かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図下辺寄りの、信濃町からJR線沿いに歩きました。
今回は、JR線の下を越えて寺が密集する地域へ北上し、
もう一つの横線のエリアである若葉地区を見ていきます。
地図に点線で記入した道は、坂道を表しています。
前回アップした左下の千日坂をはじめ、
鮫ヶ橋のエリアには多くの坂が点在し、
その谷底に貧民窟が広がっていたのがわかります。
また、地図の右下にあるように、
貧民窟は東宮御所に隣接もしていました。
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首都高新宿線とJR線の架道橋のすぐ近くには、せきとめ神社があります。
かつて川筋があった時代、川に流れるゴミをこの場所で除去して、
綺麗な水を東宮御所へ通水するための沈殿池に因んだ神社です。(概略地図:4)
境内(というほどの規模ではありませんが)には、
鮫河橋の地名発祥の石碑と鮫河橋せきとめ神の石碑があり、
隣接する子育て地蔵尊を祀った、これまた猫の額ほどの境内には、
鮫河橋界隈の由来を記した雑誌や季刊誌の切り抜きが掲示されています。
そもそも、若葉といわれる土地が、なぜ鮫河橋と呼ばれたのでしょうか。
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『江戸名所図絵』にも描かれている鮫河橋は、
かつて東京湾の入江が深かった頃、
この付近でも鮫が遡上するのを見られたことや、
目が青白い魚目馬(さめうま)が死んだことなど、
その由来は、はっきりしていません。
「鮫ヶ橋」や「鮫馬が橋」と書かれることもありますが、
いずれにせよ、せきとめ神の付近に橋があったことは確からしく、
界隈を流れていた桜川に掛かっていた橋の名称に由来するようです。
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現在、行政上の地域区分に鮫河橋の名はなく、
上記の鮫河橋名称由来の碑やJRの架道橋(概略地図:5)などに、
その名称の名残を見るだけです。
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JRの架道橋を超えて北へ進むと、
すぎに出羽坂の麓へと出ます。(概略地図:6)
千日坂に比べると、傾斜は緩やかな坂ですが、
それだけ距離が長いので、
結果として、千日坂と同じくらいに高低差があるのでしょう。
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鮫河橋の地域には、江戸中期の頃、
すでに多くの人が住んでいましたが、その多くが間借りによる職人で、
夜ともなれば夜鷹をはじめとした地位の低い私娼が徘徊する岡場所でもありました。
(概略地図:8)
元々そういった磁場を持つ土地だったうえに、
明治の中期から多くの貧民が集住したのには、
靖国通りを挟んで北側にあった、
陸軍士官学校(現防衛省)に負うところが大きかったようです。
士官学校から出る残飯を貰い受けて販売する残飯屋があり、
貧民窟の人々は、ひがな残飯を食べて、食いつないでいたといいます。
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出羽坂の麓には二葉南元(ふたばなんげん)保育園があります。(概略地図:7)
1900年(明治33年)の開園当時は「二葉貧民幼稚園」といい、
貧民窟に住む人々を、幼児の教育によって救済しようとした、
東京で最初の私立幼稚園でした。
どん底の貧民窟にあって、唯一の希望の光だったかもしれませんね。
鮫河橋で唯一貧民窟の記憶を今に伝える施設です。
続く
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図下辺寄りの、信濃町からJR線沿いに歩きました。
今回は、JR線の下を越えて寺が密集する地域へ北上し、
もう一つの横線のエリアである若葉地区を見ていきます。
地図に点線で記入した道は、坂道を表しています。
前回アップした左下の千日坂をはじめ、
鮫ヶ橋のエリアには多くの坂が点在し、
その谷底に貧民窟が広がっていたのがわかります。
また、地図の右下にあるように、
貧民窟は東宮御所に隣接もしていました。
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首都高新宿線とJR線の架道橋のすぐ近くには、せきとめ神社があります。
かつて川筋があった時代、川に流れるゴミをこの場所で除去して、
綺麗な水を東宮御所へ通水するための沈殿池に因んだ神社です。(概略地図:4)
境内(というほどの規模ではありませんが)には、
鮫河橋の地名発祥の石碑と鮫河橋せきとめ神の石碑があり、
隣接する子育て地蔵尊を祀った、これまた猫の額ほどの境内には、
鮫河橋界隈の由来を記した雑誌や季刊誌の切り抜きが掲示されています。
そもそも、若葉といわれる土地が、なぜ鮫河橋と呼ばれたのでしょうか。
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『江戸名所図絵』にも描かれている鮫河橋は、
かつて東京湾の入江が深かった頃、
この付近でも鮫が遡上するのを見られたことや、
目が青白い魚目馬(さめうま)が死んだことなど、
その由来は、はっきりしていません。
「鮫ヶ橋」や「鮫馬が橋」と書かれることもありますが、
いずれにせよ、せきとめ神の付近に橋があったことは確からしく、
界隈を流れていた桜川に掛かっていた橋の名称に由来するようです。
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現在、行政上の地域区分に鮫河橋の名はなく、
上記の鮫河橋名称由来の碑やJRの架道橋(概略地図:5)などに、
その名称の名残を見るだけです。
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JRの架道橋を超えて北へ進むと、
すぎに出羽坂の麓へと出ます。(概略地図:6)
千日坂に比べると、傾斜は緩やかな坂ですが、
それだけ距離が長いので、
結果として、千日坂と同じくらいに高低差があるのでしょう。
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鮫河橋の地域には、江戸中期の頃、
すでに多くの人が住んでいましたが、その多くが間借りによる職人で、
夜ともなれば夜鷹をはじめとした地位の低い私娼が徘徊する岡場所でもありました。
(概略地図:8)
元々そういった磁場を持つ土地だったうえに、
明治の中期から多くの貧民が集住したのには、
靖国通りを挟んで北側にあった、
陸軍士官学校(現防衛省)に負うところが大きかったようです。
士官学校から出る残飯を貰い受けて販売する残飯屋があり、
貧民窟の人々は、ひがな残飯を食べて、食いつないでいたといいます。
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出羽坂の麓には二葉南元(ふたばなんげん)保育園があります。(概略地図:7)
1900年(明治33年)の開園当時は「二葉貧民幼稚園」といい、
貧民窟に住む人々を、幼児の教育によって救済しようとした、
東京で最初の私立幼稚園でした。
どん底の貧民窟にあって、唯一の希望の光だったかもしれませんね。
鮫河橋で唯一貧民窟の記憶を今に伝える施設です。
続く
前にコメントを書かせていただいてた者です。
江戸後期から明治初期に
来日した欧米人が見た日本については、
渡辺京二著『逝きし世の面影』も
おすすめです。
地名に歴史が刻まれてますよね。
市町村合併などで、地名がなくなりつつあるのは、歴史隠蔽の意図もあるのではないかと思います。
江戸後期から明治初期の欧米人が観たニッポン!
是非読んでみたいと思いました。
「歴史隠蔽の意図」は、
貧民窟や遊廓街などの記憶を残さない、
という意味でよろしいでしょうか。
(一応)負の歴史と言われるエリアの地名変更はわかりますが、
そうでない地域の地名もどんどん変わってしまいました。
なんとなく歴史の無い国に住んでいる気分になります。
貴重なお話をありがとうございました。