敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

新爆弾に対する警戒

2009-02-26 22:39:28 | 日記 戦中編
昭和二十年八月十一日 晴 休み

 昨夜半警報が一回あったが時間も情報も不明だった。 又、何時頃か降雨があったが今日は晴れて暑い日だった。 Y君がラジオを見に来た。直してくると言って持って行った。 十一時半頃警報発令になったので隣家のN宅に情報を聴きに行くとすぐ解除になった。 午後少し眠った。 間もなく警報が出たが聴きにも行かなかった。
 
 起きて馬鈴薯を掘った。 随分作が悪く十貫位と思ったが五,六貫しかあるまい。 それでも一貫目六円とか八円と言ってるから五円にしても三十五円だ。
 
 野菜の配給ですと隣で言うので行くと、今日は割合多いですという。 見ると赤っぽい胡瓜が二本 蕃茄が一ヶ、計三十三銭だった。

 夜八時頃第一回警報発令。 八時半解除、蚊帳に入って蚤取りをしてもう寝ようと電気を消すと同時に警報発令。 間もなく空襲警報発令になった。 ラジオがないのでN氏宅に行き情報を聴いていた。 六機来て一機は伊豆北部から反転して南方洋上に出て 三機は茨城北部から侵入福島、新潟の方へ行った。 二機は銚子辺から侵入西北進し高崎、秩父辺から甲州に入って南下した。 十一時頃解除になったので安心し、帰宅床に入った。 十一時半頃か又新たなる一機侵入し空襲警報になった。 隣のNさんが呼ぶので行くと、京浜地区警戒を要すと云う情報だと云う。 裏の待避壕にトタンと戸板をかけて準備したが幸いにも帝都には入らず京浜西南から南下した。
 新型爆弾に対する警戒のための頻々たる空襲警報らしい。
 



 

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