おはようございます。
23日に「お年玉付き年賀状」の当選番号が発表されましたが、皆さま確認は
お済みですか?私は確認の上昨日商品と交換してきました。(*^^)v
私は貧乏性なので、こう言うことは結構速いです。(^u^) 当たった「賞品」はいつも
の「お年玉切手シール」4枚です。例年この程度です。数年前のことですが、
同じ人から頂いた「年賀状」が3年連続切手シールが当たったことがあります。(*^^)v
珍しいこととして、記憶に残っております。しかし最近はその方からのものも「当たり」
ません!。私が出した年賀状は何枚かあっただろうか?と気になるところです。
「河豚」について
今夜、中学時代の「ミニクラス会」を開催する旨は、昨日のブログで触れております
が・・、この「ミニクラス会」は同じクラスメートがやっているお店で「ふぐ料理」を食べ
るのが慣わしになっております。そこで、これも全く偶然なんだすが、私が購読してお
りますメールマガジン=「ハロー!株式」の本日号で「河豚」の事について記載されて
いました。私にとっては新しい知識でした。(^u^)ので、以下に転記して皆様にご紹
介します。
「河豚」と書いて「フグ」と読みますが、今その「河豚」が旬を迎えていま
す。「豚」と書くのは体型の事を指すのではなく、フグは身の危険を感じると
豚のような鳴き声を発することから「豚」の文字が当てられたそうです。また、
「河」と書くのは古代中国では黄河など河川に生息していたためで、中国語で
も「河豚」という呼び方を使っているそうです。
「河豚」と言えば「河豚のちり鍋」、「てっちり」が有名ですが、語源は河
豚の毒にあたったら死んでしまうため、ふぐそのものを「鉄砲」と呼び、「鉄
砲のちり鍋」から促音化したそうです。
「河豚」はそのうまさゆえ、以前は中毒死する人が多く、豊臣秀吉はふぐの
絵を描いて「この魚食べるべからず」の高札を立てた禁止令を出しました。江
戸時代には多くの藩が禁令を出し、河豚を食べて中毒死した者は、お家断絶を
命じる藩まであらわれました。
明治21年、時の総理大臣、伊藤博文公が山口・下関の春帆楼(しゅんぱん
ろう)で遊んだ折、当日はあいにくしけで、魚料理がありませんでした。その
旨を女将が申し入れましたところ、伊藤公は「馬関(下関)に来て、魚がない
とは・・・」と皮肉りました。
それではと、女将は打ち首覚悟で禁令の河豚の刺身を差し出しました。する
と、伊藤公は「こんなうまい肴を食べない法はあるものか」と感激し、山口県
にのみ禁令を解除しました。これが、河豚食解禁のきっかけです。戦後になっ
て、ようやく全国で食せるようになりましたが、こうした経緯を知って食する
河豚はまた格別です。
この文章を今夜皆に紹介して、江戸時代と伊藤博文、そして中学3年生時代に思い
を馳せて、歓談したいと思っております。(*^_^*)「ヒレ酒」を飲むのは年一回。この機
会だけになりました。(^u^)
それでは今からその目的地まで(直方市=大関魁皇の出身地(^u^))まで移動し
ます。そして今日は泊りになります。カミサンは気楽なくせにニコニコ顔で「今夜は淋
しい」とお世辞を言っておりますが・・(^。^) (^.^)/~~~