……ということについては
最近どうも市民権が与えられているような気がします。
タモリが坂道の本を出し、エレカシ宮本が古地図についてメリハリのないトークを繰り広げたり(え? 喩えが分かりにくいですか?)。
こと趣味の世界についていえば、サイレント・マイナリティは
すでにあり得ないのかもしれません。
しかし。
変わってないモノ、つまり「世間では当たり前」のモノを
進んで「嫌い」と言うと、途端に眉をしかめられるのは何故なのでしょうねえ。
オレは、お祭りが嫌いです。
お囃子もソースの匂いもおねーちゃんの浴衣も、
これっぽっちも「ドキドキわくわく」を誘引してくれません。
オレは、おでんが嫌いです。
出されたものは何でも食べる貧乏人の小せがれですから
もちろん、食べます。
でも、あんなもん、ある日突然法律で禁止されたとしても
復権の署名には絶対参加しません。
オレは、泣ける映画が嫌いです。
うっかり泣いちゃう映画は好きです。
でも「泣ける」ことを目的とした映画は、どうしてもダメです。
泣くのはいいけど、泣かされるのなんざ、ごめんこうむります。
というより、「泣く」という感情の発露を「笑う」程度の日常的なレベルにして
映画をキッカケにして能動的に「どうだこの!」と持ってくるのがイヤなんです。
「何も、進んで嫌い、って言わなくてもいいでしょ?
どっちでもいいじゃん。別に害がある訳じゃないし」という声が聞こえてきそうです。
でもでも、オレはこう思います。
明らかに害のあるモノを「それはダメだ」と言うのは、
好き嫌いではなく、何だったらもしかしたら、義務です。
好き、と言う権利を認めるのであれば
嫌い、と言う自由も認めてください。
お祭り、おでん、泣ける映画が好きだと「言う」自由は
もちろん当然当たり前に、尊重しています。
お祭りが大好きで、でも、お祭りが嫌いな人を差別しない、
そんな人がたくさんいればなあ、と思います。
おでんが大好きで、でも冬のデートに一緒に鍋を食いに行ってくれる、
そんな人が多いといいな、と思います。
「○○が好き」と明言する力の何分の一かを、
それを嫌いな人への許容に振り分けてくれればなぁ、と。
最近どうも市民権が与えられているような気がします。
タモリが坂道の本を出し、エレカシ宮本が古地図についてメリハリのないトークを繰り広げたり(え? 喩えが分かりにくいですか?)。
こと趣味の世界についていえば、サイレント・マイナリティは
すでにあり得ないのかもしれません。
しかし。
変わってないモノ、つまり「世間では当たり前」のモノを
進んで「嫌い」と言うと、途端に眉をしかめられるのは何故なのでしょうねえ。
オレは、お祭りが嫌いです。
お囃子もソースの匂いもおねーちゃんの浴衣も、
これっぽっちも「ドキドキわくわく」を誘引してくれません。
オレは、おでんが嫌いです。
出されたものは何でも食べる貧乏人の小せがれですから
もちろん、食べます。
でも、あんなもん、ある日突然法律で禁止されたとしても
復権の署名には絶対参加しません。
オレは、泣ける映画が嫌いです。
うっかり泣いちゃう映画は好きです。
でも「泣ける」ことを目的とした映画は、どうしてもダメです。
泣くのはいいけど、泣かされるのなんざ、ごめんこうむります。
というより、「泣く」という感情の発露を「笑う」程度の日常的なレベルにして
映画をキッカケにして能動的に「どうだこの!」と持ってくるのがイヤなんです。
「何も、進んで嫌い、って言わなくてもいいでしょ?
どっちでもいいじゃん。別に害がある訳じゃないし」という声が聞こえてきそうです。
でもでも、オレはこう思います。
明らかに害のあるモノを「それはダメだ」と言うのは、
好き嫌いではなく、何だったらもしかしたら、義務です。
好き、と言う権利を認めるのであれば
嫌い、と言う自由も認めてください。
お祭り、おでん、泣ける映画が好きだと「言う」自由は
もちろん当然当たり前に、尊重しています。
お祭りが大好きで、でも、お祭りが嫌いな人を差別しない、
そんな人がたくさんいればなあ、と思います。
おでんが大好きで、でも冬のデートに一緒に鍋を食いに行ってくれる、
そんな人が多いといいな、と思います。
「○○が好き」と明言する力の何分の一かを、
それを嫌いな人への許容に振り分けてくれればなぁ、と。