黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

軍艦島の建築的装飾 #01

2021-07-24 03:22:21 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。



軍艦島に林立する炭鉱アパート群は、
大正時代から昭和45年頃までの、
50年以上にもわたる長い年月の間に建設されました。

国内初の鉄筋コンクリートによる集合住宅をはじめ、
鉄筋と木造を融合した構造や階段室型、そして雁行型など、
その多くが当時最先端の技術で建造されていますが、
かたやデザインや装飾に関してみると、
ほとんど無いといってもいいのが軍艦島の建築の特徴でもあります。



画像は現存する国内初の鉄筋コンクリート造の集合住宅、
1916(大正5)年築の「30号棟」。
内部も含めて、装飾的な要素はいっさい施されてなく、
これは、そのすぐ後に建設された日給社宅も同様です。
初めての試みであると同時に、
第一次大戦の戦時増産に併せた急ピッチでの建設だったからではないでしょうか。





また、画像は島最頂部に建つ3号棟ですが、
やはり内部も含めて装飾的な要素はみあたりません。
3号棟をはじめ、島内に現存する多くの建物は戦後に建設されたもので、
これもまた装飾的な要素がない一因と考えられます。

20世紀の初頭に世界を席巻したモダニズム。
しかし、戦前の日本では一部の先進的な建築家が取り入れただけにとどまり、
当時の多くの建物には、まだなんらかの装飾が施されていました。

戦後になって、ようやくモダニズムの感覚が浸透したのに加えて、
戦後の物資不足が後押しする形で、
日本でもやっとモダニズムが普及していきます。
しかしそれはヨーロッパで誕生した本来のモダニズムではなく、
無装飾の平たい壁に四角い窓と出入口だけという、
モダニズムのエッセンスを“縮小”解釈したものでした。

軍艦島もご多分に洩れず、
戦後に建てられた建物には一切装飾的な要素はなく、
必要最低限の要素だけで構成された、
極めてシンプルなものばかりです。



そんな“味気ない”軍艦島の建築群ですが、
昭和の初期から第二次大戦の頃までの建物には、
かろうじて時代を反映する装飾が施されていました。



まず島内最大の建物である65号棟。
1941(昭和16)年に着工し、第1期工事が敗戦の年に終わった、
別名「報国寮」ともよばれる建物です。
あらゆる物資に乏しかった戦中に、
大量の鉄筋を使用して建造されていることは、
いかに軍艦島の石炭が必要とされていたかを物語るものでしょう。

画像中央に写るのが、昭和20年に完成した、
65号棟のもっとも古い部分で、
軍艦島では珍しい時代を伝える装飾は、
その壁面が出っ張った部分の1階にあります。

当初この出っ張った部分は、
エレベーターを設置する予定だったようですが、
完成間近の戦局悪化により頓挫し、
その後、2階より上は居室に転用されました。
そして1階部分には消防器具室があり、
その腰壁に貼られているのが、なんと!釉薬タイルです。



一見スクラッチタイルに見えますが、
畝幅を微妙に変化させた型を押し付けて作った筋面タイル。
そして綺麗な青緑の釉薬が施され、
さらに焼きムラがとてもいい感じに現れています。
壁面は横並びに、円柱部分は縦並びするなど、
遊び心もある施工です。



こちらは、消防器具室のトイ面にある共同便所入口付近の腰壁。
消防器具室の壁面と同様、釉薬仕上げの筋面タイルが貼られています。

近代建築三代巨匠の一人、フランク・ロイド・ライトが、
旧帝国ホテルの壁面に使用してから普及したスクラッチ系のタイルは、
その多くが戦前に生産され、戦後は下火になります。
敗戦間近の建設なので、スクラッチ系タイルの使用としては遅い方ですが、
それでも丁寧に仕上げられた筋面タイルが、
戦中の建物に使用されていたのには驚かされます。

次回は、もう1棟のスクラッチ・タイルが使われている建物です。


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