○ 二つ三つうつせみすがるままを咲きさはさは香るひひらぎもくせい (東京都) 山本律子
本作中の「うつせみ」は、<生きている人間>や、その<人間が苦しみ生きている世の中>を指す言葉としての「うつせみ」では無く、昆虫の<蝉>を指す言葉としての「うつせみ」である、と一応は言い得よう。
しかしながら、「うつせみ」という言葉の原義に、前者の意味があることを意識しておくことは、本作の鑑賞に当たっては、決して邪魔にならないし、否、むしろ、絶対必要なことであるとも思われる。
題材となっているのは、今を盛りと咲き、周囲に「さはさは」とした香りを漂わせている「ひひらぎもくせい」である。
だが、本作の場合は、その「ひいらぎもくせい」が、ただ単に<柊木犀>としてのみ、単独で咲いているのでは無く、その細い枝に「二つ三つ」の「うつせみ」、即ち二、三匹の<蝉>を取り縋らせて咲いているところに、この一首の眼目が在ると思われる。
異説も在るが、一般的に<ヒイラギモクセイ>は<ギンモクセイ>と<ヒイラギ>の雑種であるとされ、公園木や庭木として植栽されていることが多い。
二種類の樹木の雑種としての<ヒイラギモクセイ>は、現在のところは雄株だけが知られて居り、毎年、九月頃から十月頃に咲くその白い花には雌花は無く、<雄花>だけであるから、いくら美しく香しく咲いても、決して結実しないと言われている。
また、この<ヒイラギモクセイ>の葉は、その大きさが一方の親である<キンモクセイ>に似ているが、その周辺がギザギザとなっていて、棘が在るのは、もう一方の親である<ヒイラギ>から受け継いだ性質であるし、その繁殖法としては<取り木>以外の方法が無いなど、どっちつかずの性質を持った樹木である。
この作品に登場する「ひひらぎもくせい」は、そんな意味で、その性格が複雑であり、繁殖・栽培の難しい樹木であることなども、この作品を鑑賞する場合に必要な知識かと思われる。
さて、一首の意味を思うがままに説明してみたい。
周囲に「さはさは」とした微かな香りを漂わせて「ひひらぎもくせい」が咲き誇っている。
だが、その「ひひらぎもくせい」の花は、<花は咲けども実の生らぬ><雄花>なのである。
<花は咲けども実の生らぬ><雄花>ではあるが、それでもなおかつ「ひひらぎもくせい」は、周囲に、独特の香りを漂わせて、今を盛りと一所懸命に咲いている。
しかし、いくら美しく咲いても、いくら香しく咲いても、それは決して報われない行為なのである。
その報われない行為として咲いている「ひひらぎもくせい」の枝には、何と驚いたことに、「うつせみ」即ち<蝉>が、一匹ならばともかく、二匹も三匹も一所懸命にしがみついている。
鳴きもせず、動きもせずに、不毛の花「ひひらぎもくせい」に一所懸命にしがみついている「うつせみ」は、その様子からして、一匹、二匹、三匹と数えるよりも、一つ、二つ、三つと数えた方が良いと思われるが、その<うつせみ>の命は、その名に相応しく、たった一週間と言う。
たった一週間の命を謳歌するために、七年もの長きに亙って地下生活をするのが「うつみみ」の「うつせみ」たる所以だとも言う。
<花は咲けども実の生らぬ>「ひひらぎもくせい」の枝に、一所懸命にしがみついているのは、たった一週間の命の為に七年間の地下生活を宿命付けられている「うつせみ」なのである。
その有様は、まさに<人間が苦しみ生きている世の中>という意味としての「うつせみ」そのものである。
「うつせみ」を生きることは、「ひひらぎもくせい」にとっても、「うつせみ」即ち<蝉>にとっても、それを見つめている人間にとっても、なかなかに苦しい。
〔返〕 二つ三つ蝉止まらせて知らんぷり刺刺だらけのヒイラギモクセイ 鳥羽省三
本作中の「うつせみ」は、<生きている人間>や、その<人間が苦しみ生きている世の中>を指す言葉としての「うつせみ」では無く、昆虫の<蝉>を指す言葉としての「うつせみ」である、と一応は言い得よう。
しかしながら、「うつせみ」という言葉の原義に、前者の意味があることを意識しておくことは、本作の鑑賞に当たっては、決して邪魔にならないし、否、むしろ、絶対必要なことであるとも思われる。
題材となっているのは、今を盛りと咲き、周囲に「さはさは」とした香りを漂わせている「ひひらぎもくせい」である。
だが、本作の場合は、その「ひいらぎもくせい」が、ただ単に<柊木犀>としてのみ、単独で咲いているのでは無く、その細い枝に「二つ三つ」の「うつせみ」、即ち二、三匹の<蝉>を取り縋らせて咲いているところに、この一首の眼目が在ると思われる。
異説も在るが、一般的に<ヒイラギモクセイ>は<ギンモクセイ>と<ヒイラギ>の雑種であるとされ、公園木や庭木として植栽されていることが多い。
二種類の樹木の雑種としての<ヒイラギモクセイ>は、現在のところは雄株だけが知られて居り、毎年、九月頃から十月頃に咲くその白い花には雌花は無く、<雄花>だけであるから、いくら美しく香しく咲いても、決して結実しないと言われている。
また、この<ヒイラギモクセイ>の葉は、その大きさが一方の親である<キンモクセイ>に似ているが、その周辺がギザギザとなっていて、棘が在るのは、もう一方の親である<ヒイラギ>から受け継いだ性質であるし、その繁殖法としては<取り木>以外の方法が無いなど、どっちつかずの性質を持った樹木である。
この作品に登場する「ひひらぎもくせい」は、そんな意味で、その性格が複雑であり、繁殖・栽培の難しい樹木であることなども、この作品を鑑賞する場合に必要な知識かと思われる。
さて、一首の意味を思うがままに説明してみたい。
周囲に「さはさは」とした微かな香りを漂わせて「ひひらぎもくせい」が咲き誇っている。
だが、その「ひひらぎもくせい」の花は、<花は咲けども実の生らぬ><雄花>なのである。
<花は咲けども実の生らぬ><雄花>ではあるが、それでもなおかつ「ひひらぎもくせい」は、周囲に、独特の香りを漂わせて、今を盛りと一所懸命に咲いている。
しかし、いくら美しく咲いても、いくら香しく咲いても、それは決して報われない行為なのである。
その報われない行為として咲いている「ひひらぎもくせい」の枝には、何と驚いたことに、「うつせみ」即ち<蝉>が、一匹ならばともかく、二匹も三匹も一所懸命にしがみついている。
鳴きもせず、動きもせずに、不毛の花「ひひらぎもくせい」に一所懸命にしがみついている「うつせみ」は、その様子からして、一匹、二匹、三匹と数えるよりも、一つ、二つ、三つと数えた方が良いと思われるが、その<うつせみ>の命は、その名に相応しく、たった一週間と言う。
たった一週間の命を謳歌するために、七年もの長きに亙って地下生活をするのが「うつみみ」の「うつせみ」たる所以だとも言う。
<花は咲けども実の生らぬ>「ひひらぎもくせい」の枝に、一所懸命にしがみついているのは、たった一週間の命の為に七年間の地下生活を宿命付けられている「うつせみ」なのである。
その有様は、まさに<人間が苦しみ生きている世の中>という意味としての「うつせみ」そのものである。
「うつせみ」を生きることは、「ひひらぎもくせい」にとっても、「うつせみ」即ち<蝉>にとっても、それを見つめている人間にとっても、なかなかに苦しい。
〔返〕 二つ三つ蝉止まらせて知らんぷり刺刺だらけのヒイラギモクセイ 鳥羽省三