黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

佃島の建築3

2018-02-22 04:25:16 | 建築
先日オフ会的に催行した街歩き『東京古埋立地と呑み散歩』で、
久しぶりに訪れた佃島。
今回は、旧佃島に残る、東京の原風景的な建物を観ていきます。
※佃島の概要はこの回の記事を参照



旧佃島(佃島一丁目)は、その歴史の古さに比べて、
現在では、古い街並が遺っていません。
建ち並ぶ民家は昭和の後半から平成にかけて建てられた、
比較的新しい印象のものがほとんどです。
なので、一見古い土地には思えませんが、
大きなビルなどがあるわけではないので、
区画自体は、かなり古い時代からのものだと思います。


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そんな新しい民家が建ち並ぶ佃島も、
東京下町の中で、戦禍をあまり浴びていない地域の一つなので、
時代を超えて遺る素晴らしい建家がいくつか散見します。

画像は、漁師の網元「正政商事」の町家。
新佃島で観てきた出桁造りの町家は、
いずれも壁のトタン張り替えを筆頭に、
格子を外したり、玄関戸をアルミサッシュに変えるなど、
必ずどこかにオリジナルとは異なるリフォームを加えていました。
しかしこの町家は、
型ガラスがはめ込まれた木枠の玄関扉から、
下見板張りの壁面、そして呉服屋格子や屋根瓦など、
主要なパーツは総てオリジナル、
あるいは、オリジナルと同等のものでリフォームされている印象です。

路地の奥へ移動して観ると、のし瓦は8枚位積まれていました。
戸袋も檜の1枚板を使用するなど、
新佃島に残るものより、ワンランク上の町家だとわかります。







雨樋も、大切に使ってきた結果のオリジナルか、
常に銅を使ってリフォームしてきた結果か、
いずれかはわかりませんが、とても綺麗な緑青色で、
赤茶色の建家にアクセントを与えています。
本来必要のない、銛をモチーフにした飾りからも、
この町家の気合いの入り方がうかがえます。







正政商事の路地には、画像のようなシンプルな町家も。
こちらは1階が迫り出していないタイプの町家で、
手摺はアルミ製にリフォームされているものの、
木製の窓枠や下見板張りの壁などは残っています。
おそらく1階の軒先庇は、かつては瓦屋根だったのではないでしょうか。
いずれにせよ、正政商事の懲りに凝った外装と比べると、
いささか安普請の感がいなめません。






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隅田川沿いの道には、
町家よりも豪華な日本建築の小沢家住宅もあります。
鼻隠しや這樋を含めた雨樋など、
銅製部分の緑青が美しいですね。

画像には写ってませんが、
母屋の屋根は入母屋造りで、
それ以外の屋根の構造も、かなり凝った造り。
組跳の高欄も、綺麗に遺っています。

右側の窓格子は、佃島で多く見かける呉服屋格子ではなく正統派の連子格子。
道端の駒寄せは、佃島に限らず、
都内の民家としては、とても珍しいと思います。

一階左の煉瓦壁の部分は、かつての汲取用の扉でしょうか。







小沢家住宅の並びには、佃煮の老舗「天安」もあります。
基本的な出桁造りのこぢんまりとした建家ながら、
屋号をあしらった丸瓦や、ある程度高く積まれたのし瓦など、
それなりに意匠が散りばめられた良品だと思います。







天安の裏、というか正政商事と天安の間に、
少し気になる建家がありました。
佃島に遺る町家が、ほとんど平入り造りなのに対して、
妻入り造りの建家です。
しかし、右橋の平面をよくよく見ると、
タイル張りのこった意匠が確認できます。







天安さんの横の路地を入り、
タイル張りの壁に近づいて確認すると、
かなり凝った造りのスクラッチタイル張り壁面が確認できました。
これは想像ですが、おそらく当初は、
この面に玄関を持つ妻入り造りだったのを、何らかの事情で改装し、
平入り造りになったのではないかと思いました。


佃島の建築2

2018-02-15 14:48:42 | 建築
先日オフ会的に催行した街歩き『東京古埋立地と呑み散歩』で、
久しぶりに訪れた佃島。
2020年には多くの場所が様変わりしてるであろうこのエリアの、
戦前の遺産建築をピックアップしています。
※佃島の概要は前回の記事を参照


→google map

前回の記事でアップした出桁長屋から清澄通りを渡って、
旧佃島の方向へ歩くと、
ほどなくして素晴らしい看板建築が見えてきます。
三軒ならんだ商家はいずれも仕舞屋のようですが、
三軒三様の店構え。







まずは右端の長谷部精米店。
出桁の町家造りにもかかわらず、
戸袋や1階の屋根が銅板製の珍しい町家です。







戸袋は松皮菱模様、
1階屋根の軒先には七宝模様が施され、
とても凝った造りなのがわかります。







さらに特筆すべきは屋根瓦。
前回の記事でも触れたのし瓦の数。
のし瓦とは、屋根の頂点に載るかんぶり瓦の下に積まれた瓦のことで、
かんぶりと併せて十段に積まれているように見えます。
通常の瓦屋根の場合、せいぜい三段前後でしょうか。
こののし瓦の高さは、財力の現れでもあり、
同時に、建物への気合いの現れでもあると聞きます。







真ん中の月島タイヤーさんは、
洗い出し人造石の壁面に、
鎌倉文学館を思い出す瑠璃色のS字瓦を使った庇瓦が特徴的な、
シンプルかつこの時代の一つのスタンダードとも言える看板建築。
因に奥の母屋の屋根を見ると、
長谷部精米店と同様の造りをしているので、
もともと町家造りだったものを、
看板建築に改装したのかもしれません。







最後は左端の中島商会。
1階軒上の看板から最頂部まで、
東京ならではの銅板葺き看板建築。
上部の劣化した箇所を銅板で貼り直した跡が観られます。
暗褐色になっているので、
次期に黒褐色から緑青色へと変化し、
他の部分と同じになるのではないでしょうか。







中島商会の戸袋は長谷部精米店よりも凝った、
重ね亀甲と網代の切り返し模様になっています。
また庇の角にRが取られているのも、
こまかな気配りを感じます。



もともと着物の生地などに使われていた江戸小紋。
それを銅板の戸袋に最初に施した発想には驚かされますが、
思えばヴィトンのモノグラムやダミエも、
日本の家紋や市松模様からヒントを得たもの。
幾何学的な江戸小紋が、洋風を装った看板建築に取り入れられたのは、
自然な流れだったのかもしれませんね。


佃島の建築1

2018-02-14 16:29:28 | 建築
先日オフ会的に催行した街歩き『東京古埋立地と呑み散歩』で、
久しぶりに佃島〜月島へ行きました。
10年前の頃に比べると、なくなった物件も多く、
時の流れを痛感しますが、
かろうじて残存している戦前の建物を、
いくつかとりあげてみようと思います。



佃島は、江戸の初期、
家康が大阪の佃村の村民に領地を与えたことに端を発する、
中州を造成して築造した埋立地で、
北に隣接した石川島とともに、東京湾で最も古い埋立地。



画像は、現在の地図に江戸時代からあった埋立地を重ねたもの。
緑色が御領地、オレンジ色が人足寄場で、この二つが石川島。
そしてピンク色のエリアが佃島。

御領地はやがて幕府の軍艦造船所となり、
明治になって石川島播磨重工へ払い下げられます。
大造船会社「IHI」の名前の由来ですね。

人足寄場とは、
罪人を集めて社会復帰のための職業訓練を行う場所で、
明治に入って石川島監獄署となり、
監獄の移転後は、石川島重工の敷地となります。

地図で、佃二丁目および三丁目と書かれたエリアは、
江戸時代には海だった場所で、
明治27年に、東京湾澪浚(みおさらい)計画によって埋め立てられました。
江戸時代からあった佃島と区別して、
かつては新佃島とも呼ばれていたようです。

現在、石川島の地名は行政上はなくなり、
元来の佃島界隈と石川島の西側が佃一丁目、
新佃島の中央と石川島の東側が佃二丁目、
新佃島の東寄りの狭いエリアが佃三丁目となっています。



それでは新佃島から。
「新」といえど、明治の中頃からの土地。
さらに佃島と月島は、運河が防火の役割を果たして、
戦禍の被害をほとんど受けることがありませんでした。
そのおかげで、戦前の街並が遺る、
東京では珍しいエリアの一つです。


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表通りにあたる清澄通り沿いは、
ほとんどビルに建て替えられていますが、
一本路地を入ると、木造家屋が並ぶ異空間が広がります。
このお宅などは、窓や玄関がアルミサッシュに換えらられている以外、
おそらく創建当時のままの姿で遺っているのではないでしょうか。







上画像の町家造りの二軒長屋の1階を正面から。
左のお宅は、玄関戸も木製のまま。
1階の路面には、綺麗な格子も遺っています。
佃島の格子はこのように、
長い二本と短い二本が交互にしつらえられたものがほとんど。
親子格子と呼ばれる格子の一種だと思います。







その向いには、こんな建家も遺っています。
おそらくこれも、もともとは一つ前と同じ、
出桁の二軒長屋だったのではないかと思いますが、
二階部分を1階の張り出しまでトタンで覆い、
二階の窓を移設したように見えます。
左のお宅は、窓格子が遺っていますが、
右のお宅は二階と同じ鉄製の手摺に変わっています。
そのかわり、玄関引き戸がいずれも木製のまま。
物件によって、劣化する場所の違いがわかります。






→google map

少し歩くと、素晴らしい長屋がありました。
二軒+一軒+二軒の五軒長屋。
右端のヘアーサロンの大幅な改築をはじめ、
ところどころリフォームされてはいるものの、
全体的には創建時の雰囲気を今に伝えています。







真ん中の三軒を正面から。
屋根は、中央のものがオリジナルでしょうか。
屋根の頂点に積む「のし瓦」が意外に高いので、
当初はそれなりにお金をかけた建家だったのだと想像します。
右のお宅は瓦屋根ながら、シンプルなのし瓦、
そして左のお宅は、スレートに変えられてしまっています。

三軒とも二階上部の出桁は、
銅板の鼻隠しを含めて綺麗に遺っています。

二階の壁面は、戸袋を含めて、
下見板張りの右がオリジナルでしょう。

玄関扉の上の明かり窓は中央がオリジナルかと思います。

窓格子は中央と右に遺っていますが、
中央は塗装し直している様子なので、
右がオリジナルかもしれませんね。

リフォームを繰り返しながらも、
かろうじて遺っていてくれると、
震災後の東京の原風景を知る手がかりになると思います。

『東西名品 昭和モダン建築案内』発売記念写真展

2017-05-20 12:20:46 | 建築
『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較

狂騒の20年代建築を、
東京圏と京阪神でテーマ別に17件(合計34件)+α、
コラム調の軽妙洒脱な話と綺麗な写真でまとめた、
『東西名品 昭和モダン建築案内』発売記念写真展を、
郵政博物館@スカイツリータウン・ソラマチで開催中(〜5/31)です。

書内に収録した写真から、選りすぐりの20点を、
A2サイズプリントで展示。
&大丸心斎橋店の原図も展示しています。

5/28(日)12:30〜は、著者、北夙川不可止氏と私の、
トークイベントも予定しています。

スカイツリー見物がてら、お越し下さいませ。

詳しくはこちら>郵政博物館/出版記念写真展掲載ページ

『東西名品 昭和モダン建築案内』発売中

2017-05-11 09:00:49 | 建築
『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較

前回アップした『池島全景 離島の《異空間》』と時間は前後しますが、
今年の1月に『東西名品 昭和モダン建築案内』を上梓しました。

拙ブログ内のカテゴリー建築・都市景観の流れを汲むもので、
その中でも昭和初期、いわゆる20年代と呼ばれる時代に焦点をしぼり、
テーマ別に東京圏と京阪神に現存する建築をそれぞれ1物件ずつ、
各圏から17物件、合計34物件+αを取り上げた書籍。

20年代という時代は大戦間時代ともいわれ、
第一次大戦と第二次大戦の間の、
世情が劇的な変化を遂げた時代。
また、
工業製品が普及し、大衆文化が花開いた時代でもあります。
さらに、日本では関東大震災という未曾有の経験を経て、
国内の建築物が、一気に鉄筋コンクリート化する時代でもあります。

明治以降の西洋建築のコピーの終焉期であると同時に、
戦後のモダン建築の発芽の時代でもある20年代は、
様々なスタイルが交差したまさに建築百花繚乱の時代。

テキストは文化コラムニストで歌人の北夙川不可止氏。
東京圏の一部の物件を私が担当し、
画像は、ほとんどが書籍用の取材での新撮です。

『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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20年代という時代を語る時に、
絶対に外せないキーワードが「アール・デコ」。
1925年にパリで開かれた「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」、
通称「アール・デコ展」に象徴されるデザインの潮流。
そのヨーロッパのアール・デコを最も端的かつ美しく伝えるのが、
旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)です。
アンリ・ラパンのプロデュースのもと、
ラリック、アングラン、シューブといった、
当時最先端の装飾芸術家が一堂に会して創られた館は、
隅から隅まで息をのむ美しさです。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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同じアール・デコでも、
こちらはアメリカンスタイルのアール・デコ
東京の御茶ノ水にある「山の上ホテル」は、
アメリカの建築家ヴォーリズの設計によるもの。
塔屋や正面2階部分の装飾などは、
まさに時代を伝える貴重な建築遺産。
今見てもまったく古さを感じないのは、
ヴォーリズの根底にある、
普遍(不変)的な思想ゆえでしょう。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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ヴォーリズとともに忘れてはならない建築家と言えば、
やはりフランク・ロイド・ライト。
世界三大建築家の一人にも挙げられるライトは、
その普遍性と独自性で、他の追従を許しません。
目白にある自由学園明日館は、
国内に現存する数少ないライトの作品。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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明日館でも多くの部分で設計に参加した遠藤新は、
ライトの遺伝子を受け継ぎながら、
さらに日本の伝統的な建築の融合を押し進めた建築家。
甲子園ホテル(現・武庫川女子大学)の尖塔には、
寺社の塔屋建築が重なります。





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百貨店という店舗形態が国内で始まるのも、やはり20年代です。
日本橋髙島屋の建物は、もともとは百貨店ではなかったものの、
和のテイストをふんだんに取り入れた建築。
大理石の壁面や水飲場といった洋風な造りと、
格天井や釘隠しなどの和風な装飾が見事に融合したデザインで、
百貨店としては国内で初めて、重要文化財に指定されています。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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関東大震災による壊滅的な打撃を教訓に、
大きな震度に耐えうる鉄筋コンクリートの建造物が乱立するのも、
20年代のひとつの特色。
特に小学校は「復興小学校」と呼ばれ、
都内に100校以上建造されました。
その多くは解体されましたが、
銀座のド真ん中にある泰明小学校は今も現役で健在です。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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学校と同様に、復興建築として有名なのが同潤会アパート。
都内の同潤会アパートは全て解体されてしまいましたが、
大阪に、20年代の記憶を伝える現役の鉄筋アパートがあります。
外壁は同潤会と同様の洗い出し仕上げで、裾にはスクラッチタイル。
特に階段入口の装飾は、涙が出るほどの20年代スタイル。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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戦後、国内で盛んに建設された、
モダン建築の原点も20年代。
ドイツのデザイン学校、
バウハウスから生まれたインターナショナルスタイルと呼ばれる、
装飾を極端に排除したグローバルデザインは、
東京の下町、深川にある東京市営深川食堂(現・深川東京モダン館)
で見ることができます。
この記事内で、もっとも“進歩的”な建築物。





『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較
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深川食堂とは逆に、神戸税関のように、
従来の古典的なスタイルで建設された建物も、
数多く残っています。

他にもスパニッシュ・スタイルの前田侯爵鎌倉別邸(現・鎌倉文学館)や、
大正時代末期のモダンアパート、船場ビルディングなど、
20年代の多様さは枚挙に暇がありません。
書内で取り上げたのはそのほんの一部ですが、
ぜひご堪能ください。


◆東西名品 昭和モダン建築案内◆

価 格: 1,800円(税抜)
A5版/160ページ/オールカラー
発売元: 洋泉社
発売日: 2017/01/26
ISBN-10: 4800311349
ISBN-13: 978-4800311344

『東西名品 昭和モダン建築案内』は、北夙川不可止・文、黒沢永紀・写真で贈る、昭和初期(1920年代)の建築を、テーマ別に東京圏と京阪神で徹底比較


危機遺産!?築地の木造建築群

2016-06-09 00:48:45 | 建築
昨年の10月15日、
歴史的建築物などの保存に取り組む、
アメリカのNPO「ワールド・モニュメント財団」が、
36カ国計50カ所の「危機遺産」リスト(2016年版)を発表しました。
リストの中には築地の近代の木造建築群が含まれています。

危機遺産とは、
早急に保存・修復などの措置が必要、
と判断される文化遺産を認定するものだそうです。

リスト入りした築地の建築群は、主に昭和初期以降に建てられた木造の約30件。
築地場外市場にある円正寺や、瓦屋根の「町家型」、
看板のような装飾を取り付けた「看板建築」の建物などが含まれるといいます。
財団によると、東京大空襲による被災を免れ、
高度成長期の「危機」も乗り越えて、
都市の魅力の一端を担ってきたことを評価したそうです。



リストに含まれる建築の一つの特徴である「町家型」は、
1階部分の屋根を若干張り出した構造にして造る建物のことで、
看板建築以前に、おもに商店を兼ねた家屋の建て方として流行ったもの。
画像の建家は、現在は仕舞屋の様子ですが、
2階部分より少し張り出した1階の瓦屋根の構造は、
典型的な町家造りです。







町家造りの建物の背後には、
木造長屋風の建物が並んでいます。
一見連続した建物のように見えますが、
ところどころ寸断されているようにも見え、
どこまでが一連の建物か判断しづらい構造です。

関東大震災以降、
三軒以下の長屋を優良、それ以上を危険と仕分けし、
三軒以下の長屋を残すような動きがあったようです。
現在、都内に残る長屋に三軒長屋が多いのは、
そういった事情があったようです。







木造長屋に隣接して、3階建ての看板建築も残っています。
看板建築は、文字通り看板のような建築で、
建物の前面を平面状に施工し、
その面を看板代わりに使ったことに由来します。
しかし、その施工方法だけが一人歩きして、
やがて銅板張りやコンクリート製の看板建築が造られるようになります。
現在、東京の特に東部に多く残存する看板家築は、
派手な広告等が施されていない、
よく言えば渋い、悪く言えば地味な看板建築がほとんどです。







屋根の上に施工された木製のベランダも、
めっきり見なくなりました。
窓の外に張り出した外階段の昇り降りは、
かなり勇気がいりそうですね。







築地の街中を歩いていると、
こういった路地に出くわすのも魅力です。







危機遺産のリストにアップされている、
場外市場の円正寺とそれに付随する看板建築の店舗。
かつて、寺の運営費を稼ぐために、
敷地の一部を店舗に貸与した名残だそうです。
寺と同居する木造店舗と緑青の吹きまくった看板建築は、
珍しい光景です。








場外市場の中にある看板建築群。
築地市場は、今年11月の豊洲市場開業にあわせて移転が決まっています。
その結果、従来築地市場と歩みを共にした場外市場が、
そのまま取り残される形となります。
現在、「築地魚河岸」という名のショッピングセンターの建設等、
場外市場のまま存続する計画が進んでいるようですが、
歴史ある築地市場の遺伝子を伝える場として、
ぜひとも存続して欲しいものです。

沖縄 #01:名護市庁舎

2010-06-06 02:38:56 | 建築
久しぶりに沖縄へ行ってみた。
といって、ももう20年ぶりくらいだろうか。
もう梅雨に入っていたせいか、
天気もそれほどよくなかったので、
海以外のものを見て回ることにした。

まずは名護市庁舎。



市庁舎というにはあまりにも市庁舎らしからぬ建物は、
国道を走っていても、遠くからその存在がわかる、
見てるだけでも楽しくなる建物。





1981年に象設計集団によって建設された建物は、
沖縄という土地柄をふんだんに反映した、
不思議な市庁舎だった。





なんと言っても海側壁面の一面に配置されたシーサーは圧巻。
各々が全部違う形でしかも全て味のあるシーサー。






真横から見ると、一段と凄いです。








顔も体も、みんな個性的です。








このシーサーなんかは花が咲いちゃってますが、
30年の年月のせいか、だいぶくたびれてもいますね。






建物の内部も不思議な造り。
雁行状に作られたテラスの屋根は細かく抜けていて、
おそらく強烈な沖縄の日差しを、
和らげる効果があるんじゃないでしょうか。




テラスを上から見ると、
近くは確かに特殊な抜け構造をしているのがわかりますが、
遠くを見ると、
赤瓦と白い漆喰で作られる沖縄独特の屋根のように見えます。




ところどころ天井一面コンクリートのところもありますが、
画像の様に、色々な色ガラスが埋め込まれ、
細かいところまで遊び心が感じられます。

鉄筋コンクリートの建物ながら、
沖縄の風土や文化をふんだんに取り入れた名護市庁舎。
沖縄という特殊な土地の、強烈な主張を感じます。

◆ シリーズ 沖縄 ◆
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江の電三景

2009-06-19 05:52:59 | 建築
前回の記事で江ノ島をアップしたんで、
ついでに江の電の風景なんぞも。



七里ケ浜駅近くの鉄橋を渡る江の電と廃屋。→Mapion






星野写真館前を走る江の電。→Mapion
右書き文字の店名、これみよがしの看板建築、
いい感じです。





江の電もなかで知られる扇屋→Mapion
店内に埋め込まれた懐かしの車両が、
手前の路面を走る江の電を見続けているのも、
また不思議な光景ですね。



最後は江ノ島の夕景でチルアウト。


水戸市水道低区配水塔 #03

2007-10-24 03:57:35 | 建築
出張のついでにちょっと徘徊した水戸。
最後は、どこから見ても美しい低区配水塔の画像です。



正面玄関の周囲にはいくつかの碑が建っています。













一昨日の記事で2つに分割してしまった正面入口。







正面入口上部を横から。







ところで左奥に写るのは一般の民家だと思いますが、
この色の善し悪しは別として、
配水塔とのコーディネートを考慮した色だと思います。
史跡などの周りに家やビルを建てる時は、
こうありたいものだと思います。



出張のついでにほんのちょっと徘徊した水戸のシリーズは今日で終わりです。
ゴーストタウンというわけでもなく、
活気がすごくあるというわけでもなく、
ドーナツ化しているわけでもなく、
再開発が徹底して新しく生まれ変わっているわけでもなく、
水戸は、惰眠をむさぼり、ほころびを甘んじて許容するような、
そんな街だった印象です。

駅に戻って電車に乗るまでの間、遅めの昼食をとろうと、
構内の観光案内所に名物料理を食べられる店を聞いてみましたが、
帰って来たのは「納豆」と「常陸牛」だけでした。
納豆がわるいわけではありませんが、
観光地として成り立つ垂涎の食材がないのもまた、
水戸がほろんでいってしまう要因の一つかと思いました。

◆ 水戸逍遥 ◆
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水戸市水道低区配水塔 #02

2007-10-23 00:52:43 | 建築
出張でちょっと行った水戸市で、
仕事のあとに見学に行った水戸市水道低区配水塔。
今日は塔内部や周辺施設です。



残念ながら一般公開はしていないそうで、
内部は窓越しに見る事の出来る、
上階への螺旋階段がある1階の様子だけです。
2階へ行くと、塔の上部に設置された貯水タンクの底が見えるようですが、
一度は見てみたいものです。
塗り直しの時の内部の様子が、
国土交通省 / 関東地方整備局のサイトにアップされています。







塔の正面向かって右側には、計量室跡が残っています。
塔の素晴らしいデザインに比べると、
こちらはいささかお粗末な印象。







さらにその奥には鍛冶舎跡があります。
鍛冶室はタンクに使用するリベットなどの製造
(だったかな。ちょっと曖昧。水戸市役所談)
のための施設で、他の建物が鉄筋なのに比べて、
これだけ木造というのもなんか変なとりあわせです。
内部には小さな鋳造竃のセットが置かれ、
当時の様子を再現しています。

◆ 水戸逍遥 ◆
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水戸市水道低区配水塔 #01

2007-10-22 01:24:53 | 建築
出張でちょっと行った水戸。
水戸のシリーズをアップする最初にお伝えしたように、
出張の後の市内徘徊の一番の目的は、この水戸市水道低区配水塔の見学でした。



水戸駅の観光案内所に置かれたパンフレットにも掲載されている、
ケーキの様なルックスをした配水塔-水戸市水道低区配水塔。
昭和七年(1932)完成  後藤鶴松 設計
平成十一年 (1999) まで水道施設として稼働。
「低区」とはかつて駅の周辺にあった下市という地域のことで、
そこへの給水を行うための施設だったそうです。
平成八年 (1996) に、一昨日アップした県立水戸商業学校旧本館とともに
県内初の国の登録有形文化財に認定され、
平成十八年 (2006) 春、それまでの全体的にアイボリー系の単色の塗装から、
建築当時の色を再現した現在の色に塗り直されたそうです。



 

外壁の装飾はレリーフを始め、配水塔という実用性を遥かに越えたもので、
消防ホーズのノズルを意匠化したといわれる2階の装飾や、
窓枠の周りに施されたデザインは特に目を惹きます。



 

上部に配置された赤と白の電灯は、飛行障害灯と言われているそうですが、
詳細は不明だそうです。
かつて低区という呼び名に呼応して、
高台地域への給水に使用された高区配水塔という施設もあり、
低区配水塔より遥かに高く、その必要性から飛行障害灯が設置されていたそうですが、
それにならって低区にも設置されたんではないか(水戸市役所談)という話でした。
現在は点灯しないそうですが、いずれにせよこの赤と白の電灯こそ、
この塔を最もケーキっぽくしている要因だと思います。
電灯のすぐ下の周囲を飾るレリーフも、この部分のためだけのデザインで、
隅々まで気を配って作られた事がわかります。
塔の最頂部は遠くてよく見えませんが、
それでも丹念に作られた様子がわかります。



 

正面玄関は他の部分に比べると1932年という年代を、
最も反映したデザインが散りばめられている場所かもしれません。
左は玄関上部。
正式発表されていないので確かかはわかりませんが、中央の上の方のマークは
偕楽園にちなんだ梅に水の文字をデザイン化したものではないかと思います。
その下の右書き文字の「低區配水塔」の文字も時代を感じさせてくれます。
何度見ても素晴らしいバランスとふんだんな遊び心でできあがった
配水塔だと思います。

明日は敷地内に残る周辺施設などです。

◆ 水戸逍遥 ◆
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水戸逍遥 #06

2007-10-20 02:42:58 | 建築
出張で行った水戸。
小一時間の徘徊で目についたものをアップして来ましたが、
昨日建築物をアップしたので、そのついでに、
以前出張で行ったとき、出張先のすぐ近くにあった建物。



茨城県立水戸商業高等学校の敷地内に残る、
旧茨城県立商業学校の本館跡です。→Mapion
明治三十七年 (1904) 竣工。ベルサイユ宮殿を模した建物と言われているそうですが、
ベルサイユ宮殿を改めて見てみると・・・ベルサイユ宮殿 wiki
なんか苦しいなぁ~~







ベルサイユかどうかは別にしても、
学校の校舎としてはとても凝ったレリーフ等が施されて、
かつての学校という機関が今とは随分意味が違ったんではないかと思わされます。







水戸市は元々教育に力を入れて来た都市らしく、
弘道館などを中心に、世界で最初の教育文化世界遺産をめざしていたり、
また黄門様で知られる光圀公が始めた『大日本史』の編纂は、
時に藩財政の1/3をしめる程の力の入れようで、
光圀公の死後250年の明治三十九年 (1906) の完成まで作り続けたそうです。

そんなことを知って改めてこの校舎を見てみると、
明治時代の学生たちが意気揚々と通っている姿が浮かんで来たりしますが、
同時にそんな歴史ある街が、
21世紀になって、市内の至る所にほころびがある街になっているのもまた、
おおきな時の流れ。

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水戸逍遥 #05

2007-10-19 01:00:19 | 建築
出張でちょっと行った水戸市街の徘徊。
昨日の記事のコメントに、新宿ノーザンウエスト同時アップ企画にご参加頂いた、
えいはち@十二社の行動のえいはちさんから、
水戸芸術館とその周囲はどんな様子だったのか?とお尋ねがあったので、
撮影しておきながら全く忘れていた水戸芸付近の様子を1枚。



水戸芸術館水戸市の市制100年を記念して建てられた、
磯崎新氏の建築で知られる複合藝術館(運営は財団法人水戸市芸術振興財団)で、
美術館で行われる企画展示はけっこう面白く、
何回か足を運んだ事があります。

特に敷地内に建つ塔はかなり高く、
市内のランドマーク的な存在かと思いますが、
出来た頃訪れた時はピカピカでしたが、
先日前を通りかかった時は少し錆びが垂れていたりして、
それほど違和感なく街に溶け込んでいる印象でした。
塔は敷地のはずれにあるので、
芸術館の敷地外の街と同居することになります。
塔のふもとには老舗的なすしやさんがありましたが、
隣の塔とそんなにミスマッチな感じがしないのは、
私だけでしょうか。

建築の話になったので、市内で目についた建築を2つ。



三菱東京UFJの水戸支店。
明治四十二年 (1909) 建設。旧川崎銀行水戸支店の建物。
絵にかいたような近代建築ですね。
敷地の周囲は煉瓦塀が囲んでいますが、最近洗いにかけたのか、
通りに近い部分の煉瓦塀は、かなりしらっぱけていました。





三菱銀行のすぐ近くにあった、泉町会館。
恐らく町内の集会所のようなものだと思いますが、
小振りながらモダンな印象の建物です。
ちなみに画像左端に赤い壁面が写っていますが、
その建物が2日前にアップした、
小分けしてトタンを張り合わせた壁の建物です。

◆ 水戸逍遥 ◆
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水戸逍遥 #03

2007-10-17 00:37:50 | 建築
ほころんだ街-水戸。
ほんの小一時間ぶらついてる間に、目についたものをアップしています。



昨日風変わりな色のトタン小屋をアップしたので、今日もトタン関係を。
赤い塗装なのか錆び止めの色なのか判別不能な強烈にドス赤いトタンの壁。
右下の祠がかわいい。







かなり張り合わせたトタンの壁。
少しずつ補修する程トタンて高いものなのか。
それとも少しずつ補修した時にたまたま同じ色がなかったのか。
どとらも考えにくい。
ここまでくると、わざとやっているとしか思えないですね。







これはブロックとコンクリとトタンの合体型。
昨日アップした建物同様、横に狭い空地があるので、
全貌が見渡せます。
手前のブロックの部分はいかにも倉庫的な雰囲気を醸し出していますが、
実際はドリンクなどの販売店です。

◆ 水戸逍遥 ◆
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水戸逍遥 #02

2007-10-16 01:57:40 | 建築
昨日から始めた水戸のシリーズ。
今日は稀に見る色のトタンの家。



芋羊羹色をしたトタンは初めて見ます。
しかもその形から、
もともとは倉だった建物を改造したものでしょうか。







建物の側面全部が撮影出来るのは、
隣が用途不明の空地になっているおかげです。
私有地としての駐車場かなにかと思いますが、
色々な色のトタンに囲まれた空地の奥には、
ポツンと街灯が一本。
さらにその奥はベランダ付きも木造家屋。







昨日アップした風変わりな窓枠と共に、
木造ベランダも水戸の市内で沢山見かけました。

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