ブログの記事を書くためのネタを掘り起こしていたら、2年前自分で書いた日記が見つかりました。
私という人間がどのような道をたどって今に至ったか、ご理解いただけるかもしれないので、トラックバック無用で記事にしてみることにします。(注:当時は、旧司法試験の受験生でした。また、所属会社を推測可能な部分は表現を変えています)
今日風呂に入っていたとき、ふとA君のことを思いだした。
講師になって2年目と3年目、彼とはよく遊んでいた。もっとも、僕が彼の家に押し掛けるかたちがほとんどだったけれど。いわゆる、「ひきこもり」だった。促しても全然外に出ようとしない。俺もいらいらして、とうとう最後は絶縁してしまった。
あのときは、ひきこもりをする人間の気持ちが全く理解できなかった。人間として弱いだけなのではないかと思っていた。最後の方は、努力すれば世界が開けるのに・・・がんばれよ!という感じの物言いをしていたように思う。今思えば、まるで、「これからの世界は勝ち組だけが生き残る!」とか鼻息を荒くしている、あの落合信彦みたいだったと思う。
はっきり言って、今日まで彼のことをすっかり忘れていた。それをなぜ、今になって思い返したのか。
僕は、最近、よく受からなかった後の自分を思う。
司法試験は難しい試験だ。受からない可能性の方が遙かに大きい。そんな僕は、もう10月で30歳だ。塾の仕事をやってきて、きっと自分は試験に合格すると思いながら受験勉強も5年になる。その間に、仕事の他に、自分の商品価値が上がるようなことはほとんどやってこなかったと気づく。行政書士には合格したが、新規に開業して安定した生活をしていける人間はほとんどと言っていいほど、いない。つまり、僕には塾の先生として教える以外、売り物が何もないのだ。
そんな自分が、これから何か「まともな」仕事に就けるのだろうか。とても不安になる時がある。「まとも」というのは、結婚をして、子供を育てていけるという意味だ。おそらく、合格しなければそれは困難だろう。
もし、「まとも」な暮らしがしたいなら、事業を興すにしろ、会社で勤めるにも、また、競争をしなければならない。それにもかかわらず、その競争に勝つための技術や資質は僕にはほとんどない。もちろん、それらを養うことはできないわけではない。しかし、生活していかなければ行けない以上、短期間で何かを身につけるというのは難しい。
それに、ここで法律を捨ててしまうとなると、一体何のための5年だったのか、何のための勉強だったのか、全てが無駄になってしまう。
同僚の仲の良かった女性にそれを言ったら、決して無駄にはなりませんよ、と言ってくれた。申し訳ないが、それは精神論に過ぎないと思う。もちろん、僕の法律に対する理解は一般人を遙かに凌ぐだろう。しかし、それだけだ。法律に携わる仕事は、士業として資格を取って初めて自分の事業として成立する。その資格を得るため、受験勉強に膨大な時間をつぎ込み、他の業界に進む可能性やそのために必要な能力は全く養わずに来た。その見返りが、単なる法律の知識だけだとしたら、悲しすぎる。
知り合いの東大生は、卒業したその年にすぐに司法試験に合格してしまった。彼には、おそらく能力があったのだろう。そして、論文試験を2回受けても、まだ上に4000人もいる僕は、あまり能力はないのだろう。
以前ならそれでもよかった。論文を5回6回受けるのは当たり前だったし、受かれば弁護士にはなれた。
しかし、今はそうではない。ロースクールができてしまったからだ。弁護士は年間に2000人単位で増えていく。また、競争だ。それはいい。ボーダーレス化する今の世界では、競争を免れることができる人間はいないからだ。しかし、大学を中退した人間の受験機会が、2010年で(実質的には、2005年で)完全に消滅してしまうことはどうだろう。全く受験のチャンスがなくなってしまうなど、5年前には思わなかった。わかっていたら、受験を思い立ったりなどしなかったかもしれない。しかし、誰もそれを埋め合わせてなどくれない。
いよいよ、追いつめられてしまった。このまま、塾の講師を続けるのか。しかし、ある年齢が来たら、もう今のような条件で働くことは出来なくなる。
いや、そもそもこの業界が、僕のいる会社が、その時まで今のように存続していけるのだろうか。僕のような非常勤の人間は、沈みゆく船の錘になってしまうからと、切り捨てられても文句は言えない。だからといって、何をすればいいのか。試験に受かるなら、と、今まで続けてきた。その可能性が事実上なくなってしまうまでもうすぐだ。受かるかどうかは、誰にもわからない。もう、泣き叫びたいくらいの心境だ。
しかし、そんな思いで胸が塞がって、初めて分かったことがある。
それは、どんなに頑張っても社会的弱者に追い込まれてしまう人間が、必ず存在するということだ。もちろん、道ばたで寝転がっているホームレスのおじさん達が、みんな現代社会の犠牲者などと言うつもりはない。自助努力を怠った「どうしようもない人間」はかなりたくさんいるだろう。
しかし、全員がそうなのだろうか。保証人になってしまい、債権者に追いまくられて故郷を追われた人も少なからずいる。小泉改革で一方的に地方に配分される金が減り、仕事がなくなってしまった建設業者もいるだろう。そんな人たちが皆、「どうしようもない人間」なのだろうか。今安定した生活を送っている人間が同じ状況に置かれたとき、本当に努力したり、がんばったりできるのだろうか。
よく言われることは、仕事にあぶれているおじさん達や、フリーター生活を余儀なくされているのは、「努力が足りない」ということだ。自分の能力を伸ばす努力をした人間が「勝ち組」になるのは当たり前だ、「負け組」は自己変革と時代の波を読むことを怠った人間で、そんな人間が社会の底辺にいるのは当たり前だ・・・落合信彦の著作でも読むといい。まるで、日本のアメリカ化を礼賛するかのようなフレーズばかりが並んでいる。
しかし、そういった考えは、重要な点を見逃している。人間にはもともと能力の差がある。それに、全ての人間に平等なチャンスが保証されているわけではないのだ。運や巡り合わせというものは、必ずある。生まれる家が違うだけで、人生が変わってしまうことも多い。これは、落合信彦や小泉首相も否定はしないだろう。
そういう運や巡り合わせと縁がない人間は、数少ないチャンスのために、過当な競争に晒される。人間はいつか死ぬし、年を取り衰えて競争に参加することすらできなくなってしまうこともある。 そんな中、本当に訪れるか分からないチャンスをつかむために、金や時間の全てを投げ出さなくてはならない。
そして、競争に敗れるのは、自分が悪い。努力が足りなかった。自己責任だということになるのだろう。あなたが悪いんです。人生おしまいです。あとはご勝手に・・・。
なんという、寒々とした世界だろう。能力のない人間を全て淘汰して、完璧な人間だけの住む浄化された世界でも作ろうというのでもない。創造性や英知を駆使して社会を動かす一握りの人間と、奴隷のように機械的作業に従事する圧倒的多数の人間がそこにはいる。
奴隷がどんなにいい仕事をしても、奴隷は奴隷だ。それに、奴隷達には連帯感がまるでないから、革命も起こすこともできない。最近続発している弱い者を狙った卑劣な犯罪は、散発的なテロにすぎない。宅間や小林薫、イトーヨーカドーの刃物男たちは、体制によって、ゴミと認定されて処刑される。
恐ろしいことは、もはやそのような連中が例外ではなくなってきていることだ。能力のない人間は、使い捨てされていく。いくら彼らなりの努力をしたところで、単純作業に高い金を払う企業はない。不満だけが溜まっていくだろう。
そして、犯罪だ。今はまだ、ごく一部のおかしい人間の仕業で済んでいるかもしれない。世の中が変わっても、人を殺したいと思う人間は少ないだろう。だが、その代わりが児童虐待やいじめだ。プレッシャーに押しつぶされ、おかしくなってしまう人も出てくるかも知れない。そして、絶対に、絶対に、 恵まれた人間はその犠牲になることはない。狙われるのは、普通以下の家庭の女子供ばかりだ。弱者同士が共食いをする、悲しい風景ばかりが続いていく。「生きていればいいことがある」などと、陽気に言っていられる世界ではもはやなくなってしまった。
僕はどう考えても、「勝ち組」ではない。実は崖っぷちにいるのだ。宅間を笑ってなどいられない。もちろん、反社会的な行為などしたくないし、簡単に競争に負けてしまいたくはないが、こればかりはわからないのだ。
誰が、僕が受験勉強を始めたばかりのとき、「ロースクールが出来るから今は辞めた方がいい」などと言ってくれただろう。「司法試験は受かりやすくなった」と、みんなが嘯いていたはずだ。
世の中は、変わる。それも、普通の人間がキャッチアップすることが不可能なくらいの速度でだ。だから、今ある生活が、突然ひっくり返されることもあるし、むしろその方が多くなっている。変化が例外ではなく、原則になってきてしまっている。だから、僕がいくら努力をしても、中学生の頃当たり前に実現できると思っていた生活-妻がいて、子供がいて、定職に就いて安心して暮らしていける生活ができるようになるとは限らない。
全てを投げ出して、挑戦をすればいいと思うかも知れない。しかし、それがうまく行かなかったら、一体僕は何処に戻ればいいというのだ?いつかは肉親である母も死ぬ。それも、そんなに遠くない将来だろう。そんな人間にも、少ないチップを賭け続けろと言うのだろうか?
確かに、僕の今の生活は、たいした生活ではないかも知れない。しかし、それすらなくなってしまったら、僕は生きていくことが出来ない。飢え死にしなければいいと言う人もいるだろう。人生いくつになってもやり直すことが出来るという人も。しかし、それならまず「あなたが」やり直してみてください、と僕は言いたい。人ごとだから、脳天気なことを言っていられるのだ。
犯罪が一番割りのいいビジネスだと、本気で考えることもあるし、幸せそうに可愛い子供を連れて歩く夫婦を見ると、殺してやりたいと思うことさえある。受からなければ、僕が一生たどり着くことの出来ないであろう「幸福」がある。理論的には誰にでもたどり着くことが出来るはずの場所だ。いっこうにそこに近づけないと思ったら、ガラスの壁が僕を塞いでいたのだ。僕は幸せそうな夫婦のいる方にいたと思っていたが、本当は宅間や刃物男の側にいたのだ。いつ使い捨てられるか分からない、どうでもいい人間の側に。
そう、僕も「弱者」だ。やっと、気が付いた。
もし、今A君が側にいたら、僕は決して努力しろ努力しろと言わないだろう。話をきいてやり、今少しでも出来ることが何か、いっしょに考えたい。いつかは親が死んでしまうという現実を少しずつ受け容れていけるように、根気強く働きかけたい。
彼が外に出られなくなってしまった理由が、ほんの少しだが僕にもわかるのだ。この社会で、いつかふるい落とされてしまうと感じ、足がすくんでしまった。それだけのことだ。そんなにオーバーなことではない。そして、僕も今、そうなり始めている。
いろいろなことが、やっとわかり始めた。もし合格することが出来れば、本当に素晴らしい仕事のできる弁護士になる自信がある。平均年収を遙かに上回る家庭で育った東大卒の人間には、絶対にできないことをやってやる自信がある。それは、本当の弱者救済だ。悲しい現実にくじけそうになる人たちのために、少しでも働くことだ。今僕は、「エリート」の奴らには経験しようがない(おそらく、したくもないだろうが)状況を味わえている。ある意味、よかったのかもしれない。
これから本当の地獄が待っているのかも知れないが、少なくとも今は希望をもって進んでいきたいと思う。いろいろ考えたが、今の僕にはそれしかできないからだ。試験にはまだ、誰も受かっていない。落ちてから考えてみてもいいだろう。そのくらいは、バイクを売って貯金をなくせば大丈夫だ。
大願が成就せんことを、祈るしかない。本当に、祈るしかない。
今思えば、相当追いつめられていた自分を感じます。いや、追いつめてしまっていたと言う方が正しいでしょう。
やめてみて分かるのですが、自分は条文の趣旨や、判例の文言、さらには法制度の相違点などを記憶するのがやはり苦手だったのです。
しかし、ここまで来たからにはもう後に引けない、という思いで、当時は頭がいっぱいだったのでしょう。今の自分がそばにいて、「彼」に何か言葉をかけても、その思いが他人の言葉を全て遮ってしまうだけに終わったに違いありません。
結局、今まで合格し続けていた択一試験に落ちるまで、わからなかったでしょう。
仕事の向き不向きは、やってみなければわからない部分が大きいのです。
幸い、現在は他にやってみようと思うことができました。それが、今後の生活を「ふつうの人生」に導いてくれるかどうかはわかりません。
ただ、そんなことばかりを考えて何もできなくなってしまうような状態に自分を置くことだけはやめようと思います。そんな臆病な教え手に教わりたい子供がいるはずがありませんしね。
ブログの執筆にも力を割いていきたいと思います。これからもみなさん、よろしくおねがいします。
私という人間がどのような道をたどって今に至ったか、ご理解いただけるかもしれないので、トラックバック無用で記事にしてみることにします。(注:当時は、旧司法試験の受験生でした。また、所属会社を推測可能な部分は表現を変えています)
今日風呂に入っていたとき、ふとA君のことを思いだした。
講師になって2年目と3年目、彼とはよく遊んでいた。もっとも、僕が彼の家に押し掛けるかたちがほとんどだったけれど。いわゆる、「ひきこもり」だった。促しても全然外に出ようとしない。俺もいらいらして、とうとう最後は絶縁してしまった。
あのときは、ひきこもりをする人間の気持ちが全く理解できなかった。人間として弱いだけなのではないかと思っていた。最後の方は、努力すれば世界が開けるのに・・・がんばれよ!という感じの物言いをしていたように思う。今思えば、まるで、「これからの世界は勝ち組だけが生き残る!」とか鼻息を荒くしている、あの落合信彦みたいだったと思う。
はっきり言って、今日まで彼のことをすっかり忘れていた。それをなぜ、今になって思い返したのか。
僕は、最近、よく受からなかった後の自分を思う。
司法試験は難しい試験だ。受からない可能性の方が遙かに大きい。そんな僕は、もう10月で30歳だ。塾の仕事をやってきて、きっと自分は試験に合格すると思いながら受験勉強も5年になる。その間に、仕事の他に、自分の商品価値が上がるようなことはほとんどやってこなかったと気づく。行政書士には合格したが、新規に開業して安定した生活をしていける人間はほとんどと言っていいほど、いない。つまり、僕には塾の先生として教える以外、売り物が何もないのだ。
そんな自分が、これから何か「まともな」仕事に就けるのだろうか。とても不安になる時がある。「まとも」というのは、結婚をして、子供を育てていけるという意味だ。おそらく、合格しなければそれは困難だろう。
もし、「まとも」な暮らしがしたいなら、事業を興すにしろ、会社で勤めるにも、また、競争をしなければならない。それにもかかわらず、その競争に勝つための技術や資質は僕にはほとんどない。もちろん、それらを養うことはできないわけではない。しかし、生活していかなければ行けない以上、短期間で何かを身につけるというのは難しい。
それに、ここで法律を捨ててしまうとなると、一体何のための5年だったのか、何のための勉強だったのか、全てが無駄になってしまう。
同僚の仲の良かった女性にそれを言ったら、決して無駄にはなりませんよ、と言ってくれた。申し訳ないが、それは精神論に過ぎないと思う。もちろん、僕の法律に対する理解は一般人を遙かに凌ぐだろう。しかし、それだけだ。法律に携わる仕事は、士業として資格を取って初めて自分の事業として成立する。その資格を得るため、受験勉強に膨大な時間をつぎ込み、他の業界に進む可能性やそのために必要な能力は全く養わずに来た。その見返りが、単なる法律の知識だけだとしたら、悲しすぎる。
知り合いの東大生は、卒業したその年にすぐに司法試験に合格してしまった。彼には、おそらく能力があったのだろう。そして、論文試験を2回受けても、まだ上に4000人もいる僕は、あまり能力はないのだろう。
以前ならそれでもよかった。論文を5回6回受けるのは当たり前だったし、受かれば弁護士にはなれた。
しかし、今はそうではない。ロースクールができてしまったからだ。弁護士は年間に2000人単位で増えていく。また、競争だ。それはいい。ボーダーレス化する今の世界では、競争を免れることができる人間はいないからだ。しかし、大学を中退した人間の受験機会が、2010年で(実質的には、2005年で)完全に消滅してしまうことはどうだろう。全く受験のチャンスがなくなってしまうなど、5年前には思わなかった。わかっていたら、受験を思い立ったりなどしなかったかもしれない。しかし、誰もそれを埋め合わせてなどくれない。
いよいよ、追いつめられてしまった。このまま、塾の講師を続けるのか。しかし、ある年齢が来たら、もう今のような条件で働くことは出来なくなる。
いや、そもそもこの業界が、僕のいる会社が、その時まで今のように存続していけるのだろうか。僕のような非常勤の人間は、沈みゆく船の錘になってしまうからと、切り捨てられても文句は言えない。だからといって、何をすればいいのか。試験に受かるなら、と、今まで続けてきた。その可能性が事実上なくなってしまうまでもうすぐだ。受かるかどうかは、誰にもわからない。もう、泣き叫びたいくらいの心境だ。
しかし、そんな思いで胸が塞がって、初めて分かったことがある。
それは、どんなに頑張っても社会的弱者に追い込まれてしまう人間が、必ず存在するということだ。もちろん、道ばたで寝転がっているホームレスのおじさん達が、みんな現代社会の犠牲者などと言うつもりはない。自助努力を怠った「どうしようもない人間」はかなりたくさんいるだろう。
しかし、全員がそうなのだろうか。保証人になってしまい、債権者に追いまくられて故郷を追われた人も少なからずいる。小泉改革で一方的に地方に配分される金が減り、仕事がなくなってしまった建設業者もいるだろう。そんな人たちが皆、「どうしようもない人間」なのだろうか。今安定した生活を送っている人間が同じ状況に置かれたとき、本当に努力したり、がんばったりできるのだろうか。
よく言われることは、仕事にあぶれているおじさん達や、フリーター生活を余儀なくされているのは、「努力が足りない」ということだ。自分の能力を伸ばす努力をした人間が「勝ち組」になるのは当たり前だ、「負け組」は自己変革と時代の波を読むことを怠った人間で、そんな人間が社会の底辺にいるのは当たり前だ・・・落合信彦の著作でも読むといい。まるで、日本のアメリカ化を礼賛するかのようなフレーズばかりが並んでいる。
しかし、そういった考えは、重要な点を見逃している。人間にはもともと能力の差がある。それに、全ての人間に平等なチャンスが保証されているわけではないのだ。運や巡り合わせというものは、必ずある。生まれる家が違うだけで、人生が変わってしまうことも多い。これは、落合信彦や小泉首相も否定はしないだろう。
そういう運や巡り合わせと縁がない人間は、数少ないチャンスのために、過当な競争に晒される。人間はいつか死ぬし、年を取り衰えて競争に参加することすらできなくなってしまうこともある。 そんな中、本当に訪れるか分からないチャンスをつかむために、金や時間の全てを投げ出さなくてはならない。
そして、競争に敗れるのは、自分が悪い。努力が足りなかった。自己責任だということになるのだろう。あなたが悪いんです。人生おしまいです。あとはご勝手に・・・。
なんという、寒々とした世界だろう。能力のない人間を全て淘汰して、完璧な人間だけの住む浄化された世界でも作ろうというのでもない。創造性や英知を駆使して社会を動かす一握りの人間と、奴隷のように機械的作業に従事する圧倒的多数の人間がそこにはいる。
奴隷がどんなにいい仕事をしても、奴隷は奴隷だ。それに、奴隷達には連帯感がまるでないから、革命も起こすこともできない。最近続発している弱い者を狙った卑劣な犯罪は、散発的なテロにすぎない。宅間や小林薫、イトーヨーカドーの刃物男たちは、体制によって、ゴミと認定されて処刑される。
恐ろしいことは、もはやそのような連中が例外ではなくなってきていることだ。能力のない人間は、使い捨てされていく。いくら彼らなりの努力をしたところで、単純作業に高い金を払う企業はない。不満だけが溜まっていくだろう。
そして、犯罪だ。今はまだ、ごく一部のおかしい人間の仕業で済んでいるかもしれない。世の中が変わっても、人を殺したいと思う人間は少ないだろう。だが、その代わりが児童虐待やいじめだ。プレッシャーに押しつぶされ、おかしくなってしまう人も出てくるかも知れない。そして、絶対に、絶対に、 恵まれた人間はその犠牲になることはない。狙われるのは、普通以下の家庭の女子供ばかりだ。弱者同士が共食いをする、悲しい風景ばかりが続いていく。「生きていればいいことがある」などと、陽気に言っていられる世界ではもはやなくなってしまった。
僕はどう考えても、「勝ち組」ではない。実は崖っぷちにいるのだ。宅間を笑ってなどいられない。もちろん、反社会的な行為などしたくないし、簡単に競争に負けてしまいたくはないが、こればかりはわからないのだ。
誰が、僕が受験勉強を始めたばかりのとき、「ロースクールが出来るから今は辞めた方がいい」などと言ってくれただろう。「司法試験は受かりやすくなった」と、みんなが嘯いていたはずだ。
世の中は、変わる。それも、普通の人間がキャッチアップすることが不可能なくらいの速度でだ。だから、今ある生活が、突然ひっくり返されることもあるし、むしろその方が多くなっている。変化が例外ではなく、原則になってきてしまっている。だから、僕がいくら努力をしても、中学生の頃当たり前に実現できると思っていた生活-妻がいて、子供がいて、定職に就いて安心して暮らしていける生活ができるようになるとは限らない。
全てを投げ出して、挑戦をすればいいと思うかも知れない。しかし、それがうまく行かなかったら、一体僕は何処に戻ればいいというのだ?いつかは肉親である母も死ぬ。それも、そんなに遠くない将来だろう。そんな人間にも、少ないチップを賭け続けろと言うのだろうか?
確かに、僕の今の生活は、たいした生活ではないかも知れない。しかし、それすらなくなってしまったら、僕は生きていくことが出来ない。飢え死にしなければいいと言う人もいるだろう。人生いくつになってもやり直すことが出来るという人も。しかし、それならまず「あなたが」やり直してみてください、と僕は言いたい。人ごとだから、脳天気なことを言っていられるのだ。
犯罪が一番割りのいいビジネスだと、本気で考えることもあるし、幸せそうに可愛い子供を連れて歩く夫婦を見ると、殺してやりたいと思うことさえある。受からなければ、僕が一生たどり着くことの出来ないであろう「幸福」がある。理論的には誰にでもたどり着くことが出来るはずの場所だ。いっこうにそこに近づけないと思ったら、ガラスの壁が僕を塞いでいたのだ。僕は幸せそうな夫婦のいる方にいたと思っていたが、本当は宅間や刃物男の側にいたのだ。いつ使い捨てられるか分からない、どうでもいい人間の側に。
そう、僕も「弱者」だ。やっと、気が付いた。
もし、今A君が側にいたら、僕は決して努力しろ努力しろと言わないだろう。話をきいてやり、今少しでも出来ることが何か、いっしょに考えたい。いつかは親が死んでしまうという現実を少しずつ受け容れていけるように、根気強く働きかけたい。
彼が外に出られなくなってしまった理由が、ほんの少しだが僕にもわかるのだ。この社会で、いつかふるい落とされてしまうと感じ、足がすくんでしまった。それだけのことだ。そんなにオーバーなことではない。そして、僕も今、そうなり始めている。
いろいろなことが、やっとわかり始めた。もし合格することが出来れば、本当に素晴らしい仕事のできる弁護士になる自信がある。平均年収を遙かに上回る家庭で育った東大卒の人間には、絶対にできないことをやってやる自信がある。それは、本当の弱者救済だ。悲しい現実にくじけそうになる人たちのために、少しでも働くことだ。今僕は、「エリート」の奴らには経験しようがない(おそらく、したくもないだろうが)状況を味わえている。ある意味、よかったのかもしれない。
これから本当の地獄が待っているのかも知れないが、少なくとも今は希望をもって進んでいきたいと思う。いろいろ考えたが、今の僕にはそれしかできないからだ。試験にはまだ、誰も受かっていない。落ちてから考えてみてもいいだろう。そのくらいは、バイクを売って貯金をなくせば大丈夫だ。
大願が成就せんことを、祈るしかない。本当に、祈るしかない。
今思えば、相当追いつめられていた自分を感じます。いや、追いつめてしまっていたと言う方が正しいでしょう。
やめてみて分かるのですが、自分は条文の趣旨や、判例の文言、さらには法制度の相違点などを記憶するのがやはり苦手だったのです。
しかし、ここまで来たからにはもう後に引けない、という思いで、当時は頭がいっぱいだったのでしょう。今の自分がそばにいて、「彼」に何か言葉をかけても、その思いが他人の言葉を全て遮ってしまうだけに終わったに違いありません。
結局、今まで合格し続けていた択一試験に落ちるまで、わからなかったでしょう。
仕事の向き不向きは、やってみなければわからない部分が大きいのです。
幸い、現在は他にやってみようと思うことができました。それが、今後の生活を「ふつうの人生」に導いてくれるかどうかはわかりません。
ただ、そんなことばかりを考えて何もできなくなってしまうような状態に自分を置くことだけはやめようと思います。そんな臆病な教え手に教わりたい子供がいるはずがありませんしね。
ブログの執筆にも力を割いていきたいと思います。これからもみなさん、よろしくおねがいします。
私が勤めていた会社は、建築不動産業界で短期的には業界トップクラスだったにもかかわらずバブル崩壊とともに破綻(銀行管理)し、さらに転職した業界トップの会社も破綻して銀行管理になり、毎年の減俸で本社管理職にもかかわらず生活困難になったため辞職しました。今は地方の小さな会社に勤めています。業界トップとはいえ給与が最高金額だった頃は9年前です。その最高金額は公務員同年代とほぼ同じでした。今は当時のの2/3です、公務員同年代と比べたら半分です。
一方高校以来の友人は、コネで家電通信業界トップクラスの会社に入り、運良く最先端技術部門に配属され、そのスキルを生かして、転職した先が超成長企業だったため今は意気揚々としています。
この友人は、そのトップ企業には入社できない大学出身でしたが親のコネという運をもち合わせていたため入り込み、また運良く最先端技術部門に配属されました。当然周りの同僚はトップ大学出身者ばかりで、それを覆せる実力も無いため、そこでは出目が無いと思い転職に踏み切ったわけですが、その行動にも運がついてまわったのです。
もう一人の友人は、時計宝飾関連で、企業内では数々の新製品開発などの実績を重ねているのですが、これも管理職なのに斜陽業界なため非常に薄給です。
このように成績不良で私が家庭教師までした友人が今一番の高給取りになっているわけですが、結局は業界の選択が左右したわけです。とはいえ、初就職当時、バブルが崩壊する事を予見していた人は、国内では皆無でした。先を読むことが運をつかむことだと思いますが、これは読むというより、世の中の流れや世の中全体の雰囲気を如何に感じることができるかだと思います。
労働年齢として半分以上経てしまいましたが、まだあきらめていません。流れを感じることができたら、そこに集中してみる、そして世の中の流れが変わってしまったと感じたら即座に方向を変えてみる。ヒット&アウエーでどこかに道が見つかるのでは、と少しの希望を持っています。
これだけのブログ内容や視点を展開できる柔軟さを持ち合わせている管理人様には、必ずその能力を発揮でき、かつ自身に還元できる道があると思います。
>いるか成績トップの人間やくじ引きに当たるような
>運を持ち合わせている人間だけになってしまったのです
そうですね。グローバル化したせいで、日本人は世界(特にアジア)の労働力と競わなくてはいけなくなりました。ある意味、世界規模での平準化が進んでいるのかも知れません。先行者にとっては良い迷惑ですが・・・。
一番の問題は、そういう現実が「学校で教わっていること(努力すれば夢は叶う)と全然違う」ことです。だから、社会に出る前から足踏みをしたり、簡単にドロップアウトしてしまう人がたくさん出てくると思うのですが。
>先を読むことが運をつかむこと
読むだけではなく、読んだことを実行に移すことができなくてはいけませんよね。一度何か仕事を持ってしまうと、それを捨てて他に行くことは、次のステップになにがしかの保障がなくては困難なことになるでしょう。たとえそれが、塾産業のような斜陽産業であってもです。
結局、「アメリカでは当たり前の」転職を繰り返してキャリアアップをする人材というのは、ほんのごくわずかになってしまうのでしょうね。リク○ートやタ○プといった就職雑誌は詐欺集団だと(笑)。
>労働年齢として半分以上経てしまいましたが、
>まだあきらめていません。
私も口ではいろいろ言いますが、本音の部分は貴君と同じです。しかし、だんだん難しくなってきますね。いっそのこと、今の勤め先が倒産でもしてくれれば踏ん切りがつくのですが(笑)。
>これだけのブログ内容や視点を展開できる柔軟さを
>持ち合わせている管理人様には、必ずその能力を
>発揮でき、かつ自身に還元できる道があると
>思います。
過分な評価を頂き光栄です。
そうは言っても、このブログ程度のことは無料でやっている人がいくらでもいます。リンクさせて頂いている三輪さんや江田島さんなど、メディアの識者を完全に凌駕しているのにも関わらず、情報量は0円です。これでは私の出る幕はしばらくなさそうです。
やはり、司法の世界からは撤退されたのですね。
おそらく、ろろさんも後悔はしていないと思います。
ろろさんが全力を注いであの試験に取り組んでいた
ことを私は知っていますから・・・。
ですが、ろろさんが一般人をはるかに凌駕するのは
法律の知識だけではありませんよ。自分自身の努力で
培った高い教養、ものごとの本質を捉える能力は
お金だけで買えるものではありません。
自信と誇りを持って生きましょう。少なくとも
私には憧れです。
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メディアは景気が良くなったということを大々的に
謳っていますが、それは俗に言う「勝ち組」による
単なる吹き込みでしかないと私は考えています。
数値、目に見えるものだけで物事を考え、社会の
本当の姿に目を背けているのではないかと思うのです。
ワーキングプアは今や500万人を超えます。
20人に1人は、どれだけ努力をして働いても
年収200万円以下(最近では150万円以下
にまで下がることも珍しくない)という恐ろしい
実態にさらされているわけですから・・・。
そうです。最近、ようやくトラウマのような真理から解放されました。
>おそらく、ろろさんも後悔はしていないと思います。
撤退したことに関しては、全くしていません。
しかし、もっと早く決断しておけばよかった、という意味の後悔は、多少なりともあります。希望を完全になくしてしまうためには、択一不合格くらいの結果が出ていなければダメだったのではないかと思います。
>メディアは景気が良くなったということを大々的に
>謳っていますが、それは俗に言う「勝ち組」による
>単なる吹き込みでしかないと私は考えています。
メディアを運営している側にいるだけで、既に「勝ち組」ですからね。彼らに、血の通った主張や提言など期待しても無駄です。
私と同年齢で朝日新聞に勤めていると、それだけで1000万円くらいはもらえるらしいですね。そういう連中よりましなものを書く。もうこれは意地です(笑)。