黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

廃墟ナイト~廃墟バトルロワイアル~開催!

2013-05-02 03:40:04 | コラム:廃墟のすゝめ
来る2013年5月18日(土)に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で、
『廃墟ナイト!!~廃墟バトルロワイアル~』
を開催します。

廃墟ナイト

廃墟系のサイトやイベントに参加していつも思う事。
それは、物件紹介が多いなぁ~、ってことでした。
勿論、物件を探索してそのスペックを調べるのは、
廃墟の一つの楽しみだと思いますが、
それは廃墟の楽しみのほんの一部。

廃墟をもっといろいろな角度から見てみたい!

そういう思いから今回のイベントを行なってみようと思いました。

イベントは、
・廃墟と絵画
・廃墟と写真
・廃墟と身体
・廃墟と映像
・廃墟と音
・未完の廃墟
・廃墟再利用
の7つのテーマで構成します。

描かれた廃墟はなにを意味して来たのか、
廃墟を撮影した写真は廃墟を感じるか、
廃墟と体はどう融合するか、
以外と少ない廃墟を語る映像、
廃墟と音はどういう関係にあるのか、
未完成の廃墟は、使用済み廃墟とどう違うのか、
そして、廃墟再利用の可能性、
をざっと概覧。
その後に、それぞれのテーマに沿った活動をされている、
7人のゲストと共に廃墟の可能性を探るイベント。

7人のゲストは、
廃墟の擬人化に命を燃やす谷口ドイテフ雄亮さん、
廃墟のヴィジュアル化が素晴らしい星野藍さん、
廃墟表現者の摩耶仙人さん、
廃墟映像作家の大西悟さん
廃墟映像のフィールドレコーダー山内悟さん、
未成線研究家のLEVEL 7G(なな爺)さん、
産業遺産見学を推進する前畑洋平さん。

いずれの方々も、
個性あふれる方法で廃墟に関わっている方々です。

物件探索にはそろそろ飽きた。
廃墟撮影がそろそろ飽きて来た、
廃墟をもっと知りたい、
廃墟をもっと感じ、考えたい!
という方は、是非お越し下さいませ!!!



廃墟ナイト~廃墟バトルロワイアル~

日時:2013年5月18日(土)open 17:00 start 18:00
場所:東京カルチャーカルチャー@お台場
料金:前売チャージ券 2,300円
   当日チャージ券 2,800円
(飲食代別途必要・ビール600円~ソフトドリンク390円~など)

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廃墟のすゝめ 05

2008-12-26 01:19:54 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と絵画◆

廃墟と写真に関しては既に以前の記事でアップしましたが、
写真が生まれる前は、絵画という形で、
廃墟は表現されて来たと思います。

廃墟と絵画というと真っ先に思い出すのは、
過去の記事(ロード・オブ・ザ・リングと廃墟大谷石地下採掘場跡
でも触れて来たカスパー・ダーヴィド・フリードリッヒです。
この人の代表作は『氷の海」なのでしょうが、
やはりここで取り上げるのは『エルデナの廃墟』です。



修道院と分からないくらい崩壊し、
周囲を沢山の植物が群生する廃墟は、
自分にとっては最も共感できる廃墟の図像かもしれません。
最もびっくりするのは、人が2人もいるにもかかわらず、
廃墟感が全く損なわれていないところです。

この人の作品はどれも宗教的な匂いを放っていますが、
宗教的な意味合いはそれほど重要ではなく、
それよりは幼少期のトラウマが、孤独な人生を貫いた、
その個人的な感情の表れのようなきがします。

もう一つ、想いで深い廃墟画と言えば、
アルノルト・ベックリンの『死の島』です。



学生の頃に日本巡回展があって、
その時に見た衝撃は今でもわすれません。
棺桶を載せた船を白い聖衣を来た人が島へ向かってこいでゆく。
恐らく島は墓地の島なのだと思いますが、
このblogで取り上げている、
軍艦島の火葬場島でもあった中ノ島への興味は、
ひとえにこの『死の島』の影響が大きい様な気がします。

もうひとつ、ユベール・ロベールの
『廃墟となったルーブル宮のグランドギャラリー』



図像自体はたいして面白みのない絵画ですが、
この絵が面白いのは、ルーブルがまだ現実には廃墟ではないという事、
すなわち廃墟になったことを想像して描いている点だと思います。
このblogのサブリード『未来の記憶』と同じ発想です。

廃墟とは時間を意識した時に生まれた感覚だと思います。
古代から廃墟は世界の至る所にあったと思いますが、
それを廃墟として鑑賞の対象にしたのは、
ルネサンス以降だと聞いた事があります。
ルネサンスとは人がはじめて(はじめてかどうかは詳しく知りませんが)
現在より過去の方がいい!と感じた時代です。
そしてこの時代生まれた廃墟画の多くは、
その裏側に理想郷を描こうとしていたと思います。
ユベール・ロベールもその多くの絵画は、
古代世界への憧れを形にした絵画が多いので、
このルーブルの廃墟ももしかしたら「未来の記憶」というよりは、
単なる遊びだったのかもしれません。
しかし、時間を意識し、過去、古代を意識した時に、
初めて廃墟という言葉が生まれたんだと思います。


廃墟のすゝめ 04

2008-12-24 01:35:50 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と演劇◆

廃墟は本来立体的なものなので、
写真や映像より、演劇的な空間に再現された時に、
よりリアルに伝わるのではないかと思います。
演劇空間でも廃墟が舞台設定になることは沢山あると思いますが、
ここでも多くを取り上げてはいられないので、
特に記憶にある廃墟演劇をひとつ。

怪優、石橋連司が主催する劇団『第七病棟』は、
強烈に廃墟のイメージ、死のイメージがつきまとう劇団だったと思います。
これまでの記事で、第七病棟のこと、
そして石橋連司の奥さんである緑魔子のことに関しては、
時々ふれては来ましたが、特に記憶に残る公演は、
今はなき浅草の常磐座が廃墟だった時にそこを舞台として上演された
『ビニールの城』。
人形しか愛せない腹話術師へのかなわぬ愛と、
そして人形しか愛せない運命を背負ってしまった腹話術師。
お互いがビニールの皮膜におおわれて、
決して交わることが出来ないといったストーリーの話は、
神谷バーで電気ブランを寂しく飲む腹話術師の背後に、
ビニールに包まれたヒロインが空高く昇って行く所で終わります。

インタビューを読むと、
戦後物質的に壊滅し、全共闘で精神的に壊滅した状態を廃墟とし、
全く新しいものが生まれる土壌、という意味で、
廃墟を捉えていたようです。

原作は唐十朗。常磐座の舞台設定を意識して書き下ろされた脚本は、
廃墟、常磐座を存分に生かしきったものだったと思います。
唐十朗といえば、その師匠の土方巽を思い出します。

土方巽とは舞踏と呼ばれる、
戦後の日本が生み出した新しい演劇の手法の創立者の一人で、
この人の表現は、その舞台装置も含めて、
記憶に眠っていると錯覚する日本の原風景にある廃墟を、
これでもか、というほど呼び覚ましてくれます。

そして土方巽が最も影響を受けた舞踏家が、
日本を代表する大野一雄でしょう。

秘する肉体 -大野一雄の世界-』(大野慶人)



大野一雄に関しても以前の記事で触れていますが、
その生体廃墟から紡ぎ出される身体の動き一つ一つは、
まさに生の魅力と死の魔力をひとつに表現した、
すばらしい幽玄の世界です。


廃墟のすゝめ 03

2008-12-23 03:07:02 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と映画◆

廃墟をを舞台に使った、あるいは廃墟を表現した映画は、
数限りなくあるので、とても全部は取り上げていられません。
なので、特に想いで深いものの中から、
その一部をちょこっと取り上げようと思います。

廃墟の夢幻性や幻想性を色彩鮮やかに描ききった、
陽炎座』(監督:鈴木清順)



今は亡き松田優作が演じる劇作家が謎の女を追跡するうちに、
次第に現実か非現実かわからに幻想の世界へ迷い込んでしまう。
そこは限りなく極彩色の世界でもあり、無音の世界でもあり、
エロスとタナトスが露骨に交錯する夢幻の世界だった。
幻想の世界に登場するセットは、はりぼてのような作り物の世界ながら、
随所に廃墟的なテイストがあしらわれ、
劇作家の心が崩れゆく様子をうまく描いていますね。
古井戸の中の大楠道代が吐き出す酸漿(ほおずき)で、
井戸の水面が一面真っ赤に埋まるシーンは圧巻。


この映画のせいで、はるばるイギリスまで行くハメになった、
ザ・ガーデン』(監督:デレク・ジャーマン)



特に強烈に廃墟が出てくる訳ではないのですが、
全編濃密な廃墟感が覆い尽くすマッシヴな作品。
ゲイだった監督が罪の意識と戦った自叙伝的な内容でもあり。
そこには閉ざされた恋人との思い出と死への恐怖が、
面々と綴られていきます。
舞台となった場所は、
イギリスのダンジョネスというドーバーの近くの海岸。
原子力発電所の低いうなり声が聴こえる、
低木しか育たない玉砂利の海岸は、
この世の海岸とは思えない不思議な光景でした。
またこの映画を廃墟感満載にしている最大の要因は、
サイモン・フィッシャー・ターナーによる、
サントラの効果もおおきかったと思います。
ナルニア国物語で魔女を演じるティルダ・スウィントンの出生作
であるとこも見所です。


そして廃墟映画といえば、この作品はやはり外せないですね。
ストーカー』(監督:アンドレイ・タルコフスキー)



恐らく世界中の監督で、
この人と黒沢清ほど、廃墟というコトを正面から捉えた監督は、
いないんではないでしょうか。
生涯を通じて8作品(だったかな)しか制作せず、
徹底的に芸術という言葉にこだわった映画製作を貫いた作品は、
どれもが映画としては退屈の限りですが、
それを耐え忍んで作品を見終わった時には、
確かにハリウッド映画より見てよかった、
という感想が持てる作品だと思います。

ストーカーとは非合意で気になる相手を追い回す人の事ではなく、
道先案内人という意味らしく、
ゾーンと呼ばれる廃墟の中を、
蘊蓄を垂れながら案内するストーカーについて行く2人、
やがて様々な困難を乗り越えて辿り着いた所は、
結局廃墟以外なにもない、
ただし、怒濤の水が降り注ぐ廃墟だったというお話。
冒頭とラストのシーンがほぼ同じシチュエーションで作られていますが、
その両者が微妙に変化をつけてあるところが、
ゾーンを体験した前と後のわずかではあるけど決定的な違いがある、
といったことを言いたいのでしょうか。

旧ソ連時代に6本、イタリアへ渡ってから2本作っていますが、
イタリアでの一作目『ノスタルジア』のラストには、
以前の記事でも触れた様に、
ドイツロマン派の画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの、
『エルデナの廃墟』へのオマージュと思えるシーンが登場します。
カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒは人間の孤独性を、
廃墟という素材を使って描き続けたが画ですが、
おそらくイタリアへ渡ったタルコフスキーも、
限りない孤独感にさいなまされたのではないでしょうか。

しかし映画で廃墟がタルコフスキーのように使われる事は少なく、
その多くは、現実と非現実のはざかいにあるそのルックスが、
ファンタジーの世界へ誘う事が使命の映画という媒体にとって、
ひとつの強力な舞台設置になるところが、
もてはやされる点だとは思います。


廃墟のすゝめ 02

2008-12-19 04:35:08 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と写真 2◆

昨日アップした記事の最後に取り上げたベッヒャー夫妻はドイツの写真家ですが、
ドイツの廃墟写真で思い出すのは、
Dead Tech: A Guide to the Archeology of Tomorrow』(Manfred Hamm)です。


『Dead Tech: A Guide to the Archeology of Tomorrow』Manfred Hamm

崩壊する桟橋、廃炉にされた航空母艦、廃棄された石炭および製鉄所など、
やはり冷徹なドイツを感じる眼差しで切り取られた廃墟ですが、
これらは産業中心主義だったヨーロッパの没落を暗示しているようでもあります。
出版されたのは1981年ですが、ちょうどアメリカで
ニューエイジの活動が盛んに行われるようになる時代と呼応しているのも、
また面白い事だと思います。

80年代のアメリカと言えば、この写真集も忘れられません。
Violent Legacies: Three Cantos』(Richard Misrach)。


『Violent Legacies: Three Cantos』Richard Misrach

アメリカ南部カントスの砂漠で行われた水爆実験の跡や、
キャトルミュ-テーションなどをテーマに撮影された写真は、
上記デッドテック同様資本主義の没落を表しているようにも見えますが、
この人は本来ジョエル・マイロウィッツの系譜を継ぐ、
アメリカン・ニュー・カラー系の写真家なので、
結局は色遊びの一環としての廃墟写真だったのかとも思ったりします。
それでもその質感は素晴らしいですね。

80年代と言えば、80年代の終わり頃に出版された、
建築の黙示録』(宮本隆司)


『建築の黙示録』宮本隆司

は、当時衝撃を受けたのを思い出します。
90年代の静かな廃墟ブームの火付け役にもなったこの写真集に写る廃墟は
全て解体途上の廃墟でした。
中野刑務所、筑波博、ドイツの劇場跡などの解体現場を、
そこに舞う埃の粒まで写し込んだ写真は、
ちょうどバブルが崩壊し、
建設の途中で頓挫した建物や解体が途中でストップした建物が散見した、
そういった時代背景を表した写真集だったと思います。
宮本隆司はこの他に九龍城やアンコール・トム、
そしてホームレスの段ボールハウスだけを撮影した写真集なども出していて、
写真家としては一貫して廃墟にこだわった珍しい人かもしれません。

そもそも写真がこの世に生まれた150年位前、
被写体としてローマの廃墟が盛んに撮影されたと聞いた事があります。
もともと廃墟と写真は極めて相性がいいのかもしれませんが、
それは、廃墟の情報量の多さによるんじゃないかと思います。
同じ壁でも、新品の壁と廃墟の壁とでは、
圧倒的にその情報量が異なります。
写真は時間を止め、その細部に到るまで克明に記録する事で、
廃墟の特性をより強調できるんではないかと思います。

また写真は死のメディアともよく言われます。
そういったあたりも、死を象徴する廃墟には
相性が抜群なのかもしれませんね。


廃墟のすゝめ 01

2008-12-18 05:40:57 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と写真 1◆

まずは廃墟がどう表現されて来たかをみてみようと思います。

廃墟に興味を持つ多くの人と話をして一番感じるのは、
廃墟に対する興味が2000年以降の方が多いという事です。
これは2000年代前半にあった、
かつてない廃墟ブームに呼応していると思いますが、
そのきっかけが、今から10年前の1998年に出版された写真集
廃墟遊戯』(小林伸一郎)
から始まっている話もよく聞きます。


『廃墟遊戯 DEATHTOPIA』小林伸一郎

それまで廃墟写真といえばモノクロが相場だったところに、
執拗に色を加工し廃墟の裏側にある情念を一切切り捨て、
きわめてポップに表現したところが、
それまでの廃墟写真と一線を画するポイントだったんではないでしょうか。
デジタルカメラと画像加工ソフトの流布に呼応して、
このキレイな廃墟は一気に普及したんだと思います。

2000年以降沢山の廃墟イメージの写真集が出版されましたが、
国内で出版された写真集はすべて
amazonで廃墟をキーワードに検索すると全部でてくるので、
あえて触れなくてもいいでしょう。
廃墟検索で出てこないのは海外の写真集ですね。
例えばチェルノブイリで被害を受けたある村の記録写真集
Zones of Exclusion, Pripyat and Chernobyl』(Robert Polidori)


『Zones of Exclusion, Pripyat and Chernobyl』Robert Polidori

は、特に感情を煽る物品や人が写り込んでいるわけではないんですが、
「時が止まった村」ではなく「時を止められた村」という感じが、
ひしひしと伝わってきます。

ニューヨークの街中に残る貨物用廃線を撮影した、
Walking the High Line』(Joel Sternfeld)


『Walking the High Line』Joel Sternfeld

は、ニューヨークという街からは想像もつかない、
喧噪からかけ離れた世界が写し込まれていますが、
周囲の建物まで全てが廃墟にみえるのは、
人が全く写っていないせいでしょうか。

海外の廃墟写真集をみると、
国内の廃墟写真ではなかなかおめにかかれない、
限りなく静かな時間を切り取ったものが多い印象ですが、
これはアオリレンズを使用し、
画面の歪みやパースを消し去っているものが多いからでしょうか。
また大判カメラを使用し、長時間露光で、
画面の隅々まで克明に写し込んでいるのも、
ライブ感を全く感じない原因かもしれません。

大判カメラで克明に写し込むということで思い出すのは、
産業構造物を究極の絞り込みでがっちり撮影するドイツの夫婦写真家、
ベッヒャー夫妻の写真です。
Industrial Landscapes』(Bernd and Hilla Becher)


『Industrial Landscapes』Bernd and Hilla Becher

この夫妻の写真は溶鉱炉や給水塔や倉庫など、
インダストリアルな風景にあるアイテム一つを完全に切り取って、
画面の中央にドーンと撮影する、
どちらかというとアート寄りのスタンスの作風ですが、
よくここまで正面から撮れるシチュエーションを見つけてくるなぁ~
と、それだけでも感動してしまうと同時に、
ドイツならではの限りなく冷徹な眼差しに戦慄も覚えます。

廃墟あるいは廃墟的な光景を撮影したものにも、
様々な眼差しがあるのを感じます。

1記事に入る文字数制限があるため、つづく