臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

土岐友浩作『Chloranthus serratus』

2010年05月18日 | あなたの一首
   土岐友浩作『Chloranthus serratus』を読む

 先日の「臆病なビーズ刺繍」に示したように、土岐友浩作『Chloranthus serratus』は、朝日新聞掲載時には二行書きになっている。
 しかし、そうした特異なスタイルで掲載されたのは、主として朝日新聞の紙面上の都合によるものと思われ、作者としては、この八首連作を殊更に二行書きにして発表しなければならないような理由は、少しも無かったものと思われる。
 そこで、今回はそれらを短歌としての通常のスタイルの一行書きに改めた上で、その観賞を試みることにした。
 ところで、連作八首のタイトルとなっている『Chloranthus serratus』とは、私たち日本人が「二人静」と呼んでいる「センリョウ科チャラン属」の多年草の学名である。
 作者の土岐友浩さんは、この山間の湿地に楕円形の葉を十字に対生させて生え、晩春になると、恰も互いに慕い合う母子か恋人同士の如くに、茎の先に向かい合わせに二本の穂状花序を出して咲く、あの白く清楚な花に対して格別な愛着を覚えていらっしゃるとも推測されるが、この連作が亡きご母堂様に対する<挽歌>という性格を帯びた作品であることをも考慮すると、義経伝説に登場する静御前の霊魂と菜摘女とが、往時を偲んでしずしずと舞う謡曲『二人静』に由来する、この植物の和名「二人静」が重要な意味を持っているものとも推測される。


   『Chloranthus serratus』  土岐友浩

     葉は、墓のようだ。
○ ゆるやかに降り出す雨の寄り道の神社に咲いているつぼすみれ

 連作一首目に当たる本作の前に、詞書風に記されている「葉は、墓のようだ。」という一文は、作者の土岐友浩さんがご母堂様をお亡くしになった悲しみの目で以って「二人静」という植物をご覧になった時の、彼の目に映ったその葉の特徴を述べられたものであろうと思われるが、それは、本作一首だけに添えられた詞書と言うよりも、連作八首全体に添えられた詞書であろうと思われる。
 連作のタイトルとなった「Chloranthus serratus」即ち「二人静」は、この作品中に直接登場しているわけではない。
 しかしながら、この連作には、それぞれの作品の内容に応じて陰影を濃くしたり薄くしたりはするものの、一首目から始まって八首目に至るまで、常に母を失った作者の<悲しみの視線>と<沈潜し静謐し切った心>が感じられる。
 したがって、連作のタイトルとなった「Chloranthus serratus(二人静)」は、言わば、作者のそうした視線や心情の象徴として、八首全体に影響を与えているのである。
 さて、そうしたことを念頭に置いてこの一首を解釈すれば、「何かの用事で喪の家を離れたところ、その途中で『ゆるやかに』春雨が降って来た。そこで、その雨を避けるために、とある『神社』に『寄り道』したところ、その境内には季節柄『つぼすみれ』の花が咲いていた。そこで私は、『お母さん、此処にこんな花が、<たちつぼすみれ>の花が咲いていますよ。私はこの雨の上がるのを待つ間、此処で<二人静>ならぬ一人静かにこの小さな花を見ていますが、あなたにはこの美しい花とあなたを亡くして悲しみの底に沈んで居る私の姿が見えるでしょうか。私の心の中には未だにあなたの美しく優しい姿が映っているのです』と、母に呼びかけたことであった」といったことになりましょうか?
 やや、感傷に傾いた観賞であったかな?
 解釈文中の「喪の家」という語句について注釈すると、私の言う「喪の家」とは、必ずしも、亡き母の家、即ち土岐友浩さんの生家を指すものではない。
 母を失った青年・土岐友浩さんにとっては、そこが京都市内の自分の下宿先であれ、仮住まいのアパートであれ、彼の現在の宿りは、全て「喪の家」なのである。
 それは敢えて言葉を飾って言えば、<常在霊魂><常在喪家>なのである。
 表現について一言申し添えれば、三句目中の「寄り道」が、「ゆるやかに降り出す雨の寄り道」であると同時に、その「雨」を避けるための作者の「寄り道」であるとも受け取られ、そこの辺りの曖昧さがこの一首の魅力となっている。
 それにしても、「雨の寄り道」という発想と言葉の連なりが面白く、そうした表現には、多士済々の<京大短歌会>で鍛えられた、作者の発想の冴えが感じられる。
  〔返〕 ことだまの御霊神社の一隅に静かに咲けるたちつぼすみれ   鳥羽省三


○ 僕の手を離れて水になっている母を亡くした春の記憶は

 「雨上がりの神社の境内の<にわたずみ>から着想を得た」などと解説すれば、あまりにもご都合主義であると笑われましょうか?
 作中の「春」とは、「母を亡くした」季節を指すものでは無く、「母」の「記憶」に浸っている、今、現在の季節を指すものである。
 さて、難解なのは「僕の手を離れて水になっている」という上の句である。
 「僕の手を離れて水になっている」のが、「母を亡くした」「僕」の「春の記憶」であることは明白であるが、問題は、「母を亡くした」「僕」の「春の記憶」が「僕の手を離れて水になっている」とは、どんな意味を持ち、作者のどんな感覚・心情を表わしたものであるか、ということである。
 「これを称して、<溶解感覚>或いは<喪失感覚>と呼ぶ」などと言って済ませるのは、余りにも造作無いことであり、これらの語句に土岐友浩さんが託した意味は、そうした安易な解釈で以って済ませられるような単純なもので無いだろうと思われる。
 いろいろと解釈の分かれるこの語句については、人によっては、「<母を失った記憶が僕の手を離れて水になっている>ということは、<作者が母を失った悲しみから解放されようとしている>という意味である」などと解釈する向きもありましょう。
 そこの辺りの曖昧模糊とした感じがまた、この一首の魅力を形勢しているのである。
 それとは別に、作者の胸中には、あの母子が向かい合うようにして咲いている二人静の花が強く印象づけられていることも、決して忘れてはならない。
  〔返〕 汝の手を離れもやらぬ春のみず流れて澄みて悲しみを消せ   鳥羽省三 


○ 靴ひもを洗ってほどけにくくする小さな庭の小さな日暮れ

 母を失った者は、何をやっても悲しみから解放されない。
 彼の心の中には相変わらず、あの二人静の花がひっそりと咲いているからである。
 それなのにも関わらず、彼は、その状態から解放されるべく、またその状態に浸るべく、何事かを為さないでは居られないのである。
 「小さな庭の小さな日暮れ」に、「靴ひもを洗ってほどけにくくする」のは、彼が為さないでは居られないが故に為した「何事か」の一例なのである。
 「小さな庭の小さな日暮れ」に「靴ひもを洗ってほどけにくくする」彼の心の中には、相変わらず、あの白い「二人静」の花が対生して咲いていることを忘れてはならない。
 「靴ひもを洗ってほどけにくくする」というフレーズが暗示するものの意味をも考えたいところではあるが、これを「忘れようとして努力したりもがいたりすれば、益々忘れられなくなる」などと、平凡な言葉で以って言い替えたりしたら、作者を失望させることになりましょう。
  〔返〕 水注ぎ洗へば益々きつくなる靴の紐はも悲しみ晴れず   鳥羽省三


○ 勘違いしていなければこの上を平沢唯が歩いた通り

 悲しみの状態から解放されるべく、かつ悲しみの状態に浸るべく、作者は亦、時に地にうつ伏したりなどして、「勘違いしていなければ」私の現在地点は「この上を平沢唯が歩いた通り」ではないかしら、などと思ったりもするのである。
 作中の「平沢唯」とは、作者の知人の一人であろう。
 だが、その性別が女性なのか、男性なのか、と言うことについては、この一首にのみ対している限りに於いては評者にも判らない。
 でも、何処かからギターを奏でる音がするような気がしないでも無い。
  〔返〕 甘食系ヒトの名たるか平沢唯 二人静かに語らひたきに   鳥羽省三


○ 好きな人の文字は大きく見えてくる菜の花色のフリーペーパー

 「菜の花色のフリーペーパー」に書かれているのは、「平沢唯」という人の名。
 その人の名を目にした瞬間、評者のみならず、本作の読者たちの中の鈍感ならざる多くの人々には、「平沢唯」とは作者の「好きな人」の名であること、即ち「平沢唯」の性別は女性であることが理解されるのである。
 と、ここまで書いて来たが、ここの辺りで、手品の種を明かすと、作中の「平沢唯」とは、実はTBS系列テレビ放映の人気アニメ「けいおん!」の主人公なのである。
 インターネットの「けいおん!」<公式サイト>に拠ると、彼女「平沢唯」は、「11月27日生まれ(射手座)、身長156cm、体重50kg、血液型はO型。軽音部を、例えば口笛とかの<軽い音楽>を楽しむための部活と勘違いして入部したので、 全くの初心者かとしてギターを始める。自己流や直感に頼るタイプ。かわいいものや、甘いものが大好き。」ということだそうである。
 したがって、作者と平沢唯との恋愛は、土岐友浩さん側の一方的な擬似恋愛であり、彼と彼女との間には、交接はおろかキスやペッティングといった軽度の肉体関係も無いし、仮に在ったとしても、彼の身体からは精液の臭いが漂って来るわけでも無い。
 彼・土岐友浩と彼女・平沢唯との関わりはそうした淡い関係、架空の関係なのである。
  〔返〕 菜の花の色した紙に恋人の名前など書き忘れんとする   鳥羽省三
 只今、5月15日の23時55分、夜も更けましたので、この後の観賞は明日以後に回して、私はこれから入浴し、それが済んだら、さだまさしの「ソフィアの鐘」に耳を傾けながら就寝することに致します。    


○ することがなくてスクリーン・セーヴァーの真似に興じている待ち合わせ

 刻々と形態を変えて行く「スクリーン・セーヴァー」のデザインも様々。
 本作の作者・土岐友浩さんのPCを彩っている「スクリーン・セーヴァー」は、どんなデザインの「スクリーン・セーヴァー」であろうか、などと、多少の興味は感じたが、私自身は、現在、いかなるデザインの「スクリーン・セーヴァー」も用いていないので、それ以上の興味は感じなかった。
 それにしても、男という動物はどうしょうもない動物であると言わなければならない。
 何故なら、作者・土岐友浩さんは言わば現在、服喪中なのである。
 それなのにも関わらず、恋人と「待ち合わせ」をするとは不届き千万と言わなければならない。
 しかし、その「待ち合わせ」の当事者が、他ならぬ土岐友浩さんであることを考慮すれば、その「待ち合わせ」とやらも、どうやら永久に相手が現れない「待ち合わせ」、即ち、架空の待ち合わせなのかも知れない。
 仮に、その「待ち合わせ」が真実の「待ち合わせ」であり、彼と彼女とが首尾良く出会うことが出来たとしたならば、服喪中の男性の身体から、情欲がぷんぷんと漂って来ると言わなければならないことになり、せっかくの「二人静」も徒花となってしまうに違いない、と思われるのであるが、その可能性は限りなくゼロに近い。
 それはそれとして、本作の作者が恋人との「待ち合わせ」の場所は東京ならさしづめ渋谷のハチ公前であるが、、作者の土岐友浩さんは京都にお住まいになって居られると思われるからそこは京都。
 その京都の四条河原町辺りの人通りを前にして、歌人にして医師の土岐友浩さんが「スクリーン・セーヴァーの真似に興じている」有様を想像するのも、これまた、この作品の鑑賞の一つと思われる。
  〔返〕 ぷくぷくと浮きては沈むいろくづを思ひては待つ平沢唯か   鳥羽省三


○ 半日を過ごしたころの白色の二人静(ふたりしずか)の花を見ている

 「半日を過ごしたころ」とは、作者自身が架空の恋人と「半日を過ごしたころ」のことだろうか?
 それとも、「二人静」が咲いてから「半日を過ごしたころ」のことだろうか?
 一首の表現中にその種の曖昧さを残しているのが、短歌の魅力の一つであると思われるが、この一首もまた、そうした短歌の一つであろう。
 この連作のタイトルは「二人静」の学名「Chloranthus serratus」であり、これまで一度も作品中に登場しなかった「二人静」が、初めて言葉として姿を表わしたのが本作である。
 それまで一度も作品中に登場しなかった「Chloranthus serratus」が、この一首に至って、和名ながらも初めて登場した理由は何か?
 それに答えられる余裕は今の私には無いが、ここに至って、母を失った悲しみが少し薄らぎ、作者が、周りの風景や自分自身を、かなりの余裕を持ち、客観的とも言える姿勢で眺めているような側面をこの一首から私は感じる。
 したがって、ここに初めて登場した「Chloranthus serratus」は、もはや<悲しみの色を一心に湛えた花>としての「二人静」では無く、一種の寂しさを帯びながらも、清潔さと僅かながらも明るさをも湛えた「二人静」なのである。
 ところで、この作中に於いて、作者・土岐友浩さんが、「二人静」という植物名に「(ふたりしずか)」という<ふりがな>を付した理由は何か?
 その理由を正確に述べることは私には出来ないが、架空の恋人と出会うことによって、少しく余裕を持つことが出来た作者が、現在の自分たちの立ち位置や気分を見つめ、それと状態を同じくしているような感じの花「二人静」を前にして、「この花の名前は『二人静』。これを口に出して言うと『ふたりしずか』。そしてその学名は『Chloranthus serratus』である。この花の、なんと私たちに似ていることよ。そして、この花の、なんと美しいことよ」と、「二人静」の花の前に立ち、その花と自分たちとを見比べ、慨嘆し、詠嘆しているような感じがするのである。
  〔返〕 半日を過ごせし頃の「二人静」 向かひ咲きたるその花の穂よ    鳥羽省三 


○ 飛び石の道なかほどに沈みゆく 母よあなたの死に間に合わず

 一首全体、謎と魅力に満ちた作品である。
 先ず、「飛び石の道なかほどに沈みゆく」という上の句の解釈が困難であり、困難であるが故に魅力的である。
 例えば、「無鄰菴庭園」。
 近代史を彩るその庭の「飛び石の道」が「なかほどに」なり行くにつれて「沈み行く」ような感じである、と言うのが、この<五七五>の意味なのであろうか?
 また、この<五七五>は、それに続く<七七>と、どのような繋がりを持っているのであろうか?
 この一首で以って、作者が初めて<一語空き>の手法を用いているだけに、その解釈に私は苦しむ。
 例えばこの一首を、「この無鄰菴庭園の飛び石道は、中ほどあたりに行くにつれて急に沈んで行くような感じである。お母さん、私にとってあなたの死は、まさにそのような感じでした。お母さん。お母さん。道の半ばで急に沈んで行ってしまったような感じのあなたの死に、私は間に合いませんでした。お母さん。お母さん。そんな私の不幸を、どうかお許し下さい」といった風な安易な解釈をして、この観賞文を閉じるとしたら、私はあまりにも無能な短歌評者として読者の皆さんから笑われてしまうでしょうか?
 この連作に接した瞬間、私はあの斉藤茂吉の連作「死に給ふ母」を思い起した。
 母の死という一大事に対した場合は、近代の頑迷な歌人でも、現代の草食系歌人でも全く同じような反応を起すことだ、と感じながら、私はこの連作を観賞させていただいた。
  〔返〕 沈み行く飛び石道に添ひて咲く二人静のかそけき生よ   鳥羽省三


 八首連作の全体像に触れてみた結果としての私の、総括的な感想は、「草食系男性」という当世流行の言葉であり、「衛生無害」という古典的な言葉である。
 私は、八首目の観賞にあたって、つい迂闊にも、「この連作に接した瞬間、私はあの斉藤茂吉の連作『死に給ふ母』を思い起した。母の死という一大事に対した場合は、近代の頑迷な歌人でも、現代の草食系歌人でも全く同じような反応を起すことだ、と感じながら、私はこの連作を観賞させていただいた」と記してしまった。
 だが、似たような年齢で、似たような職業に従事している者が、似たような立場で創作した「挽歌」を観賞するにしても、近代歌人・斉藤茂吉の作と二十一世紀歌人・土岐友浩さんの作とでは、その印象がまるで異なるのである。
 例えば、この作品のタイトルは『Chloranthus serratus』、即ち草花の名前であり、斉藤茂吉の作品『死に給ふ母』には、タイトルにこそ植物は登場しないが、作中には、ほとんど作品毎に植物が登場し、それも草花が登場するのであり、あの作品は、科学者・斉藤茂吉が編集した、『蔵王山麓山野草図鑑』と言ってもいいような様相を呈しているのである。
 しかし、この両者に登場する草花は、その匂いも色も株立ちも生えている環境も、まるで異なっているのである。
 斉藤茂吉の『死に給ふ母』に登場する植物が、さんさんとした初夏の陽射しに照りつけられて育ち、極彩色で強烈な匂いを放つ山野草であるとすれば、本作に登場する「二人静」は、陰湿な谷間に咲くあえかな隠花植物なのである。
 同じ青春を生きる若者として両者を比較しても、この二人には歴然とした違いが認められる。
 斉藤茂吉の目は、常に食料と女性とを求めて居て、まるで猛獣の目のように光り輝いているのに対して、土岐友浩さんの目は、まるで「二人静」の花のように常に静まっている。
 期待の新人・土岐友浩さんは、このまま水枯れや根腐れを起して絶息してしまうのだろうか。
 それだけが心配で、近頃の私は碌々眠れないで居る。
  〔返〕 例ふれば二人静の生に似て命あえかな土岐友浩よ   鳥羽省三


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。