渾身のバカ話にもイマイチ反応の鈍いこのブログなので、
どうせなら真面目な話も書いてやる! と半ば切れ気味に書いております。
先日アップした古尾谷雅人氏の記事に、
みか氏がこんなコメントを付けてくれました。
ずっと 「取材を受ける人を楽しませる」
というあなたの言葉について考えています。
本当に、侮れません、この人。
さらりと、物事の本質を抉り出します。
栃木県にはうかつに近づけません。
さて。
「芸術の本質は、太陽の光のように万人に平等だ」
これは、取材に岡本太郎宅を訪れたとき、敏子さんに聞いた、
岡本太郎氏の口癖(エッセンスだけ拝借)です。
それまで別に岡本さんのことは好きでも嫌いでもなかったのだけれど
この言葉に触れたとき、オレは彼のことを大好きになりました。
芸術家が、何がしかの糧によって生きていく限り、
芸術を「売る」ことは、致し方ないこと。
逆に言えば、自分の生み出す芸術作品で食っていけなくては
プロと言えないわけで。
でも、しかし、それでも、芸術は太陽の光のように、
誰にでも降り注がれて、初めてその価値がある。
その矛盾点に、オレは憧れちゃうしぐっとくるわけです。(注:1)
というのも、オレのしている仕事が、
どこをどうこねくり回しても「誰かにとっての有料」だからです。
雑誌の記事にしても、単行本にしても、
無償で閲覧できるウェブの記事にしてもクライアントがオレの文章を買ってくれるわけで、
どこかに必ず「金銭のやり取り」があるのです。
ということは、書き手であるオレと、
その文章を読む読者の間には、
目を凝らさなければ見えないにしても、有料という名の夾雑物が横たわってるわけです。
つまりオレの生み出すものは、決して芸術作品にはなり得ない、ということです。
それは「少しの悲しみ」であり、
プロとしての最低限の「矜持」でもあり、
エンターテイナーであろうとするオレの、依って立つスタンスである、のです。
んで、やっとこさ最初の「取材を受ける人を楽しませる」ですが。
取材を申し込むときのこっちのスタンスは、
「面白い記事を書きたい」です。(注:2)
んでもって、先方のスタンスは
「記事になることで自分のパブリシティになる」です。
ここには、幸いなことに「有料」が横たわっていないんです。
取材の瞬間にだけ、経済活動が停滞するんです。
だからこそ、取材の席で、オレは相手を楽しませてみたい。
同じ取材を受けるにしても、有意義だったし楽しかった、と
相手に思ってほしい。
もうこれは、ポリシーとかではなく、
そうしなくちゃ気がすまない、という
駄々っ子レベルの願望なのです。
ほんのちょびっとだけでも、オレの行為が
万人に平等でありえる瞬間なわけです。
オレの書く記事を読んで、読者の誰かがどこかで
ちょっと「ほう」とか
「へぇ」とか「くすっ」とか、
そーいう動きがあってくれれば、それは無上の喜び。
でも、そういう読者の顔が見えないのが大前提の、読み捨て記事書きがオレなのです。
だから、取材のときくらいは、
相手を好きになりたいし、
好きになってもらいたいし、
楽しみたいし楽しませたい。
ただただ、それだけなんですよ。
注:1 なので、岡本氏はなるべく自治体などに作品を売り、
それを公園に展示するなどして、誰にでも見てもらえるようにしたかったそうです。
今でこそお宅は記念館形式で運営され、観覧料がかかってしまうのですが……。
注:2 ワタクシ、ジャーナリストではございません。
社会正義とか、そーいうことで文章を書くことがないので、こう言い切ります。
注:3 だから、締め切りもギャラも文字数限定もない、こーいうところに書く文章は苦手です。
ね、面白くもなく、だらだらしちゃうでしょ? くすん。
どうせなら真面目な話も書いてやる! と半ば切れ気味に書いております。
先日アップした古尾谷雅人氏の記事に、
みか氏がこんなコメントを付けてくれました。
ずっと 「取材を受ける人を楽しませる」
というあなたの言葉について考えています。
本当に、侮れません、この人。
さらりと、物事の本質を抉り出します。
栃木県にはうかつに近づけません。
さて。
「芸術の本質は、太陽の光のように万人に平等だ」
これは、取材に岡本太郎宅を訪れたとき、敏子さんに聞いた、
岡本太郎氏の口癖(エッセンスだけ拝借)です。
それまで別に岡本さんのことは好きでも嫌いでもなかったのだけれど
この言葉に触れたとき、オレは彼のことを大好きになりました。
芸術家が、何がしかの糧によって生きていく限り、
芸術を「売る」ことは、致し方ないこと。
逆に言えば、自分の生み出す芸術作品で食っていけなくては
プロと言えないわけで。
でも、しかし、それでも、芸術は太陽の光のように、
誰にでも降り注がれて、初めてその価値がある。
その矛盾点に、オレは憧れちゃうしぐっとくるわけです。(注:1)
というのも、オレのしている仕事が、
どこをどうこねくり回しても「誰かにとっての有料」だからです。
雑誌の記事にしても、単行本にしても、
無償で閲覧できるウェブの記事にしてもクライアントがオレの文章を買ってくれるわけで、
どこかに必ず「金銭のやり取り」があるのです。
ということは、書き手であるオレと、
その文章を読む読者の間には、
目を凝らさなければ見えないにしても、有料という名の夾雑物が横たわってるわけです。
つまりオレの生み出すものは、決して芸術作品にはなり得ない、ということです。
それは「少しの悲しみ」であり、
プロとしての最低限の「矜持」でもあり、
エンターテイナーであろうとするオレの、依って立つスタンスである、のです。
んで、やっとこさ最初の「取材を受ける人を楽しませる」ですが。
取材を申し込むときのこっちのスタンスは、
「面白い記事を書きたい」です。(注:2)
んでもって、先方のスタンスは
「記事になることで自分のパブリシティになる」です。
ここには、幸いなことに「有料」が横たわっていないんです。
取材の瞬間にだけ、経済活動が停滞するんです。
だからこそ、取材の席で、オレは相手を楽しませてみたい。
同じ取材を受けるにしても、有意義だったし楽しかった、と
相手に思ってほしい。
もうこれは、ポリシーとかではなく、
そうしなくちゃ気がすまない、という
駄々っ子レベルの願望なのです。
ほんのちょびっとだけでも、オレの行為が
万人に平等でありえる瞬間なわけです。
オレの書く記事を読んで、読者の誰かがどこかで
ちょっと「ほう」とか
「へぇ」とか「くすっ」とか、
そーいう動きがあってくれれば、それは無上の喜び。
でも、そういう読者の顔が見えないのが大前提の、読み捨て記事書きがオレなのです。
だから、取材のときくらいは、
相手を好きになりたいし、
好きになってもらいたいし、
楽しみたいし楽しませたい。
ただただ、それだけなんですよ。
注:1 なので、岡本氏はなるべく自治体などに作品を売り、
それを公園に展示するなどして、誰にでも見てもらえるようにしたかったそうです。
今でこそお宅は記念館形式で運営され、観覧料がかかってしまうのですが……。
注:2 ワタクシ、ジャーナリストではございません。
社会正義とか、そーいうことで文章を書くことがないので、こう言い切ります。
注:3 だから、締め切りもギャラも文字数限定もない、こーいうところに書く文章は苦手です。
ね、面白くもなく、だらだらしちゃうでしょ? くすん。