黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

千駄谷乃富士塚 #23

2007-03-24 01:55:16 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話は、
長々とアップしてきましたが、そろそろお終わりです。

昨日アップしたところまでが富士塚の全貌ですが、
この富士塚と鳩森八幡宮にはもう一つの楽しみがあります。

境内に沢山いる猫です。
多くは人懐っこく、また奇妙な行動をするのが、
この境内の猫の特徴です。
例えば絶妙なバランスで欄干に挟まってみたり、



竹の柵に手をかけてほげ~としてみたり、



富士塚に興味がなくても、猫はかわいいので、
近くへ来られたら、寄ることをお勧めします。



それにしてもたった10~20メートル四方の小さな山の中に、
随分いろいろなものがあったと思います。
古くは三百年近く前から最近のものまで、
また都内の様々な場所から集まって来たものが密集するこの富士塚は、
まさに時空の坩堝でした。

十条や品川などいくつかの富士塚は、現在も存続する講によって、
年に一度の祭事が開かれるところもあるそうですが、
この千駄ヶ谷の富士塚は、烏帽子岩講が消滅してしまった今、
生きた役割は果たしていません。
かつて六月三日の祭日には、
都内各所の講が、代々木駅から白装束の隊列で、
唱名を唱えながら集った時代もあった。
と地元の古老に聞きましたが、それも今ではなく、
鳩森八幡宮が形式程度の祭事を行うだけです。

また、何度か記事にアップしてきたように、
大戦の戦火によって神社にあった資料が全て焼失してしまったため、
由来や経緯等もその多くはベールに包まれています。

更に、講の人たちの神聖な儀式とは別に、
一般の庶民にとっては遊山的な楽しみでもあった富士塚詣で。
この千駄ヶ谷富士も江戸末期などは、
境内に沢山の出店がでて賑わったそうですが、
その面影も今はありません。

思えば富士塚は日本で最初の
バーチャルテーマパークだったんじゃないでしょうか。
さすがに1メートル位の高さの富士塚だと、
登るという行為ができないのでバーチャルになりませんが、
千駄ヶ谷富士位の高さになると、
たとえ低くても、登る感じが体験出来ます。
四方に造られた登山道や下山道を歩きながら、
所々に配置されたモニュメントを拝み、
富士登拝と同じ霊験を体験した後は、
境内の周りのお店でお楽しみ。
といった江戸の人たちの感覚を、
ほんの少し感じられたような気がします。

最後に塚の周りを囲む柵の柱の上に、
偶然乗っかっていた椿です。



■ 参考資料 ■

『参拝の栞 鳩森八幡神社』鳩森八幡宮
『千駄ヶ谷の歴史』矢島輝 鳩森八幡宮刊(1985)
『鳩森八幡神社 築造富士資料』渋谷区教育委員会(1977)
『千駄ヶ谷昔話』渋谷区教育委員会(1992)
『富士信仰』浅草寺(1999)
『富士と民族』民族宗教史叢書(1987)
『富士信仰と富士塚』三浦家吉 甲文堂刊(1981)
 
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千駄谷乃富士塚 #22

2007-03-23 00:53:59 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

昨日アップした富士塚正面向かって右側の御清池の畔には、
他にも石碑がありますが、いずれも文字が読めず、
よくわかりません。

流れるような草書体で書かれた石碑



一昨日アップした地蔵尊の片方が、
画像上に写っています。
碑の右下には壊れた灯籠の一部らしきものがありますが、
もはや何かはわかりません。
ただ捨てずにこうして安置している所をみると、
もともとは何か意味のあるものだったのかもしれません。

もう一つは東登山道の入り口に建つ、
これまた文字が読めない碑です。



他の碑に比べてやや大きく、1メートル前後の高さがあります。
裏には
「元禄十四年二月六日生 明和八年正月八日卒」
となぜか卒年が刻まれ、
同時に海北平兵衛の名前が彫られています。

その他この場所には、戦後立てられた由来板があります。



また正面の橋のすぐ横にも由来板がありますが、
こちらはご覧の通り、昭和五十七年 (1982) のものです。



この由来板の横には同じ時に建てられた、
花崗岩製の石碑が建ち(右)、
また何度となく記事でアップしてきた案内板の横には、
昭和六十年 (1985) の浅間神社改修の時の記念碑(左)が建っています。



ところで、この富士塚は身禄窟がある登山道が、
塚の正面、すなわち南向きに設置されていますが、
実際の身禄窟があるのは北側の吉田口登山道なので、
本来ならば逆向きに造られなくてはいけないはずです。

この件に関しては、多くの資料が触れてはいますが、
なぜ南北を逆につくったかの理由が述べられているものは、
一つもありませんでした。
これもまたこの富士塚の一つの謎なのかも知れません。
 
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千駄谷乃富士塚 #21

2007-03-22 09:02:33 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

昨日アップした地蔵尊の周囲、
つまり富士塚の東側の裾野には幾つかの碑も置かれています。
そのうちの一つ「松山銘」の碑



画像上の奥に、昨日アップしたお地蔵さんが見えます。

さてこの碑ですが、漢文体で書かれた文字を見ると、
正確にはわかりませんが、こんなことが書いてあるようです。
「戸川近江守。姓が藤原で名が達本。
天保十四年 (1843) 四月七日に、家慶公が日光にご参詣の際に、
若い松を持ってきて植え、それが今では成木になって奉られて
いる。弘化 (1845) 二年正月十一日」
その後に「組番頭」や「中嶋流砲術学問」などの文字、
最後に「近江守達本書」と彫られています。

勿論この碑もその由来等なにも分かっていない碑ですが、
この碑にはいくつかのヒントがあるので、
それをもとに考えてみました。

一番気になるのは「組番頭」や「中嶋流砲術学問」の文字です。
組や砲術というと、以前の記事でアップした、
徳川幕府御用達の甲賀組鉄砲隊を思い出します。
また甲賀はもともと近江(滋賀県)が本拠地の鉄砲組なので、
近江守との関連性もありそうです。

そんなことを思いながら資料の一つ、
鳩森八幡宮編『千駄ヶ谷の歴史』を見てみると、
その見開きに掲載されている、
『内藤新宿千駄ヶ谷邊圖』(文久二年 (1862) )に、
「戸川近江守」の文字を発見しました。
なんと鳩森八幡宮のすぐ目の前に屋敷があります。


内藤新宿千駄ヶ谷邊圖『千駄ヶ谷の歴史』より引用

これらのことから考えると、
この碑は鳩森八幡宮の目の前にいた戸川近江守の敷地にあった碑で、
いつの時代かは分からないものの、
神社がひきとり、富士塚の隅に安置したもので、
更に近江守は甲賀鉄砲組の番頭さんだった可能性が高い人、
といったところでしょうか。

この碑は富士塚の前面にある御清池の、
正面から見て右端の畔にありますが、
反対側の畔には、同じ人の書と思われる碑がもう一つあります。
こちらは「猪鹿塚」と読むのでしょうか。


 
これも上同様漢文体で、
「嘉永二年 (1849) 三月十八日。家慶公が小金原で鹿狩りをした際に
頂いた猪と鹿を埋めた塚だ。文久二年 (1862) 盛夏」
といった内容が書かれています。

十四代将軍家慶はよく鹿狩りをし、
嘉永二年の小金原の鹿狩りも記録に残る鹿狩りだったそうです。
そしてそのお供で行った武士達は、
しとめられた鹿や猪を将軍からもらい、
そのエピソードを書にし、更に石碑まで造ったそうで、
東京の豊島区には「鹿碑」や「えい賜猪碑」として、
今も残っているそうです。
参考:豊島区指定文化財

ところでこの碑に出てくる塚は、富士塚のことではなく、
猪や鹿の為のお墓としての塚だと思いますが、
富士塚ももともとは古墳を改造して造ったのが始まりだそうです。
最初の富士塚といわれる高田富士をはじめ、
古墳をもとにした富士塚は多く、
逆に千駄ヶ谷富士のように、
ゼロから富士塚として築造したものは少なかったそうです。
今より遥かに迷信や信心が深かったと思われる江戸時代に、
古墳を改造するという発想があったことは、
妙に不思議な感じがします。

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千駄谷乃富士塚 #20

2007-03-21 14:10:06 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話。
今日は富士塚正面向かって右端に安置された地蔵尊です。

これまでアップしてきた浅間神社や身禄像など、
一般的に富士塚を構成する要素以外のもので、
唯一案内図に書き込まれている地蔵尊。



案内図では一体だけ書かれていますが、
実際には二体の地蔵尊が安置されています。
一つは身体の中心部が残っているものの、
両腕や足からしたが崩れてしまっている地蔵尊です。



欠けた光背に年号らしき刻印が一部見えるものの、
いつ作られた地蔵尊かはわかりません。

またもう一体は顔半分が欠けている地蔵尊です。



こちらもどこを見ても年号や人の名前が彫られた跡がみつからず、
いつ誰が彫った地蔵尊かまったくわかりません。

神社の話では、明治以降の合祀の歴史の中で引き受けた、
他社や他寺のお地蔵さんではないかという事でしたが、
大戦の戦火ですべての資料が焼失してしまったので、
その由来はいまではわからないそうです。

昨日アップした塚の北側はいつも薄暗く、
塚の中では一番のディープスポットでしたが、
今日アップした正面向かって右側、つまり塚の東側は、
草むらのなかに無造作に置かれた石像とともに、
武蔵野の風景を連想させる、雰囲気ある一角を作っています。



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千駄谷乃富士塚 #19

2007-03-20 13:48:23 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。
このシリーズはまだまだ続きますので、
最初からご覧になって頂いている方など、
ゆるゆるとおつきあいください。

昨日までアップしてきたものやことは、
富士塚にまつわるものとして、
それなりに研究も進み資料もあるものですが、
今日からアップするものは、少なくとも探した範囲では資料がなく、
鳩森神社としてもその由来等さっぱりわからないというものです。

昨日アップした狛犬のすぐ近くには、
由来が不明の碑が2つあります。

「尊塚」と書かれた碑



裏面に元治元年 (1864) の年号が彫られているので、
江戸時代の末期に作られた石碑だとは思います。
尊塚とあるので、富士塚と関係があるのかと思いますが、
この千駄ヶ谷富士に奉納された石碑なのかどうかなど、
その由来や富士塚との関係は謎に包まれています。

表面左下にはおそらく作者と思われる名前が彫られています。(左)
また裏面には「松仙営門人」(と読めるのですが正確にはわかりません)
と彫られているので、(左)
表面の人が所属していた場所だと思いますが、
これもさっぱりわかりません。

  

どなたかご存知の方がいらっしゃったら、
せめて読み方だけでも教えて頂ければと思います。

また尊塚のすぐ隣には、
ぼてっとした石に「地眼」と彫られた碑もあります。



こちらは地眼という文字以外なにも彫られていないので、
その由来は尊塚より謎です。

画像右上には、昨日アップした小さい方の狛犬が写っています。
周囲を常緑樹が囲み、常にくらい場所で、
しかも無造作に安置された壊れかけの狛犬や、
地眼というちょっと怖めの碑があるなど、
千駄ヶ谷富士のなかでは一番ディープなスポットです。

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千駄谷乃富士塚 #18

2007-03-19 01:09:01 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

昨日アップした甲賀稲荷社は浅間神社里宮の裏にありますが、
稲荷社の鳥居の右側、ちょうど浅間神社の真裏の草薮の中に、
二体の狛犬が居ます。
居るといっても、その状況から見て、
祀られているというよりは、ただそこに隠す様に置かれている、
といった様子です。

この狛犬が気になりました。

一体はやや大きいい狛犬で、所々欠けているものの、
顔立ちや毛並みははっきりと分かりますが、
台座や左手がありません。
富士塚に貼付けられているのと同じ溶岩に直接合体させられていて、
左手のない部分も、溶岩を積んで高さ合わせがしてあります。



もう一体はやや小振りで、顔を中心に痛みが激しく、
もはやどういう狛犬か判別ができない状態です。



画像右上に、最初の狛犬の横後ろ半分が写っていますが、
しっぽのあたりもだいぶ欠けているようです。
最初の狛犬に比べて2番目の狛犬はぞんざいな造りですが、
かろうじて台座らしきものが残っています。

当初これらの狛犬がなんの狛犬かわかりませんでした。
以前の記事で、富士塚正面の狛犬台座の接着面が不自然な話をしましたが、
そのことから、この二体の狛犬は、
もともと富士塚の正面にいた狛犬ではないか、
などと思ったりもしましたが、
鳩森八幡宮刊『千駄ヶ谷の歴史』に、
その答えが書いてありました。

大きい方の狛犬はもともと本殿の前にいた狛犬で、
大戦の戦火で片方は完全に崩れ、
かろうじて残った一体も、片手が折れ、ところどころ崩れたので、
昭和二十九年に、台座を残して狛犬だけ新しく奉納すると同時に、
もといた狛犬は浅間神社の裏に「奉納」されたそうです。
(現在の状態を見ると「奉納」というようには見えませんが)

本殿前に立つ現在の狛犬。

 

昭和二十九年製のわりにはかなり年期の入った様子ですが、
体のバランスや毛の動き、爪や鞠など、
なかなか丁寧に造られている狛犬です。

本殿前の狛犬には台座が二段あって、
上の台座は最近のものですが、
下の台座には左右両方とも文化十一年 (1814) と彫られています。



つまり浅間神社裏の大きい方の狛犬は、
文化十一年に奉納された狛犬ということですね。
富士塚の正面の狛犬は享保二十年 (1735) の奉納なので、
約八十年の隔たりがあることになります。

このシリーズの最初の記事でアップした、
江戸名所図会に描かれている本殿前の狛犬は、
実はこの狛犬だったんですね。

『千駄ヶ谷の歴史』の巻頭写真には、
戦前の鳩森八幡宮の写真が掲載されていますが、
確かに本殿前に鎮座する狛犬は現在のものではなく、
浅間神社裏にひっそりとたたずむ、巻き毛が特徴的な狛犬です。

ところで、もう一体の小さい方の狛犬ですが、
これは現在のところどこにいた狛犬かわかりません。

神社の話だと、明治維新以降、廃止されたり合祀された、
他社の狛犬を預かる形で安置している可能性が高いということですが、
その由来はまったく不明だそうです。

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千駄谷乃富士塚 #17

2007-03-18 01:18:43 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

富士塚の案内図中、鳥居も含めると、
もっとも大きく目立つ様に書かれた「稲荷社」。
以前の記事で、この稲荷社は実際は塚の裏側に位置する話をしましたが、
今日はこの稲荷社についてです。

案内図中最も目立つ稲荷社



実際に稲荷社を見ると、
鳥居の入口横にある石碑に「甲賀稲荷社」と書いてあります。



富士塚の周辺では最も木々が鬱蒼と茂っている場所にあるので、
昼でもほとんど陽がささず常に暗い印象のお稲荷さんです。

甲賀稲荷社は、その昔青山権田原の鉄砲場付近にあって、
甲賀組々屋敷の武士たちに崇敬されていた神社だそうです。
甲賀組とは近江国甲賀郡がはじまりの幕府直属の鉄砲組で、
この他に根来組、伊賀組、二十五騎組の四組の鉄砲組があって、
これらは全て同心が百人ずつ付属していたので、
百人組とも呼ばれたそうです。

明治十八年 (1885) に青山練兵場が明治神宮外苑に設置されるのに伴い、
鳩森八幡宮に遷座、合祀されたそうですが、
甲賀組の百人衆が鳩森八幡宮を崇敬していた記録が残っているので、
それに関係するのかとも思います。

この時の社は大戦の戦火で焼失し、
現在の社は昭和四十五年 (1970) に再建したものだそうです。



37年の月日の割には手入れが行き届いているのか、
富士塚の施設の中では浅間神社里宮の次に奇麗です。

赤い鳥居の中程左側には、
現在は使われていない古手水鉢があります。



年号を見ると安政七年 (1860) と彫られています。
以前アップした浅間神社前の手水鉢や灯籠と比べると、
百年以上も後のものですが、
それでも今から見れば約百五十年前のものです。
時間が作り出した柔らかい丸味と変色がいい感じです。

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #16

2007-03-17 02:42:17 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

昨日アップした山頂には、
浅間神社の奥宮以外に、釈迦の割石や金明水、銀明水といった、
富士山頂にある名所が鏤められています。
案内図の山頂。



釈迦の割石



実際の割石はみたことがありませんが、
なんとなく、随分違うような気がします。

金明水



本来は神聖な湧き水が出る井戸ですが、
ただの石の凹みですね。

銀明水



こちらもただの石の凹みで、
湧水がでているわけではありません。
ただしどちらとも凹んでいるので、
雨の降った後には、画像のようにしばらく水が残っています。

また浅間神社奥宮とこれらの山頂の名所は、
実際の富士山のものと比べると、
その位置関係はいいかげんです。

勿論東京に大雪でも降らない限り、
この山頂に雪が積もることはありません。

◆ 富士塚の石造遺物 ◆

これまでアップしてきたものが、
おもに富士塚全般に設置されている石造遺物だそうです。
改めて列記すると、
まず頂上には奥宮の石祠、
中腹の向かって右側に小御嶽石尊大権現の石碑か祠、
経ヶ嶽に南無妙法蓮華経の碑、
そして講による落成や改修時の記念碑。
ここまでが基本的な石造物で、
それ以外は各富士塚によって千差万別のようです。

この記事でアップした釈迦の割石や金銀明水などは、
設置しているところも少なく、
また塚によっては「一合目」「二合目」と刻んだ石碑が立つものもあれば、
宝永山などの名所を盛り込んでいる所もあるそうです。

ところで富士山の山頂までの行程は約40キロ、つまり十里ですが、
なぜ一里を一合と言ったのかについては、
山頂に雪が積もった景観が白米を積み上げたように見えることから、
一名穀聚山(こくしゅうざん)とも呼ばれたそうで、
そんな流れで、頂上までの道のりを升目と同じ呼び方にしたそうです。

山頂まで蛇行しても10メートルくらいの道のり。
つまり1/400合からの山裾の眺望です。



◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #15

2007-03-16 00:51:08 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話。
今日は山頂の浅間神社奥宮です。

富士塚の山頂は、小さな平坦地になっていて、
その一角に富士山の溶岩(黒ボク)で造った岩屋があり、
その中に浅間神社の奥宮が鎮座しています。



案内図では「本社」と表記されていますが、
どの参考資料を見ても本社と表記されたものはなく、
実際の富士山の山頂にある浅間神社奥宮と同様に、
富士塚の山頂の社も「奥宮」と書かれているので、
奥宮が正しいのではないかと思います。



奥宮内部の様子。



◆ 江戸の富士参り ◆

富士塚が身禄の遺志を形に残すと同時に、
信仰心があっても富士山へ登れない女性や子供、
そして体の弱い人たちに対して、
バーチャルに登山出来て、富士山と同じ霊験を得られる場所。
として考案されたことは以前の記事で触れましたが、
特に江戸時代末期には庶民の人気を呼んで、
毎年六月一日の山開きの日には、
屋台が並び、参詣人で大混雑だったようです。

初詣をはじめ酉の市や神輿など、
神社にまつわる祭りは今も沢山残っていますが、
富士開きの祭りは、ここ千駄ヶ谷富士では既になく、
鳩森神社が六月三日にささやかな神事を行うだけだそうです。
ただし、東京の十条にある十条富士や、駒込にある駒込富士など、
富士塚によっては地元の鎮守として定着し、
山開きの日に、今でもお祭りが行われているところもあります。

また富士塚は、
富士講徒にとっても、実際の富士山を拝む遥拝所
としての役割も担っていたようで、
塚によっては山頂に「遥拝所」の文字が刻まれた碑が立つところもあり、
全ての富士塚はその山頂から富士山が見える所に造られたそうです。

今は、千駄ヶ谷富士の山頂からは
とても富士山は見えませんが、
かつては見えたのかと思います。

山頂からの浅間神社里宮の眺望。



◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #14

2007-03-15 05:02:00 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

正面登山口の鳥居をくぐり、昨日アップした石橋を渡ると、
緩やかな傾斜で続く登山道のすぐ左に、
「参明藤開山」と彫られた、木の切り株状の碑がたっています。



この碑は、正面から見ると切り株に見えますが、
後ろ半分がすっぱりとなく、上から見ると半円筒形の形をしています。
背面には
「昭和十年五月成 柵工事寄付 講員一同 烏帽子岩總講社」
そして工作者として十四人の名前が彫られています。
画像の碑の背後に写る、登山道を囲う低い手すりが、
この碑文に記された柵です。

江戸時代に築造された富士塚の多くは、
この「参明藤開山」の碑は、山頂にあることが多いそうですが、
この千駄ヶ谷富士の場合は、工事記念碑として山麓にあります。

「参明藤開山」碑の位置



以前アップした記事で触れたように、
塚には沢山の講碑がたてられていますが、
これは江戸時代の末期からの傾向だそうで、
講(あるいは同行※講と同義)そのものの碑をはじめ、
修復や寄進の碑、さらには他講から贈られた碑もたっています。
上述の以前アップした記事では3つの講碑をとりあげていますが、
2番目の丸嘉同行の碑が他講から贈られた碑で、
これは同時に講同士の友好関係も表しているそうです。

「参明藤開山」碑から少し進み、くの字に曲がる登山道の、
「く」の左にでっぱった頂点の位置には、
「南無妙法蓮華経」と彫られた碑がたっています。



「南無妙法蓮華経」碑の位置



かつて日蓮が百日の行をした霊地といわれる経ヶ嶽を表しているそうですが、
以前アップした小御嶽石尊大権現の石碑同様、
具体的な形としての祠などを置かず、
石碑によってその場所や風景を想像させる造りは、
枯山水の庭とはまた全然違った意味で、
謎解き的な感覚があって面白いものだと思います。

そしてこの事は、この記事の最初にアップした「参明藤開山」の碑
にもいえることではないかと思います。
本来「富士開山」が正しいのだと思いますが、
それをあえて「藤」の字を当てたのは、
勿論音読みの際に同じ発音ということもあるのでしょうが、
それよりも以前の記事でも触れた富士講の開祖と言われる角行が、
正式には角行藤仏という名前なので、
その「藤」を表しているのかとも思います。
もっともこの角行という人、素性はっきりしないものの、
長崎出身の長谷川左近という人らしいので、
もともとこの人の「藤仏」自体が掛詞だったのかもしれませんね。

手元の資料に、この事に触れた記述がなかったので勝手に想像しましたが、
富士講からは、はなんとなくそんなトリック使いのにおいを感じます。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #13

2007-03-14 01:17:42 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

昨日までは日本の山岳信仰や富士信仰、
その起源や千駄ヶ谷富士の築造などの話題を中心に、
それにまつわる遺品を見てきましたが、
今日からは山の麓から順に、石造遺品等を見て行きたいと思います。

まず富士塚の正面側の裾の前には御清池があります。



これは富士山北側に今も遺る富士五湖に、
明見湖(あすみのうみ)志比礼(四尾連)湖(しびれのうみ)泉津湖(せんずのうみ)※湧水
の3つを加えた富士八海を模したもので、
富士講徒が富士登拝の際に、一緒に巡礼した霊地だそうです。

富士塚築造の際の盛り土を掘り出した跡を転用したもので、
現在では随分浅くなっていますが、
戦時中はこの池に入って戦火を逃れるほどの深さがあったそうです。



初夏には植え込まれたショウブが一面に咲きます。
池は画像右上方に写る石橋を中心に両側に広がり、
左右の池はほぼ同じ広さです。

中央に架かる石橋は、積年の人の歩行によって丸みがつき、
かなり雰囲気のあるものです。



また正面からみて石橋の右側の池には井戸があります。



竹の侘び具合、水受け石の丸みや苔のむし具合、
枯れ葉と緑の草のバランス、抜群です。

井戸の位置



何故池の中に井戸があるのかはわかりませんが、
井戸を塞いでいる蓋が、
案内図と同じ昭和五十七年 (1982) に造られたと
いう記録だけは遺っているみたいです。

ちなみに一昨日アップした、宝珠と笠が遺っている、
享保十九年の灯籠も、なぜか池の中に建っています。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #12

2007-03-13 01:15:54 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

◆ 千駄ヶ谷富士の築造年代 其の弐 ◆

昨日は登山口両脇の狛犬や、
奉納されている灯籠、手水鉢などに刻まれている年号が、
千駄ヶ谷富士の築造年代とするには幾つかの不自然な点がある。
という話でしたが、
では一体この富士塚はいつ造られたのか?

富士塚の南面半分には沢山の碑や施設がある反面、
北面には殆どなにもないという話は何度かアップしてきましたが、
北面に唯一ある「小御嶽石尊大権現」の碑、
にその答えがあると言われているそうです。



案内図の中の小御嶽石尊大権現の碑



図中ではかなり高い位置に書かれていますが、
実際はほぼ中央の烏帽子岩や身禄窟の手前の登山道を右へ進んで、
塚の裏側へ回ったあたりの位置にあります。

この碑は富士塚を造る際に、
基本的なアイテムとして使われるもので、
富士塚によっては祠が建てられているところもあるそうですが、
千駄ヶ谷の場合は石碑が建てられています。

「小御嶽(こみたけ)石尊大権現」は、
実際の富士山の五合目にある富士山小御岳神社のことで、
かつては石尊大権現ともよばれていたそうです。

大権現の石碑の背面



寛政元年 (1789) と彫られています。
昨日アップした狛犬や灯籠、手水鉢の年号は、
様々な疑問点があることから、
それらは神社自体へ奉納されたものを富士塚へ流用したもので、
純粋に富士塚の為にしか造られることのないこの石碑の年号が、
千駄ヶ谷の富士塚の築造年とする説が、
現在では有力だそうです。

しかしここで一つだけ気になることがあります。
昨日アップした、手水鉢です



右側には昨日の記事で触れたように、
享保十六年 (1731) 、つまり身禄の入定前の年号が刻まれていますが、
左下を見ると、そこに刻まれた文字が、
「講中」と読めなくんもありません。
もしかしたら享保十六年 (1731) の時点で、
たとえ富士塚は造られていなくても、
富士講あるいは烏帽子岩講関連のなにかが、
既に造られていたのかもしれないと思いました。

ちなみに『文政寺社書上』には
「起立は天正年間とこれあり候得共、しかと相知れ申さず候」
(富士塚の起こりは天正年間とあるけど、ちゃんと知られたことではない)
と書いてあるそうです。
天正年間と言えば安土桃山時代の始めなので、
もはや身禄の入定や高田富士の時代の話ではなくなりますが、
昔からその築造年がはっきりしない富士塚なんだと思います。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #11

2007-03-12 14:23:10 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

◆ 千駄ヶ谷富士の築造年代 其の壱 ◆

では千駄ヶ谷富士はいつ造られたのか?

第二次大戦中の戦火での鳩森神社の焼失と共に、
神社にあった富士塚の資料も全て無くなってしてしまったため、
千駄ヶ谷の富士塚がいつ築造されたのかは、ずっと謎に包まれていました。

昭和五十二年 (1977) の文芸春秋十一月号の特集「忘れられた石像」に、
千駄ヶ谷富士の正面登山口に対で立つ狛犬が紹介されたことがきっかけで、
その台座に刻印された年号から、富士塚築造の年が推測されましたが、
それは同時に、
その後の千駄ヶ谷富士の築造年代論争の発端とも言われています。

富士塚正面登山口の狛犬

 

左の狛犬は、口の周辺が少し崩れているのかと思いますが、
その風貌とともにいい味を出しています。

狛犬と台座の間(特に右)が、ちょっと不自然な接着に見えますが、
この件に関しては後日アップしようと思います。

右の狛犬の台座に刻まれた年号



ちょっと読みにくいですが、
享保二十年 (1735) と刻まれています。

また、浅間神社前の小さなスペースに置かれている、
宝珠や傘、火袋、中台、全てがなく、
竿だけになってしまっている灯籠(左)と、
手水鉢にもそれぞれ年号が刻まれています。



灯籠(左)と手水鉢に刻まれた年号

 

灯籠には享保十九年 (1734)、手水鉢には享保十六年 (1731)、
とそれぞれ刻まれています。

また正面登山口のすぐ脇にも、
前述のものより少し大きめの灯籠があります。



こちらは宝珠と笠はあるものの、
やはり火袋と中台は無くなってしまっています。
画像では限りなく見えにくいですが、
よくよく見るとこちらも前出の灯籠と同じ、
享保十九年 (1734) と刻まれています。

身禄入定は享保十八年 (1733) なので、
灯籠と狛犬の奉納年からすると、
入定後すぐに築造されたことになりますが、
ここで一つおかしなことは、灯籠と狛犬はいいとしても、
手水鉢は身禄入定の前に奉納されていることになります。

また2日前の記事にアップしたように
身禄入定後、故人の遺志を形に残すために、
藤四郎によって造られた高田富士 (1771) が、
最初に造られた富士塚という記録も残っているので、
この点からも疑問をはさむ余地があるようです。

ではこの千駄ヶ谷富士はいつ造られたのか?
  
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #10

2007-03-11 01:12:37 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。
昨日までは富士信仰の隆盛や富士塚の誕生と、
富士塚にまつわる一般的な話でしたが、
そろそろ千駄ヶ谷の富士塚に焦点を絞って進めて行きたいと思います。

◆ 富士講 ◆

千駄ヶ谷の富士塚は、
かつて千駄ヶ谷を中心にした農村地域の農民が主な構成員だった、
烏帽子岩講の手によるもので、
最盛期には三百人以上の講員がいた大富士講だったそうです。

講名の烏帽子岩は2日前の記事でも触れた、
身禄入定の近くにあった岩の名前からとったもので、
笠印(講印)は烏帽子の中に岩の文字をあしらったものです。

講印を「笠印」というのは、
富士山登拝の際にかぶった笠に付けた印から来たもので、
浅間神社の左横の薮の中にひっそりとある修復の碑に、
最も奇麗な形で遺っています。



このシリーズのヘッダー左につけたマーク。
これが烏帽子岩講の笠印です。



昨日アップした總同行の講碑にも、
烏帽子に岩の文字をあしらった笠印がついていますが、
上の笠印とは細かな部分がかなり違い、
笠印がそれほど厳密なものでなかったことが分かります。

身禄の『三十一日の巻』や富士塚の築造によって、
爆発的に増えた富士講は、
最盛期には江戸八百八町全てに富士講あり、
とまでいわれるほどだったそうです。

昨日の記事で触れたように、
烏帽子岩講が築造した富士塚に丸嘉同行の富士講の碑があるなど、
富士講は各講同士、かなり交流があったんではないかと思います。
新宿の花園神社境内にある新宿富士には、
沢山の講が連盟で刻まれた講碑もあるくらいです。



上部に山を付け、
丸で囲んだ中に講名にちなんだ漢字を配置するのが基本のようです。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #09

2007-03-10 04:14:55 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。
昨日までは日本の山岳信仰、
そして富士山信仰の成り立ちを見てきましたが、
ではなぜバーチャルな富士山をつくることになったのか。

◆ 富士塚の誕生 ◆

記録に残る日本で一番古い富士塚は、
安永八年 (1779) 、身禄の直弟子で造園師だった藤四郎が、
新宿区戸塚に築いた「高田富士」といわれていますが、
これは身禄追悼のためになにか形に遺るものを、と思った藤四郎が、
得意の造園技術を生かし、
富士山の溶岩(黒ボク)を山肌に貼付けるなどして造ったもので、
こうして出来上がった富士塚は、
「駿河の富士に正写し」とまで言われたそうです。

当時は富士山に女性や子供が登ることは禁じられていたので、
それら婦女子や、体が弱い人、また経済的に恵まれない人など、
富士山を信仰する気持ちがあっても実際に登れない人たちに、
少しでも富士山の山肌を感じてもらおうという目的もあったようです。

これが江戸で人気を呼び、
以降続々と江戸市中に富士塚が造られるようになり、
その中の一つが千駄ヶ谷を中心に活動していた、
烏帽子岩講という富士講が造った千駄ヶ谷富士だったそうです。

ちなみに富士講の「講」は、
クラブやサークルのようなニュアンスのもので、
富士塚はこの富士講によって造られたものだけを指すようです。
藤四郎も丸藤講という富士講の講祖でした。

そう思ってみると、
千駄ヶ谷の富士塚には沢山の「講」の文字が刻まれた石碑があります。
正面登山道を少し登った右側にある講碑



惣同行と刻まれた、殆ど埋まっている講碑。
裏面が完全に埋没しているので、いつの碑かわかりません。

また以前アップした浅間神社のすぐ右横には、
丸嘉同行の献碑が建っています。



右寄りに近江屋嘉右エ門の名前が刻まれていますが、
これは赤坂小伝馬町にあった有力富士講
「丸嘉同行」の主催者の名前だそうです。
笹に埋もれた下部には、桜田久保町や四谷仲町など、
その勢力範囲が刻まれています。

またこの碑の手前の低い位置にも講碑があります。



こちらは總講社と刻まれていますが、
最初の碑同様、背面が完全に埋まっているので、
いつの碑なのかまったくわかりません。

案内図にはこの3つの碑は書かれていませんが、
おおよその位置を着色してみました。



正面鳥居の右上が、1番上の碑、
その左上が2番目の丸嘉同行の碑、
左下が3番目の碑です。

■ 追 記 ■ 17.MAR.2007

一番最後にアップしている碑を後日再度見ると、
碑の右寄りに薄く明治十三年 (1880) と彫られていたのを発見したので、
追記しておきます。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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