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敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

塩の価格

2011-08-06 00:14:17 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月三十一日 曇 明け

 明日から六月になると云うのに未だ涼しい
六月に入って配給の具合がどうか不安な事だ。 目下の財政状態では帰郷するわけにも行かない。 六月一日から買い出し禁止だとか云うので取り締まりがやかましくなるであろう。 一寸ほとぼりがさめない中は行く事が出来ない。 政府では買い出しに行くから配給が思うように出来ないと云うし 一般人は配給しないから買い出しに行くのだという。 闇市では野菜、肴など山と売ってのに高いのだから政府が無能力だからかも知れない。 もっと強力に政策を実行する政府が出来ないものか。

 朝は切り昆布入り雑炊と大根の酢漬け。 塩も醤油も味噌もないので仕方なしに酢漬けにしたのだが美味だった。
昼は同じく雑炊と隣家から貰った大根の糠漬。 夜も雑炊と小蕪青の酢漬け。 斯様に朝から雑炊ばかり、 十年前と今日と比較して何と貧しい生活であろう。昔が懐かしく夢のやうに思い出される。 しかし若し食糧事情が立ち直って昔のようになったら今の事が思い出の種になるであろう。

 塩がないので五百匁八十二円五十銭で買って来た。 一升三合程しかなかった。一合六円三十銭位になる。 近所の漬物屋で七十円(一升)売ってるのより幾分安いが目下の相場は四、五十円らしい。安いのは三十五円位からあると云うがいずれにしても高いものだ。

 昨年一年の日記は空襲の日記であったが今年は食べる事の日記である。 
食糧不足と収入の不足、狂気じみた高物価、その間にあって今、都市の人は衣類、家具、什器を一つ一つ売ってようやく息をしている。 従って衣類や時計などは一時より可也の値下がりになった。 新聞に捨て子の事が度々出て来るが一部の人はもう既に耐えられないのだ。 政府に希望は持てないが只自然に行くところまで行かなければならないのではないか。
 

卵の値段

2011-06-08 23:56:05 | 日記 戦後編

昭和二十一年五月二十八日 曇 明け

 帰宅後(十時)蕃茄(トマト)の苗が来たので堆肥を入れて植えた。

 此処に引き移って来た頃(昭和八年)卵が百匁(六又は七ヶ)十三銭、五十銭持って行って四百匁も買えた。 今は幾分下がったが一ヶ三円五十銭である。

 官吏の増俸が七月からだと云う。 それまで餓死しなければよいが。 都従組で一人百円の突破手当を要求しているが考慮すると云う。 何事によらず下の苦が判らないからだ。

 午後理髪に行った(三円四十銭)帰途入浴(五十銭)して頭を洗って来た。

 朝は雑炊、昼は饅頭を五ヶ、恭菜(ふだん草)を入れて焼いたものである。夜も雑炊。 栄養失調も無理がない。

 金の煙管を売ろうと思って依頼してきた。 碁盤も売ってしまおう。 いらぬものは何でも売って生きて行かねばなるまい。

 旧街道の方の配給所で米を配給して居た。 此処の配給所でもやってるらしい。
米だけでなく何でもよいから切れずに入ればよい。 しかしとぎれとぎれでである。
今月に入ってから五日に二十二キロ、二十一日に八キロ 二十五日に八キロの粉と乾パン一袋づつ。 一か月の予定の約半分である。
 政府の要人は何を食べて居るのか。未だに此の飢餓に対して手を打って居ない。
買い出し黙認などと云う声明をしたかと思うと。 今月一杯で来月からは在来通り取り締まるなどと今日の新聞に出て居る。 結局は種々な声明を出すことは無能と無策を国民の前にさらけ出しているだけだ。

とんぼ返りで帰京

2011-05-08 00:22:01 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十五日 曇後雨 休み

 荷を作って七時四十五分家を出た。 汽車は三十分遅れて来たので混雑して居ると思ったが さ程でもなく中に入って行けた。 山形でどっと降りたので腰かけられた。
 曇っていて朝日岳も蔵王も頂上は見えないが八合目辺の雪景色が雲の間から少し見えるだけだった。
 福島着一時。一時着の殆ど全客が一時五分の上野行きに乗ろうとするので混雑は非常なもので、私は三時十分発の急行に乗った。
 沿道の新緑は美しかった。 殊に関東に入ってから雨になったので那須野の新緑は美しく食糧の心配なしに見たいと思った。
 九時日暮里着。 池袋から東上線に乗換え大山駅まで来ると電車が故障になってしまった。 歩こうか、動くまで待とうかと思っていると 突然ドシン、バリバリと云う音とともに身体を投げ出され頭を何処かえ打ちつけた。 何が何だかわからないが兎も角荷物をと見ると腰掛の下に落ちて居た。 後方から来た汽車が追突したのだった。
けが人も出たらしい。 大勢の人が怒鳴ったり罵ったりしていた。 額にこぶが出来ただけだったのは幸いだった。 仕方なく歩いて帰った。帰宅十時半。米は二斗二升あった。 家に食物があればもう一晩も泊って蕗でも取って来るのであるがそれも出来ず、常に食糧がなくて慌てて旅をせねばならぬ。敗戦国とはこんなものか。

田舎(山形)行き

2011-05-07 23:29:48 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十三日 曇 公休

 目が覚めたのは二時だった。 妻が簡単な食事を作ってくれた。
未だ早いと思ったが三時五分に家を出た。 まだ暗く糠雨が降って居た。 歩いて巣鴨まで行った。 一番の省線(四時二十五分)で上野へ行った。 窓口で売ると云う話だったが それは新潟方面だけ。 仕方がないので交通公社に行った。 前回は七十五番だったが今日は何番かわからないほど後方であった。 公社の人が整理して居て、二十三日分は売り切れである。 急行ならあると云う。 仕方がないので急行の申し込みをしてようやく買う資格?が出来た。 
 食糧が足りないのと 買い出しを認めると云う風評でどっと人が殖えたらしい。
八時二十分頃から売り始めて 買って出たのは十時頃。
楯岡往復と急行券(六十五円)を買って帰って来た(十一時)。
 幸い雨も降らず時々薄日が出多りしたのでよかった。 帰宅後準備した。 一時頃雷が鳴ってパラパラと雨が来たが大したことなく終わった。
 三時頃家を出て上野に行った。 人は大変なもので、殊に仙台廻り青森行きの人は大変なものだった。 幸いにも鉄道の人と一緒に職員通用口から入場して五番線に行って乗車した。 相変わらず大変な混雑。 一睡も出来なかった。

食糧危機の中の運動会

2011-04-18 22:45:05 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十二日 晴 明け
 
 晴れて暑いくらいな日であった。
 昨夕、帰宅途中、牛込辺りで小麦粉の配給をしていた。 この辺りも間もなく来るかも知れない。
 朝食葉丸干鰯二匹と大根葉の味噌汁である。 

 食糧がないと云うのに第八国民学校で運動会を今日やって居る。 子供は皆休ませたが今日運動会をやる先生の頭の馬鹿さ加減に呆れる。

 午後小麦粉八キロ配給になった。 夜すいとんにして食べた。
斯様に国民が危機に瀕しているとき、吉田内閣葉未だ人選をしないとか。呆れる他ない。政治の力を待って居ては餓死より他ない。 只自己守備するより外あるまい。
 

米軍が小麦粉を八十五萬トン放出

2011-04-18 22:06:56 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十日 晴 休み

 米がないし弁当がないので休んでしまった。
今朝も大根葉の油いためと味噌汁だけ。食物が足りない上に昨日の下痢。だるくて仕方ないので一日中ゴロゴロして暮らした。 妻が配給所に行って聞いたがいつ入荷するか不明だと云う。
 田舎へ米貰いに行くにも金がなくて行けない。 明日は給料日だから明後日の朝切符を買って行こう。
 午後乾パン九袋配給になった。

昭和二十一年五月二十一日 曇 二、三直出勤

 昨日、米二合隣家で貸してくれた。 それを雑炊にして朝食べた。 下痢は具合よいようだがだるくて困る、 腹の中はからだ。 半日何もせずに過ごした。
 新聞に依ると小麦粉八十五萬トン米軍で放出したと云う。 近い中に来るかも知れない。
 夕方食事に帰宅した。 魚と昆布とで夜食を済ました。


 

代用そば

2011-03-07 23:43:43 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月十九日 晴 明け

 朝から晴れているが西北風が強く吹いて涼しくいやな日だったが夕刻から風が止んで静かな日になった。

 帰途新宿で「中古品なんでも買います」と書いてある店に立ち寄ってみると、時計や腕時計を応対の暇のない程の人が次々に来る。 社会の一面を見たような気がした。

 代用そばと云うのを所々に売っている。 百匁六円である。 処が米の配給がないので可也売れる。 原料は蒟蒻粉や海草の粉などであるらしい。
十丁目の停留所から少し入った所に製造所があるので妻が其処へ行って依頼したら
一貫目三十円だと云う。 そして二時頃来いと云うので行ったらもうないから月曜日に来いと云う。  しかし食べる物がないので八丁目に行ったら四十五円で売ってくれたと云って買って来た。 そして昨夜汁に入れて食べたらしい。
昼に味噌汁を作って代用そばを入れて食べた。 海草の香りがして不味い。 子供等は食べないで小蕪と汁だけ食べて居た。

 午後、乳児用ビスケット三袋配給になった。菓子でしかも一人七個しか当たらなかった。 乾パンが配給になるからと云って 行ったら菓子だった。 米は何時来るか。

 内閣は保守派の自由進歩連立内閣が出来た。

 今日 食糧メーデーで車庫の人も沢山行った。

 下痢が昨夜治ったように思われたが帰宅後又はじまった。 
米がなくて昼に少々の代用そばなど食べて居るのに下痢しては困ったものだ。


鳩山一郎公職追放

2011-03-07 22:56:11 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月四日 晴後曇 一直出勤

 朝から晴れて居たが北風で寒い。 夕刻から曇って来た。

 自由党の鳩山が追放令に引っかかった。 自由党単独内閣が出来るかに見えたが又駄目になったので政府はぐずぐずになった。 こんな事をしている間にも国民は日一日と餓えて行く。

 
昭和二十一年五月五日 曇時々雨 二、三直出勤

 朝起きると雨が降って居て肌寒い。
 昨日食パンの配給があった。 一斤一日分だが半斤づつ味噌汁と一緒に食べた。
 
 今日は節句だが何もない。 味噌汁とパンで過ごした。
三十日に長女が人形を出して飾ってやったが人形に何も上がらない。 人形もさる事ながら子供が可愛そうなものだ。


昭和二十一年五月八日 曇 明け

 帰宅(十時)後馬鈴薯の土寄せをした。 一芽植えをして発芽が遅れその後の発育も思わしくなかったがどうやら土寄せをするまでに成育した。

 昨日 DDT消毒が来た。 有難い事だ。
 
 

 

メーデー

2011-02-19 22:59:42 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月一日 晴後曇 休み

 昨夜、田舎から帰宅してその間の話を聞くと十八日の米の配給が九日遅れて三日分の小麦粉が来たが二十九日の昼でそれもなくなり二十九日の夜と三十日の朝は何もなく配給のみつ葉やその根を食べて居た。それでも三十日に三升五合の配給があったので良かったと云う話であった。 持って来た米は一斗七升余あったがこんな具合では又たちまちなくなってしまうであろう。

 食糧の危機だと云うのに未だ政変劇は幕を閉じない。 政治に対する国民の不信が益々大きくなる。 国民は飢えて行く。 しかし政府は何もせず 何時までこの状態
続くのやら。

 今日はメーデーである。 湯屋の帰りに郵便局に行ったら本日メーデーに就き休業と書いてある。 メーデーも良いが郵便局の休業はちと変だ。 何事によらず口実を見つけて怠ると云う印象が強い。

 イルカの配給があった。 九人分九円九十銭 それを小蕪と一緒に煮て食べた。
自由販売のイルカの皮を約四百匁(二十円)買って来た。 そして天ぷらなべでやいたら油が四合程も出て皮がカリカリにかきもちのようになった。 とても美味なものである。

食糧の危機

2011-01-31 23:14:53 | 日記 戦後編
昭和二十一年四月二十五日 雨 公休

 米の配給予定が十八日だったが今以て配給がない。月の初めに田舎から貰って来た米があったのでどうやら今朝まで間に合ったがもうなくなった。 
 旅行外食券 三十枚貰ったのがあったのでそれを持って食堂に行き御飯を買って来た。 しかし五人分しかくれないのでそれを雑炊にして昼食べた。 夕もそうせねばなるまい。 次女が登校時間に間に合わないので食券一枚と五円持たせてやって 残り八人が五人分の食堂の飯を雑炊にして過ごすのだ。 之が食糧野危機と云うのであろう。思ったより早く来たのに驚いた。 明日あたり切符を買い田舎に行って来ねばなるまい。


昭和二十一年四月二十六日 曇 二、三直出勤

 朝起きると二時、小雨が降って居た。 汽車の切符を買いに行く。
茶を飲んでから三時少し前に家を出た。 三時十分志村を発車するはずと思い歩いていると八丁目に着いたとき来た。 省線巣鴨駅に云ったら改札員が遠距離切符を此の駅で発売すると云う。 急いで行って見ると発売数三枚。 もう既に三人いると云う。
予定通り始発で上野の交通公社に行った。  番号を取ると七十三番であった。
東北、常磐が百五十枚、大丈夫だと思って待って居た。 八時三十分から発売が始まり買って出口へ出たら九時十分だった。 楯岡まで五十二円だった。
 帰宅十時半、 朝食を九人分売ってくれたとて麦と短麺の入った食堂の飯を食べた。
 今晩勤務して明晩出発しよう。
 午後小麦粉が配給になった。 ようやく助かったが この次にきちんと来てくれれば良いがそうはいくまい。