ、
保存された建物があることが分かります。

ちなみにこの建物は、
国指定の登録文化財です。



【三川電鉄変電所】

大牟田市新港町 1-30
敷地外からは常時見学可能。
内部見学は電話申し込みで。
株式会社サンデン 0944(57)6435

三池炭鉱

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