終点の徳島に到着しました。
明日の午前中に出発するフェリーで東京に帰ることになっています。
徳島の名物・・・といえば、阿波踊りですが、「徳島ラーメン」も忘れてはなりません。
写真を見ていただくとすぐおわかりだと思いますが、ここの ラーメンは相当「くどい」です。店の外からして匂ってきます。
しかし、これが実にうまかったのです。毎日いりこだしのうどんばかり食べている反動でしょうか?
実は、今日の午前中にフェリーで高松に渡ったので、また讃岐うどんの店に寄ってしまいました。その後に食べる徳島ラーメンは、まったく違う系統の味なので、新鮮に感じるのかもしれませんね。徳島の人も、同じように感じてこのラーメンにたどり着いたのかもしれません(珍説)。
最後に、自分は社会科も教えているので、今の時代を理解するのに役に立ちそうなことでも書いてみたいと思います。
今回は瀬戸内海の周辺地域を回ってみましたが、率直な感想として、地域の違いが感じられて面白かったです。
同じ瀬戸内海沿岸でも、岡山や広島県の東部は大阪・神戸と地続きなので、お店や食べ物がそれほど大都市と変わりません。
他方、四国は、もっとも本州と距離的に近い香川や、明石海峡大橋で本州とつながった徳島でも、かなり本州と違います。一番簡単にわかるのは、
●東京にたくさんあるチェーン店(たとえば牛丼などの「松屋」)の少なさ
●うどん屋の多さ(ラーメン屋の少なさ)
ですね。四国の人はうどんが大好きという話を伝聞で知っていたのですが、今回確信しました。
それだけ本州の「発展」から取り残されているといってしまえばそれまでです。しかし、だからといって高松の駅前に「みなとみらい21」の真似をして変なタワーなんて建ててほしくないです。田舎は田舎くささを逆手にとって、東京とは違った方向で発展してほしいと思います。
何でもほしい物がすぐ買えることだけが、「発展」ではないはずです。シャッター商店街が目に付いた今治にも、たとえば「今治風焼き鳥」という他にはない売り物があります。
これからは、そういう「個性」を前面に押し出すことが、地方が生き延びていく鍵だと私は確信しました。
東京に住んでいても強く感じることがあります。それは、この国が、いまだに高度成長期に作られた常識に縛られてしまっているということです。右肩上がりの成長や高い出生率を前提とした年金制度などが典型でしょう。1960年代から70年代に整備されたいろんな仕組みが、今では時代に合わなくなってきているのです。
それが、地方に行くと、もっとはっきりと現れていることが、今回わかりました。シャッター商店街も、地元にある品揃えの悪い商店街でも物が売れた、言い換えれば車がないのでそこで買うしかなかった時代には、十分通用したのです。しかし、郊外に大型店ができてしまうと、みんな便利だからそこに行ってしまう。これは、考えてみれば当たり前のことです。地方の商店街にしかできないことをするしか、生き延びる方法はないのです。
それにもかかわらず、いまだに地方自治体の多くは土木工事を理由にして中央の官庁から予算を取ってくることばかり考えています。これは、後で述べるように、田中角栄が首相だった時代に常套手段になったので、仮に「1970年代方式」とでも言っておきます。
この方式にも、一定の合理性が認められる時代は、確かにありました。高度成長と円高によって、割安な輸入品を外国から購入できるようになりました。そこで、まず滅びたのが林業です。そして、若者離れが進んでいた農漁業も、だんだんと元気を失っていきました。そういう時期に、あくまで「緊急避難」として、土木工事で雇用を維持することが有効だったのです。
しかし、田中角栄の時代あたりから、土木事業による雇用創出を恒常化してしまったことが、現在までの地方の物乞い体質を形作ってしまったのです。これは、自民党の票取り、官僚の権限拡大などの思惑とも一致していました。そして何より、日本がまだ無条件に成長を続けていたので、上のようなやり方のマイナス面=地方の財政的自立や個性的・自律的な発展の阻害は誰も気にしなかったのです。
あの時代に、社会党や共産党、それに自民党の若い政治家達が、きちんとした未来のビジョンを描いていたら、日本はここまで急激な変化を強いられることはなかったはずです。そして、「痛みを伴う改革」など必要なかったはずなのです。
再び日本が豊かになれば、1970年代方式でもいいのかもしれませんが、これだけグローバルな競争が繰り広げられている世界で、日本だけがのうのうと発展をしていくような未来が訪れる確率は、限りなくゼロに近いでしょう。なにしろ、ものを作って売るだけなら、日本の十分の一の人件費でやってしまう恐ろしい国が近くにいるのですから・・・。
地方もいい加減に1970年代が「死んだ」ことを認めるべきなのです。
田舎に行くと、自民党の議員のポスターでさえ、「地方から日本を変える」などと書いてあります。しかし、多くの地方自治体はいまだに「1970年代方式」にしがみついたままです。財務省が財源の地方移譲に消極的だとか、いろいろ文句はつけられるでしょうが、一番問題なのは、1970年代方式がだめになったことをわかっているにもかかわらず、地方がそれにぶら下がっていることです。これではまるで、自立できないニートや引きこもりと変わりません。
高度成長の時代に膨れ上がってしまった組織や意思決定方式を整理して、身の丈にあった成長をするのが、これからはカッコいいことだと思います。
愛媛県の今治市で、原宿みたいな若者向けの店を作っても全然カッコよくありません。秋葉原にいる「電車男系」の人が、雑誌を見て無理やり「ギャル男」になったみたいで、気持ち悪いです。それが、六本木ヒルズの3番煎じくらいの変なビルだったら、なおさらです。
それより、商店街を半分くらい今治風焼き鳥の店にしてしまう方がいいです。「焼き鳥を食うなら今治だ」と言われるようになれば、四国の他の県からも人がやってきます。しまなみ海道の通行料が500円くらいになれば、広島や岡山からだって来ますよ。個性というのは、そういうものなのです。
そういう地方の「個性化」を可能にするのが、地方自治なのではありませんか。橋や道路を作っているばかりの行政には、住民がきちんと「ノー」の意思表示をしてほしいです。
そうでもしなければ、脅すようですが、何十年も後に移民を受け入れるようになったとき、ある地方都市が外国人にのっとられるような事態にもなりかねません。日本の文化伝統を守るためにも、絶対に地方都市のゴーストタウン化を防がなくてはならないのです。
地方の方もこのブログをご覧になっていたら、ぜひとも自分の町や村の「個性」について、一度考えてみてください。よかったら、コメントでもつけていただけると幸いです。
いくつになっても、旅をするというのは勉強になりますね。机上の空論は、広がりがないと痛感します。開成高校や東大にいるエリートのみなさんや、霞ヶ関の役人も、いろんな地方を一人で旅行をしてほしいものです。
明日の午前中に出発するフェリーで東京に帰ることになっています。
徳島の名物・・・といえば、阿波踊りですが、「徳島ラーメン」も忘れてはなりません。
写真を見ていただくとすぐおわかりだと思いますが、ここの ラーメンは相当「くどい」です。店の外からして匂ってきます。
しかし、これが実にうまかったのです。毎日いりこだしのうどんばかり食べている反動でしょうか?
実は、今日の午前中にフェリーで高松に渡ったので、また讃岐うどんの店に寄ってしまいました。その後に食べる徳島ラーメンは、まったく違う系統の味なので、新鮮に感じるのかもしれませんね。徳島の人も、同じように感じてこのラーメンにたどり着いたのかもしれません(珍説)。
最後に、自分は社会科も教えているので、今の時代を理解するのに役に立ちそうなことでも書いてみたいと思います。
今回は瀬戸内海の周辺地域を回ってみましたが、率直な感想として、地域の違いが感じられて面白かったです。
同じ瀬戸内海沿岸でも、岡山や広島県の東部は大阪・神戸と地続きなので、お店や食べ物がそれほど大都市と変わりません。
他方、四国は、もっとも本州と距離的に近い香川や、明石海峡大橋で本州とつながった徳島でも、かなり本州と違います。一番簡単にわかるのは、
●東京にたくさんあるチェーン店(たとえば牛丼などの「松屋」)の少なさ
●うどん屋の多さ(ラーメン屋の少なさ)
ですね。四国の人はうどんが大好きという話を伝聞で知っていたのですが、今回確信しました。
それだけ本州の「発展」から取り残されているといってしまえばそれまでです。しかし、だからといって高松の駅前に「みなとみらい21」の真似をして変なタワーなんて建ててほしくないです。田舎は田舎くささを逆手にとって、東京とは違った方向で発展してほしいと思います。
何でもほしい物がすぐ買えることだけが、「発展」ではないはずです。シャッター商店街が目に付いた今治にも、たとえば「今治風焼き鳥」という他にはない売り物があります。
これからは、そういう「個性」を前面に押し出すことが、地方が生き延びていく鍵だと私は確信しました。
東京に住んでいても強く感じることがあります。それは、この国が、いまだに高度成長期に作られた常識に縛られてしまっているということです。右肩上がりの成長や高い出生率を前提とした年金制度などが典型でしょう。1960年代から70年代に整備されたいろんな仕組みが、今では時代に合わなくなってきているのです。
それが、地方に行くと、もっとはっきりと現れていることが、今回わかりました。シャッター商店街も、地元にある品揃えの悪い商店街でも物が売れた、言い換えれば車がないのでそこで買うしかなかった時代には、十分通用したのです。しかし、郊外に大型店ができてしまうと、みんな便利だからそこに行ってしまう。これは、考えてみれば当たり前のことです。地方の商店街にしかできないことをするしか、生き延びる方法はないのです。
それにもかかわらず、いまだに地方自治体の多くは土木工事を理由にして中央の官庁から予算を取ってくることばかり考えています。これは、後で述べるように、田中角栄が首相だった時代に常套手段になったので、仮に「1970年代方式」とでも言っておきます。
この方式にも、一定の合理性が認められる時代は、確かにありました。高度成長と円高によって、割安な輸入品を外国から購入できるようになりました。そこで、まず滅びたのが林業です。そして、若者離れが進んでいた農漁業も、だんだんと元気を失っていきました。そういう時期に、あくまで「緊急避難」として、土木工事で雇用を維持することが有効だったのです。
しかし、田中角栄の時代あたりから、土木事業による雇用創出を恒常化してしまったことが、現在までの地方の物乞い体質を形作ってしまったのです。これは、自民党の票取り、官僚の権限拡大などの思惑とも一致していました。そして何より、日本がまだ無条件に成長を続けていたので、上のようなやり方のマイナス面=地方の財政的自立や個性的・自律的な発展の阻害は誰も気にしなかったのです。
あの時代に、社会党や共産党、それに自民党の若い政治家達が、きちんとした未来のビジョンを描いていたら、日本はここまで急激な変化を強いられることはなかったはずです。そして、「痛みを伴う改革」など必要なかったはずなのです。
再び日本が豊かになれば、1970年代方式でもいいのかもしれませんが、これだけグローバルな競争が繰り広げられている世界で、日本だけがのうのうと発展をしていくような未来が訪れる確率は、限りなくゼロに近いでしょう。なにしろ、ものを作って売るだけなら、日本の十分の一の人件費でやってしまう恐ろしい国が近くにいるのですから・・・。
地方もいい加減に1970年代が「死んだ」ことを認めるべきなのです。
田舎に行くと、自民党の議員のポスターでさえ、「地方から日本を変える」などと書いてあります。しかし、多くの地方自治体はいまだに「1970年代方式」にしがみついたままです。財務省が財源の地方移譲に消極的だとか、いろいろ文句はつけられるでしょうが、一番問題なのは、1970年代方式がだめになったことをわかっているにもかかわらず、地方がそれにぶら下がっていることです。これではまるで、自立できないニートや引きこもりと変わりません。
高度成長の時代に膨れ上がってしまった組織や意思決定方式を整理して、身の丈にあった成長をするのが、これからはカッコいいことだと思います。
愛媛県の今治市で、原宿みたいな若者向けの店を作っても全然カッコよくありません。秋葉原にいる「電車男系」の人が、雑誌を見て無理やり「ギャル男」になったみたいで、気持ち悪いです。それが、六本木ヒルズの3番煎じくらいの変なビルだったら、なおさらです。
それより、商店街を半分くらい今治風焼き鳥の店にしてしまう方がいいです。「焼き鳥を食うなら今治だ」と言われるようになれば、四国の他の県からも人がやってきます。しまなみ海道の通行料が500円くらいになれば、広島や岡山からだって来ますよ。個性というのは、そういうものなのです。
そういう地方の「個性化」を可能にするのが、地方自治なのではありませんか。橋や道路を作っているばかりの行政には、住民がきちんと「ノー」の意思表示をしてほしいです。
そうでもしなければ、脅すようですが、何十年も後に移民を受け入れるようになったとき、ある地方都市が外国人にのっとられるような事態にもなりかねません。日本の文化伝統を守るためにも、絶対に地方都市のゴーストタウン化を防がなくてはならないのです。
地方の方もこのブログをご覧になっていたら、ぜひとも自分の町や村の「個性」について、一度考えてみてください。よかったら、コメントでもつけていただけると幸いです。
いくつになっても、旅をするというのは勉強になりますね。机上の空論は、広がりがないと痛感します。開成高校や東大にいるエリートのみなさんや、霞ヶ関の役人も、いろんな地方を一人で旅行をしてほしいものです。