今回は、いわゆる欧米の市民革命では、平等というのはどのように扱われていたのか、考えてみようと思います。
市民革命と言えば、どんな歴史の教科書にも、イギリスの名誉革命という事件が出ています。
1688年に、イギリスで起こった無血革命(実際はスコットランドなどで人が死んでいるが、ロンドンなどでは殺傷沙汰がなかった)として有名な名誉革命は、その成果としていわゆる「権利の章典」を国王に認めさせることに成功します。
イギリスには成文法の憲法がないので、300年前に作られた権利章典は、未だにイギリスの憲法のような役割を果たしています。
その内容を見てみましょう。原文の訳は、http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htmにありますが、主なポイントは以下の通りです。
●議会の同意なく国王が勝手に法律を免除したり
執行を停止してはいけない
●国王に請願(政治上のお願い)をするのは
臣民の権利である
●国王は議会の同意なく課税してはいけない
●議会の選挙や討論は、自由でなければならない
●法律もないのに罰金を取ったりしてはいけない
どこにも「平等」という言葉は出てきません。
300年前のイギリスは今よりも遅れていたからでしょうか?
そういう面もなくはないですが、はっきり言って「平等」なんてのはたいして重要なことではなかったのです。
そんなことをしたら差別なんてなくならないじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、名誉革命の時代に「差別をなくそう」などと思っていた人はいません。
そもそも、多くの人が憲法という法規範の意味を取り違えています。憲法というのは、人を自由にしたり、差別をなくしてくれるスーパーマンみたいなものではありません。国王などの政治権力が守らなくてはならない決まりに過ぎないのです。
それを証拠に、日本国憲法第99条を見てください。
>天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官
>その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する
>義務を負ふ。
国民は憲法を守らなくてはいけないなどとはどこにも書いていません。守らなくてはいけないのは公務員だけなのです。だから、日教組の教員が「みなさんは憲法を大切にしなくてはいけません!」などと言っても、信じる必要はありません。ただ単に、その教員が不勉強で馬鹿なだけです。(笑)
いつの世の中でも、一番怖いのは行政権だということは間違いありません。なにしろ国で一番の金持ちであり、警察や軍隊を操れるのです。行政権をコントロールすることこそ、憲法の真の目的です。
ちなみに、イギリスから独立したアメリカ合衆国憲法にも、「平等」の考えは全く出てきません。2カ所だけ出てくる「平等」という言葉は、憲法改正について各州(の上院議員)が持つ投票価値が均等であるということと、刑事手続(逮捕したり処罰したりすること)において法律を平等に適用しなくてはいけないということを規定しているに過ぎません。
ちなみに、合衆国憲法に、いわゆる「人権」の考え方が導入されるのは、マディソンによる修正条項の提案からであり、彼はその考えが合衆国憲法の理念と異なることを知っていたようです。(詳しくは●こちらのサイトで)。
ところが、その「平等」がフランス革命になって突如として登場します。
その背景にあるのは、哲学者ルソーの思想です。ここでは詳しく述べませんが、ルソーは政府というのは国民の契約によって初めて成立するのだという、かの有名な「社会契約論」を唱えた人物です。
ルソーの思想に深く立ち入ることはしませんが、一言で言うと、「人間は生まれながらに自由で平等な存在で、自分を守るために仕方なく政府を作って権力を預けている」というのが根底にある考えです。
それまでの社会は貴族の息子は一生貴族で、農民の息子は一生農民であるというのが当たり前だと思われていたわけです。
そこに来て、ルソーが「人間は皆平等」と言った。普通の人々の意識が覚醒した。自由で平等な自分に目覚め、不合理な旧体制を覆そうとした。なんと素晴らしいことでしょう!!
・・・とまあ、日教組や全教のセンセーなら、目を輝かせて熱弁するんでしょう。憲法を習いたての頃の私もそう思っていました。
その「美しさ」を象徴するのが、フランス革命の「成果」である人権宣言です。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsujinnkennsenngenn.htmに訳文があります。
重要なのは、「前文」と「第1条」です。
前文には、
>「人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利」
とあります。要するに、人権は国王などによって与えられたものではないということです。
また、第1条には、よく引用される
>「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。
という、まさに「感動的」な文言があります。
この二つの条文が、人々にもたらす心理的な影響はどんなものでしょう?
それは、自分たちよりも偉い奴はこの世の中に存在しないという観念を植え付けることです。
誰でも「平等」であるというのは、ひとりの人間を「単位としての1」として見るということに他なりません。そうだとすれば、「1」でしかない国王より、「多数」である民衆一般の方が偉いに決まっているのです。
ここから、多数派(群衆)は常に少数派(為政者や貴族)よりも優位に立つことになります。現代でも、政治家や貴族的身分の人々を馬鹿にするような態度の人々がたくさんいますが(たとえば、「政治家はみんな汚いことをしている」と言って、政治不信になっている人も多い)、それはフランス革命の理念の成果が出ているということなのです。
これは、考えてみれば、為政者は常に大衆の卑下・嫉妬にさらされるということでもあります。これが、フランス革命では「素晴らしい」とされていたわけです。
そして、その「素晴らしい」理念に従って、人権宣言が出された1ヶ月あまり後、革命議会は国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑してしまいます。きっと「市民」たちは喜んで国王の首が飛ぶ場面を見守ったことでしょう。国の主人は、自分たちだ!!と思ったに違いありません。
そして、「素晴らしい」理念によって達成された革命は、思いも寄らない方向へ向かうことになります。
フランス革命にそぐわないと言われた人々も、次々と殺されていくことになったのです。ダントンやロベスピエールといった革命の立役者ばかりではありません。王党派が蜂起したブルターニュ地方のヴァンデでは激しい内戦が起こりましたが、フランス革命政府は鎮圧後、「地獄部隊」(笑)と言われる軍を送り、女子どもも対象とした大虐殺を行いました。
これこそが、人権宣言の「成果」です。要するに、同じ価値をもった者同士の憎しみ合い、殺し合いです。
身分の差別があることはよくないことだと言われます。確かに、そうでしょう。人間がみな同じ価値を持って生まれてくるのだというルソーの考えが、客観的な真実ならば。
ところが、身分制度には非常に楽な側面もあるのです。それは、身分さえ守っていれば生き方を見失わないで済むということです。(※注)
1990年代に、社会主義だった東欧の国々が次々に「民主化」「自由化」しました。その時、テレビで、ある旧東ドイツ在住の普通の労働者のオジサンが言っていたセリフが(正確ではないかも知れませんが)とても印象に残っています。
「確かに、自由になっていろんなものを買えるよう
にはなったが、何を買っていいのかわからない」
自由の何がいけないのだろう?と思ったのですが、今思えば納得が行きます。社会主義時代に、何でも決められるのが当然だった人々に、「これからは好きにしろ」と言っても、ものを選ぶ意識も能力も無いのが当然だからです。
人権宣言が与えた衝撃は、ドイツの統一の比ではなかったでしょう。国王や貴族の道具だったのが、いきなり国の主人ですよ。
皮肉なことに、フランスはその後王党派と共和国政府の間での争いが止まず、挙げ句の果てにナポレオンという軍事独裁者まで出てきてしまいます。彼がヨーロッパをさんざん引っかき回して、権力の座からいなくなった後も、パリ・コミューンという労働者の暴動が起こったり、統一前のドイツ(プロイセン)にパリを攻め落とされたりと散々な目に遭います。
その一方で、権利の章典に「平等」など全く出てこないイギリスは、フランスを後目に七つの海の王者になってしまいます。こちらは、国王も健在で、名誉革命以降内乱など全く起こりません。
その理由は簡単です。権利の章典に「平等」という言葉を入れなかったからです。もし、権利章典に「イギリス国民は平等である」と書かれていたら・・・おそらく、国王は処刑され、イギリスは血で血を洗う内戦に突入していたでしょう。フランスと違ってアイルランドやスコットランドと言った、反乱軍が立てこもりやすい地形があるイギリスです。フランス以上の恐ろしい事態になっていた可能性すらあります。
そういえば、2000年以上の伝統を誇る王室があったおかげで、フランス革命のような「内戦」に突入せず、急激に発展できた国が、東アジアのどこかにありましたよね??
日教組の真っ赤に染まった脳味噌では一生答えが出てこないでしょうが(笑)。
さて、人権宣言は、何がいけなかったか、まとめておきたいと思います。
それは、当時の社会で誰も実感の湧かない概念だった、平等という「公理」を置いてしまったことに尽きると思います。
公理というのは、数学の言葉です。証明を要しないで真実であると仮定した事柄のことです。「線とは、点と点を最短距離で結んだものである」という公理があったら、もうそれに対して「それはなぜか?」という問いを発することができなくなってしまいます。
この「公理」は、実はとても恐ろしいものなのです。
なぜなら、公理というのは、時間が経つと一人歩きをしてしまうからです。
長くなってしまったので、次回で現代における「平等」と、この記事の不愉快なタイトルをなぜ私が付けたのか、その理由を述べたいと思います。
※身分について、補足
ここで大事なのは、社会に流動性が確保されている「不平等」な社会は健全な社会だということです。「流動性がある」というのは、立身出世が家柄によらず決定されるということです。
日本は、皇室という重石を置くことで、かえってこの流動性を確保してきたという特異な歴史を持っています。豊臣秀吉が天下人になれたことや、明治維新の担い手が下級武士だったことがその証拠です。
ちなみに、社会主義の世の中にはこの流動性は全くありません。そんなものがあったら、革命が否定されてしまうからです。例えば、北朝鮮の身分秩序を変えようと思えば、革命でキムジョンイル一族を(政治的に)抹殺するしかないわけです。「社会」「共産」と付く政党が、自由云々を述べるのは自己否定に等しいのです。
市民革命と言えば、どんな歴史の教科書にも、イギリスの名誉革命という事件が出ています。
1688年に、イギリスで起こった無血革命(実際はスコットランドなどで人が死んでいるが、ロンドンなどでは殺傷沙汰がなかった)として有名な名誉革命は、その成果としていわゆる「権利の章典」を国王に認めさせることに成功します。
イギリスには成文法の憲法がないので、300年前に作られた権利章典は、未だにイギリスの憲法のような役割を果たしています。
その内容を見てみましょう。原文の訳は、http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htmにありますが、主なポイントは以下の通りです。
●議会の同意なく国王が勝手に法律を免除したり
執行を停止してはいけない
●国王に請願(政治上のお願い)をするのは
臣民の権利である
●国王は議会の同意なく課税してはいけない
●議会の選挙や討論は、自由でなければならない
●法律もないのに罰金を取ったりしてはいけない
どこにも「平等」という言葉は出てきません。
300年前のイギリスは今よりも遅れていたからでしょうか?
そういう面もなくはないですが、はっきり言って「平等」なんてのはたいして重要なことではなかったのです。
そんなことをしたら差別なんてなくならないじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、名誉革命の時代に「差別をなくそう」などと思っていた人はいません。
そもそも、多くの人が憲法という法規範の意味を取り違えています。憲法というのは、人を自由にしたり、差別をなくしてくれるスーパーマンみたいなものではありません。国王などの政治権力が守らなくてはならない決まりに過ぎないのです。
それを証拠に、日本国憲法第99条を見てください。
>天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官
>その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する
>義務を負ふ。
国民は憲法を守らなくてはいけないなどとはどこにも書いていません。守らなくてはいけないのは公務員だけなのです。だから、日教組の教員が「みなさんは憲法を大切にしなくてはいけません!」などと言っても、信じる必要はありません。ただ単に、その教員が不勉強で馬鹿なだけです。(笑)
いつの世の中でも、一番怖いのは行政権だということは間違いありません。なにしろ国で一番の金持ちであり、警察や軍隊を操れるのです。行政権をコントロールすることこそ、憲法の真の目的です。
ちなみに、イギリスから独立したアメリカ合衆国憲法にも、「平等」の考えは全く出てきません。2カ所だけ出てくる「平等」という言葉は、憲法改正について各州(の上院議員)が持つ投票価値が均等であるということと、刑事手続(逮捕したり処罰したりすること)において法律を平等に適用しなくてはいけないということを規定しているに過ぎません。
ちなみに、合衆国憲法に、いわゆる「人権」の考え方が導入されるのは、マディソンによる修正条項の提案からであり、彼はその考えが合衆国憲法の理念と異なることを知っていたようです。(詳しくは●こちらのサイトで)。
ところが、その「平等」がフランス革命になって突如として登場します。
その背景にあるのは、哲学者ルソーの思想です。ここでは詳しく述べませんが、ルソーは政府というのは国民の契約によって初めて成立するのだという、かの有名な「社会契約論」を唱えた人物です。
ルソーの思想に深く立ち入ることはしませんが、一言で言うと、「人間は生まれながらに自由で平等な存在で、自分を守るために仕方なく政府を作って権力を預けている」というのが根底にある考えです。
それまでの社会は貴族の息子は一生貴族で、農民の息子は一生農民であるというのが当たり前だと思われていたわけです。
そこに来て、ルソーが「人間は皆平等」と言った。普通の人々の意識が覚醒した。自由で平等な自分に目覚め、不合理な旧体制を覆そうとした。なんと素晴らしいことでしょう!!
・・・とまあ、日教組や全教のセンセーなら、目を輝かせて熱弁するんでしょう。憲法を習いたての頃の私もそう思っていました。
その「美しさ」を象徴するのが、フランス革命の「成果」である人権宣言です。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsujinnkennsenngenn.htmに訳文があります。
重要なのは、「前文」と「第1条」です。
前文には、
>「人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利」
とあります。要するに、人権は国王などによって与えられたものではないということです。
また、第1条には、よく引用される
>「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。
という、まさに「感動的」な文言があります。
この二つの条文が、人々にもたらす心理的な影響はどんなものでしょう?
それは、自分たちよりも偉い奴はこの世の中に存在しないという観念を植え付けることです。
誰でも「平等」であるというのは、ひとりの人間を「単位としての1」として見るということに他なりません。そうだとすれば、「1」でしかない国王より、「多数」である民衆一般の方が偉いに決まっているのです。
ここから、多数派(群衆)は常に少数派(為政者や貴族)よりも優位に立つことになります。現代でも、政治家や貴族的身分の人々を馬鹿にするような態度の人々がたくさんいますが(たとえば、「政治家はみんな汚いことをしている」と言って、政治不信になっている人も多い)、それはフランス革命の理念の成果が出ているということなのです。
これは、考えてみれば、為政者は常に大衆の卑下・嫉妬にさらされるということでもあります。これが、フランス革命では「素晴らしい」とされていたわけです。
そして、その「素晴らしい」理念に従って、人権宣言が出された1ヶ月あまり後、革命議会は国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑してしまいます。きっと「市民」たちは喜んで国王の首が飛ぶ場面を見守ったことでしょう。国の主人は、自分たちだ!!と思ったに違いありません。
そして、「素晴らしい」理念によって達成された革命は、思いも寄らない方向へ向かうことになります。
フランス革命にそぐわないと言われた人々も、次々と殺されていくことになったのです。ダントンやロベスピエールといった革命の立役者ばかりではありません。王党派が蜂起したブルターニュ地方のヴァンデでは激しい内戦が起こりましたが、フランス革命政府は鎮圧後、「地獄部隊」(笑)と言われる軍を送り、女子どもも対象とした大虐殺を行いました。
これこそが、人権宣言の「成果」です。要するに、同じ価値をもった者同士の憎しみ合い、殺し合いです。
身分の差別があることはよくないことだと言われます。確かに、そうでしょう。人間がみな同じ価値を持って生まれてくるのだというルソーの考えが、客観的な真実ならば。
ところが、身分制度には非常に楽な側面もあるのです。それは、身分さえ守っていれば生き方を見失わないで済むということです。(※注)
1990年代に、社会主義だった東欧の国々が次々に「民主化」「自由化」しました。その時、テレビで、ある旧東ドイツ在住の普通の労働者のオジサンが言っていたセリフが(正確ではないかも知れませんが)とても印象に残っています。
「確かに、自由になっていろんなものを買えるよう
にはなったが、何を買っていいのかわからない」
自由の何がいけないのだろう?と思ったのですが、今思えば納得が行きます。社会主義時代に、何でも決められるのが当然だった人々に、「これからは好きにしろ」と言っても、ものを選ぶ意識も能力も無いのが当然だからです。
人権宣言が与えた衝撃は、ドイツの統一の比ではなかったでしょう。国王や貴族の道具だったのが、いきなり国の主人ですよ。
皮肉なことに、フランスはその後王党派と共和国政府の間での争いが止まず、挙げ句の果てにナポレオンという軍事独裁者まで出てきてしまいます。彼がヨーロッパをさんざん引っかき回して、権力の座からいなくなった後も、パリ・コミューンという労働者の暴動が起こったり、統一前のドイツ(プロイセン)にパリを攻め落とされたりと散々な目に遭います。
その一方で、権利の章典に「平等」など全く出てこないイギリスは、フランスを後目に七つの海の王者になってしまいます。こちらは、国王も健在で、名誉革命以降内乱など全く起こりません。
その理由は簡単です。権利の章典に「平等」という言葉を入れなかったからです。もし、権利章典に「イギリス国民は平等である」と書かれていたら・・・おそらく、国王は処刑され、イギリスは血で血を洗う内戦に突入していたでしょう。フランスと違ってアイルランドやスコットランドと言った、反乱軍が立てこもりやすい地形があるイギリスです。フランス以上の恐ろしい事態になっていた可能性すらあります。
そういえば、2000年以上の伝統を誇る王室があったおかげで、フランス革命のような「内戦」に突入せず、急激に発展できた国が、東アジアのどこかにありましたよね??
日教組の真っ赤に染まった脳味噌では一生答えが出てこないでしょうが(笑)。
さて、人権宣言は、何がいけなかったか、まとめておきたいと思います。
それは、当時の社会で誰も実感の湧かない概念だった、平等という「公理」を置いてしまったことに尽きると思います。
公理というのは、数学の言葉です。証明を要しないで真実であると仮定した事柄のことです。「線とは、点と点を最短距離で結んだものである」という公理があったら、もうそれに対して「それはなぜか?」という問いを発することができなくなってしまいます。
この「公理」は、実はとても恐ろしいものなのです。
なぜなら、公理というのは、時間が経つと一人歩きをしてしまうからです。
長くなってしまったので、次回で現代における「平等」と、この記事の不愉快なタイトルをなぜ私が付けたのか、その理由を述べたいと思います。
※身分について、補足
ここで大事なのは、社会に流動性が確保されている「不平等」な社会は健全な社会だということです。「流動性がある」というのは、立身出世が家柄によらず決定されるということです。
日本は、皇室という重石を置くことで、かえってこの流動性を確保してきたという特異な歴史を持っています。豊臣秀吉が天下人になれたことや、明治維新の担い手が下級武士だったことがその証拠です。
ちなみに、社会主義の世の中にはこの流動性は全くありません。そんなものがあったら、革命が否定されてしまうからです。例えば、北朝鮮の身分秩序を変えようと思えば、革命でキムジョンイル一族を(政治的に)抹殺するしかないわけです。「社会」「共産」と付く政党が、自由云々を述べるのは自己否定に等しいのです。
>でもそんなところが、好きです。
そんな方がいてくださるというだけで感激です。私もブログのためにいろいろ調べたりしているうちに日本の面白さや良さに気づいてきました。小悪魔さんのような方がもっと増えてくれれば・・・と願っております。
ここでいう「内戦」とは、「正統性に差が無く、勝った方が権威になることができる武力紛争」です。フランス革命や、中南米諸国で戦後見られたものを指します。
こういった戦争は、国家体制の変更のみならず、それ以前に受け継がれてきた国家の歴史の切断を伴ういう特徴があります。新しく政権を取った側からの視点で全てが解釈されるので、過去の文化的遺産や社会的行動様式などのほとんどが「アンシャン・レジーム」として切り捨てられてしまうわけです。
フランス革命や、中国歴代王朝による易姓革命は、そのような性質を持っていましたが、日本では最高の権威である皇室が一貫して存在しています。源頼朝も、豊臣秀吉も、薩長土肥も、この仕組みは変更できませんでした。変更を試みた権力者(足利義満、織田信長)は全て葬り去られています。
そういう意味では、我が国は「内戦」のもたらす深刻なアノミー(無規範状態)とは無縁でいられたのです。もっとも、大東亜戦争の敗戦や、「失われた十年」でかなりの程度ダメージを受けていますが・・・。
馬鹿とは、友達になりたくありません。
子どもも、配偶者も、親も友人も、全て自己実現を彩る小道具という
わけです。
戦後民主主義狂育が、大きな要因であることは否めません。
教育勅語を否定するだけでなく、その中にあった利他精神を
否定してしまった結果、残ったのは「自分が全て」の利己主義です。
「楽しいから」「気持ちいいから」犯罪をやった人間の代わりに、
日教組の組合員を処刑した方がいいかもしれません。
彼らは「過去を直視」とか「責任を負う」とかいう
言葉が大好きなようなので。(笑)
こう思うのを私はテレビ・ゲーム思考と呼んでいます。主人公が死んでしまうとゲーム・オーバになってしまうので脇役達は自分を犠牲にしても主人公を助けなければならないがその逆はない。
現実社会でもゲームの主人公と同じ思考の仕方をする人が増えている様です。
人権派はゲームのある前からそういう考えの方ですが!
早速「その3」書きました。
Mergeさんのブログと並行して読むと、より一層面白いですね~。
次回も楽しみにしています。