この日、私は毒薬、
おっと、抗がん剤の投与日だった。
通院でのもぐらモグラ叩きが始まっている。
このモグラ、全然悪さはしていない。
でも、確実に頭を出しているので、
まあ、ちょっぴり叩いておくか、
ということで再開している。
今までの方法と違って、
週一ではあるけれど、毒薬量が少ないので、
三週に一度の時のように、ドカーンとくることがない。
いつも通りの生活に変わりはない。
いくつか、自分としては気をつけることはあるけれど、
そんな感じで、モグラを手名付けながら生活している。
この日、点滴が終わったのが、夕方5時半。
病院で夫と待ち合わせ、演奏会場に向かった。
途中まで電車。そこからは奮発してタクシー。
何しろ時間がぎりぎりになりそうだったから。
6時半に会場に着く。すでに入場は始まっていた。
でも、お腹が減って減って・・・、
このままでは会場で「ぐーー」なんてことになりかねない。
慌てて会場近くのカフェでコーヒーとパンを飲み込んだ。
閑話休題。
内田光子のプログラムは前々から楽しみにしていた。
演目は3つ。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453
バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント Sz113
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503
私はモーツァルトは好きだけれど、詳しいわけではない。
ああ、聴いたことあるなって思っても
曲目を覚えたためしがないので、
あの曲聴きたい!って思っても探せない・・・
という程度の愛好者。
私にとって、この17番と25番はファミリアではなかった。
一方、夫の最近の動きは、音楽会が近づいてくると
「予習するぞ!」と口走り、曲目をCDで何回も聞く。
だからというか、そのおかげというか、
私もいつの間にか耳慣れてきた。
バルトークは、昔、ピアノを習っていた娘が
弾いていたことがあった。
へええ、変わった音色ねって思ったが、
なんだか引っかかる。
引っかかるなって思ううちにその音色に
病み付きになった経験がある。
納豆は最初は臭い、こんなものが食べ物かって
思っていても、気が付いたら、病みつきになっていた
というあの感覚に似て言う。
あ、バルトークさんお許しください。
納豆と比較するなんて・・・、申し訳ないなって思いつつ。
とまあ、そんな具合で夫の予習を
他のことをしながら聴いていたのでした。
そして本番のこの日。
もう予習の音はどこかに飛んで行った。
第一曲目の17番。
私には「音が天から降ったきた」ように聴こえた。
内田光子のピアノのタッチは、
音が天から降ってくるとしか言い表しようがなかった。
そして彼女の指揮。
シフォン素材と思われる透けた薄クリーム色の
舞台衣装は、なんだか天女の衣を連想させた。
室内オーケストラと一緒に天女が舞っている。
私もあんなふうに音楽と一緒に舞ってみたい!
って、本気で思ったくらい。
内田光子の動きは、本当に軽やかで、
指揮者というよりは音楽に気持ちよく酔いながら
舞っている天女だった。
その天女はピアノに向かうと
その繊細な一音一音を天から降らすのだ。
それを聴くことができるなんて、
なんて幸せなんだろう・・・。
そして唐突に、どうしてこんな音が
モーツァルトの頭に浮かんだのだろうと思った。
これも天からモーツァルトに降ってきたのだろうかと。
そんな余韻に酔いしれているうちに、
舞台は室内弦楽オーケストラに。
出てくる音は、今度は天からではない、
地の底から湧き出てくる音。
時にほら穴から音が噴き出てくる。
バルトーク特有の舞曲風のメロディーも入り、
土着という言葉がふっと頭をよぎった。
そして、激しく高まったかと思ったら、唐突の終焉。
そこで休憩となる。
第三曲目は25番。
これはもう、17番と比べるとにぎやか。
これも明るい一つのモーツァルトを思わせるし、
なんだか人間界のにぎにぎしさといった体。
ここでも人間界で踊る天女がいた。
その天女の体からは人間界の音がオーケストラと共に
紡ぎだされていた。
夫は、演奏会の前、どうしてこういうプログラムの配置と
選曲なんだろうかと、何回も言っていた。
でも、私、勝手に解釈しちゃったのです。
内田光子は「天」「地」「人間界」を持ってきたのだと。
これは本当に勝手な解釈。
でも本も、演劇も、絵画も、そして音楽も、
表現されたものは、作者を離れて、
その受け手の手に渡るとき、
受け手はそこで自由に想像力を巡らせる。
いつもの過剰解釈の癖が出てしまったけれど、
今回の演奏会はそんな解釈が
天から降ってきたのでありました。
今、復習のモーツァルトを聴きながらこれを書いている。
書き終わったら、私は聴きながら天女になって舞おうっと。
夫も早々と床に就き、ウルトラマンたちはとっくに階下で夢の中。
だから今は、居間は私一人の空間なのですもの・・・。
おっと、抗がん剤の投与日だった。
通院でのもぐらモグラ叩きが始まっている。
このモグラ、全然悪さはしていない。
でも、確実に頭を出しているので、
まあ、ちょっぴり叩いておくか、
ということで再開している。
今までの方法と違って、
週一ではあるけれど、毒薬量が少ないので、
三週に一度の時のように、ドカーンとくることがない。
いつも通りの生活に変わりはない。
いくつか、自分としては気をつけることはあるけれど、
そんな感じで、モグラを手名付けながら生活している。
この日、点滴が終わったのが、夕方5時半。
病院で夫と待ち合わせ、演奏会場に向かった。
途中まで電車。そこからは奮発してタクシー。
何しろ時間がぎりぎりになりそうだったから。
6時半に会場に着く。すでに入場は始まっていた。
でも、お腹が減って減って・・・、
このままでは会場で「ぐーー」なんてことになりかねない。
慌てて会場近くのカフェでコーヒーとパンを飲み込んだ。
閑話休題。
内田光子のプログラムは前々から楽しみにしていた。
演目は3つ。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453
バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント Sz113
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503
私はモーツァルトは好きだけれど、詳しいわけではない。
ああ、聴いたことあるなって思っても
曲目を覚えたためしがないので、
あの曲聴きたい!って思っても探せない・・・
という程度の愛好者。
私にとって、この17番と25番はファミリアではなかった。
一方、夫の最近の動きは、音楽会が近づいてくると
「予習するぞ!」と口走り、曲目をCDで何回も聞く。
だからというか、そのおかげというか、
私もいつの間にか耳慣れてきた。
バルトークは、昔、ピアノを習っていた娘が
弾いていたことがあった。
へええ、変わった音色ねって思ったが、
なんだか引っかかる。
引っかかるなって思ううちにその音色に
病み付きになった経験がある。
納豆は最初は臭い、こんなものが食べ物かって
思っていても、気が付いたら、病みつきになっていた
というあの感覚に似て言う。
あ、バルトークさんお許しください。
納豆と比較するなんて・・・、申し訳ないなって思いつつ。
とまあ、そんな具合で夫の予習を
他のことをしながら聴いていたのでした。
そして本番のこの日。
もう予習の音はどこかに飛んで行った。
第一曲目の17番。
私には「音が天から降ったきた」ように聴こえた。
内田光子のピアノのタッチは、
音が天から降ってくるとしか言い表しようがなかった。
そして彼女の指揮。
シフォン素材と思われる透けた薄クリーム色の
舞台衣装は、なんだか天女の衣を連想させた。
室内オーケストラと一緒に天女が舞っている。
私もあんなふうに音楽と一緒に舞ってみたい!
って、本気で思ったくらい。
内田光子の動きは、本当に軽やかで、
指揮者というよりは音楽に気持ちよく酔いながら
舞っている天女だった。
その天女はピアノに向かうと
その繊細な一音一音を天から降らすのだ。
それを聴くことができるなんて、
なんて幸せなんだろう・・・。
そして唐突に、どうしてこんな音が
モーツァルトの頭に浮かんだのだろうと思った。
これも天からモーツァルトに降ってきたのだろうかと。
そんな余韻に酔いしれているうちに、
舞台は室内弦楽オーケストラに。
出てくる音は、今度は天からではない、
地の底から湧き出てくる音。
時にほら穴から音が噴き出てくる。
バルトーク特有の舞曲風のメロディーも入り、
土着という言葉がふっと頭をよぎった。
そして、激しく高まったかと思ったら、唐突の終焉。
そこで休憩となる。
第三曲目は25番。
これはもう、17番と比べるとにぎやか。
これも明るい一つのモーツァルトを思わせるし、
なんだか人間界のにぎにぎしさといった体。
ここでも人間界で踊る天女がいた。
その天女の体からは人間界の音がオーケストラと共に
紡ぎだされていた。
夫は、演奏会の前、どうしてこういうプログラムの配置と
選曲なんだろうかと、何回も言っていた。
でも、私、勝手に解釈しちゃったのです。
内田光子は「天」「地」「人間界」を持ってきたのだと。
これは本当に勝手な解釈。
でも本も、演劇も、絵画も、そして音楽も、
表現されたものは、作者を離れて、
その受け手の手に渡るとき、
受け手はそこで自由に想像力を巡らせる。
いつもの過剰解釈の癖が出てしまったけれど、
今回の演奏会はそんな解釈が
天から降ってきたのでありました。
今、復習のモーツァルトを聴きながらこれを書いている。
書き終わったら、私は聴きながら天女になって舞おうっと。
夫も早々と床に就き、ウルトラマンたちはとっくに階下で夢の中。
だから今は、居間は私一人の空間なのですもの・・・。