林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

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トム・ソーヤーの夢、東京ディズニーランドの夢(その1) (改訂版)

2011年01月12日 | 文房具と読書
2010年の最大の文学的喜びはマーク・トゥエインと出会えたことであった。マーク・トゥエインは誰もが名前を知っているアメリカの大作家だが、21世紀の今日、本当に読んだことのある人はどれくらいいるのだろうか。私も例外ではなかった。中学生の頃、旺文社の雑誌の付録についていた「百万ポンド紙幣の男」といったタイトルの短篇を読んだことがあるが、これが唯一のマーク・トゥエイン体験だったのだ。しかも、この小説がマーク・トゥエインの作であることは、つい最近まで知らなかったのだ。

マーク・トゥエインを読むにあたって、もちろん私は『ハックルベリーフィンの冒険』から読み始めた。『ハック』こそが世界文学として重要であり、『トム・ソーヤーの冒険』は子供だましのお話に過ぎないと昔から聞かされていたからである。だが、いったん読み終えてしまうと、『トム・ソーヤーの冒険』も読みたくてしょうがなくなった。文学的な評価は低いのかもしれないのだが、どうしても気になったことがあったのだ。

気になったこと。それは『ハック』に出てくるトム君が、すごく嫌らしい奴に見えたが、本当はどういう少年なのかということだ。

『ハック』でのトム君というのは、何かというと、自分が読んだ小説の知識をひけらかす。そして、小説の権威に依拠して、他の少年たちを指導したり、演出しようとするのだ。ハックはトム君のことを嫌ってはいなかったけれども、いや、もっと率直に言えば、むしろ尊敬すらしていたのだけれども、それってちょっと変じゃないか。「○○によれば××だから、皆さん、××しましょう」なんてことを提案ばかりしていたているインテリ少年は普通ならば嫌がられるのではないだろうか? 

というわけで、その疑問を明らかにするために『トム』を読むことにしたというわけである。


最初に予め白状しておくと、トム・ソーヤーが好んで読んでいた小説がいったいどんな本なのか、タイトルや作者は何なのかとかは結局よく分からなかったのである。セルバンテスの『ドン・キホーテ』が言及されることはあるけれど、この本がトムの愛読書には思えない。というのは、『ドンキホーテ』はどちらかというと、ちょっと情けない話だからだ。セルバンテスは没落期のスペインの作家なのだ。トムは、カリブの海賊の冒険談みたいのが好きなのである。

スティーブンソンの『宝島』ではないのかと言いたいところなのだが、それはありえない。というのは『宝島』が発表されたのは1881-82年だが、『トム・ソーヤー』が出たのは1876年だからだ。しかも、時代設定は1820年代のアメリカ南部ときている。というわけで、トムはスティーブンソンの『宝島』の大ファンになるはずの少年だ。しかし、それよりも50年以上前に生まれたので、なにか別の本を読んでいたという設定である。(強いて言えば、ロビンソン・クルーソーで有名なダニエル・デフォー作と言われる『最も悪名高き海賊たちの強奪と殺人の概説史』あたりなのか??? なお、『宝島』にあこがれる登場人物がでてくる物語としては、たとえばリンドグレーンの『ピッピ 船に乗る』『ピッピ 南の島へ』がある)。


さて、『トム・ソーヤー』を読んで何が分かったのか? 僕は文学者ではないので、もったいぶらずに結論を書いてしまおう。

1)トム少年の「嫌らしさ」と私に写ったものは、19世紀の庶民階級=半識字レベルのハックからみた中産階級=高い識字レベルの憧れの少年の姿だったのである。

『トム』を読んでみると、トムくんのうんちく好きは本当に変わっているわけではない。だが全然気にならない。『ハック』で感じられたトム君の「インテリ臭」というのは、中産階級の同級生たちに囲まれてしまうと、全く感じられないような代物だったのだ。

考えてみれば、マーク・トゥエインといえば『王子と乞食』の作者である。階級や身分の違いについては非常に鋭敏なのだ。

同じような少年の冒険物語シリーズのように見えるが、実はかなり異なる階級的視点で語られているのである。『トム』では教育を受けた中産階級の子どもの視点から、『ハック』ではようやくある程度の識字力を身につけるようになった庶民階級の視点から、物語が描かれていたのだ。

現代の私たちから見れば、識字力と読書体験を前提にしたトムの語りはとくに注目に値しないだろう。大衆小説を読み、それを楽しみ、話題にするのは、ごく当たり前のことだからである。それをひけらかす必要がないし、誰かがそういう話をしたところで記憶に残らない。同様に『トム』ではトムの語りは目立たない。しかし、文盲の両親から生まれ、ようやく充実してきた学校教育で、なんとか文字の読み書きを習得するようになった世代の子どもにとって、本を読んで楽しむ少年の姿が眩い。だから、私が『ハック』において感じたトムの「嫌らしさ」「インテリ臭」というのは、ハックに代表される人々にとっては、輝かしい新世界の報告として聞こえたのだろう。トムくんの小説の引用癖は嫌らしく見えるのではなく、純粋に憧れであり素晴らしいのである。

ただし大急ぎで付け加えておけば、文盲世代(トムのお父さん)からみれば、文字を読み書きする子どもというのは、たんに不愉快なインテリ野郎でしかない。これは『ハック』に描かれてのだが、ハックの父さんはハックの識字力について、生意気な奴だといった不満を述べていることからも確認できる。つまり、あくまでも読み書き能力をある程度身につけた子どもにとってのみ、小説を読む能力が素晴らしく映っているのである。

そして、トムは非常に高度な識字能力(判事をやっているガールフレンドのお父さん)と、半分くらいの識字力の同級生(ハックルベリーフィン)の間に挟まれている。他方ハックはといえば、高度な識字力を身につけたトムと、文盲の父親や、同じく文盲の黒人奴隷ジムの間のサンドイッチになっている。こんなふうに読めてきた。。。うーん、『トム』も読んで正解だったとあらためてて思う。(続く)


識字力なし(ハック父、奴隷ジム)ーーー半識字力(ハック)ーーー識字力(トム)ーー高度な識字力(判事、弁護士)



(続く)

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