私たちは戦後短歌史の中で様々な母子像に出逢うことが出来る。
今、私は、そうした戦後短歌史上の母子像を詠んだ数々の作品の中から、戦後に華々しく作歌活動をした女流歌人が自分自身と自分の子供との関わりを詠んだ作品の幾つかを選んで示し、本稿の本来の目的である、鶴田伊津作『浅瀬のひかり』を観賞するうえでの指針にしたいと思うのである。
下に転記する葛原妙子氏の世に知られた傑作などに見られる母子関係などと比較して観賞する時、鶴田伊津さんのこの七首の連作に詠われた母子関係は、先輩諸姉の作品に詠まれた母子関係などとは異なり、草食系社会などと揶揄される現代社会に見られる、新しく特異で、かつ普遍的な母子関係を映し出したものとして、観賞しなければならない作品と、評者は思うのである。
どちらが<是>で、どちらが<非>といったような問題では無い。
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり 葛原妙子『橙黄』S25
遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ 中城ふみ子『花の原型』S30
うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる 森岡貞香『白蛾』S28
拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと 同上
女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季 富小路禎子『未明のしらべ』S31
夢にさへ距てられたる子となりてはやも測られぬ背丈を思ふ 雨宮雅子『鶴の夜明けぬ』S51
囀りのゆたかなる春の野に住みてわがいふ声は子を叱る声 石川不二子『牧歌』S51
植えざれば耕さざれば生まざれば見つくすのみの命もつなり 馬場あき子『桜花伝承』S52
『浅瀬のひかり』 鶴田伊津
○ 土の香の著き牛蒡を洗うとき素足涼しき浅瀬のひかり
本作の作者・鶴田伊津さんとほとんどイコールの関係にあると思われる、東京に出て来た地方生まれの女性が、就学や就職などで数年間の一人暮らしを経た後、そこそこに愛する男性と出会って家庭の人となり、子を生すことにもなった。
「土の香の著き牛蒡を洗うとき」という上の句に歌われている状況は、今となっては十数年間の都会生活に磨かれて洗練され、田舎娘の面影をすっかり失くしてしまったその女性が、自宅の近所の八百屋やスーパーから買った来た泥付きの「牛蒡を洗うとき」、或いは、市民菜園といった名称の僅か数坪ばかりの家庭菜園で収穫した、泥付きの「牛蒡を洗うとき」と考えてもそれほど不都合ではないかとは思われる。
しかし、<その「土の香の著き牛蒡」を「素足」を晒して、川の「浅瀬」に入って「洗うとき」「浅瀬のひかり」に涼しさを感じた>などといった爽快感に満ちた状況を、今の首都圏での都会生活に求めることにはかなり無理がある。
したがって、この一首を、仮に作者・鶴田伊津さんの実体験に基づいて詠われた作品であると想定した場合、その背景は、和歌山県新宮市の作者(=作中の女性)の生家辺りとするのが妥当でありましょう。
和歌山県新宮市と言えば、あの佐藤春夫の故郷であり、その上流に<名勝・瀞八丁>を擁する熊野川に面した清流の地である。
作中の女性は、久し振りに都会生活から解放されてお子様連れで帰省した。
そして、今日は生家の畑から収穫したばかりの「土の香の著き牛蒡」の一束を抱えて熊野川の「浅瀬」に、その真っ白い大根足ならぬ、牛蒡のようにほそぼそとした足を晒したのである。
「ああ、この浅瀬の清らかな水で洗うと、土の香りがくっきりと漂っていたこの牛蒡の一束も、みるみる土の香が失せて新鮮さを更に増して行くことだ。清流で洗われて白くなったこの牛蒡と同じように、かつては体中真っ黒になってこの川の流れで遊び戯れていたこの私も、今ではすっかり都会の人となり、この細くて白い脚をこの浅瀬の清涼に晒している。おまけに可愛い子供まで連れて来て。ああ、私は東京で何をして暮らして来たという訳では無いが、何故だか恥ずかしいみたいだ。それにしても、この清らかな水で牛蒡を洗い、この浅瀬のひかりに晒されるとき、私の素足の何と涼しいことよ。何と爽やかなことよ。何故か知らないが、私は東京で恥ずかしいことをして来たみたいだ。」と、作中の女性は感じたのでありましょうか?
ああ おまへはなにをして来たのだと・・・吹き来る風が私に云ふ
(中原中也『山羊の歌』より)
五句目の「浅瀬のひかり」は、何かの暗示のようにも思われるが、その「何か」については、今は言及する余裕が無い。
〔返〕 紀の国の浅瀬の川の朝明けに白き素足を晒す汝はも 鳥羽省三
○ 伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ
「伏せ置きし『徒然草』」とあるが、作中の女性は、大学で中世国文学をご専攻になられたのでありましょうか?
それとも、愛読書の一冊として、吉田兼好著『徒然草』をお読みになって居られるのでありましようか?
「伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ」とは、『徒然草』の何れかの段を読みかけていた人物が、その途中で用事か何かが発生した為に、そのページを開いたままで本自体を伏せてその場を離れていたところ、自分の知らない間に、誰がよって、その「背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、ということである。
頭脳明晰とは程遠い評者には、『徒然草』を読みかけたまま「伏せて」置いた横着者や、その「背表紙」に「プリキュアシール」を貼った不届き者を特定することは出来ないが、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段を特定することは出来る。
即ち、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段とは、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。」とある、第五十五段である。
とすると、それを読みかけていた件の横着者を特定することも、また、「プリキュアシール」を貼った犯人を特定することも可能となるのでありましょうか?
『徒然草』と言えば、今となっては、それ相当の国文学的知識と興味を備えた者で無ければ手にしない書物であり、「プリキュアシール」と言えば、幼児ないしはせいぜい中学生程度の女性が興味を示す物である。
本作の面白さは、その「『徒然草』の背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、というミスマッチに在る。
しかも、そのミスマッチは、単なるミスマッチのままで終わるのでは無く、日常生活全般にそうしたミスマッチを介在させたままで暮らしている、作中女性とその「子」との複雑な母子関係をも示唆するものともなっているから、一首の観賞のうえでは、決して見逃しにはならないものである。
〔返〕 伏せ置きし五十五段の風に飛び『徒然草』のつれづれなるも 鳥羽省三
○ 右ひざのすり傷左すねのあざ子は神妙な顔でみせたり
「『徒然草』の背表紙にプリキュアシール」を貼った犯人に天罰が下って、可哀想なことに、彼(または彼女、以下、略)は負傷した。
彼の負傷箇所は、「右ひざのすり傷」と「左すねのあざ」との二箇所。
それでも彼は、彼の母親であり、件の横着者である作中の女性に、「神妙な顔で」その負傷箇所を
見せたのである。
「子は神妙な顔でみせたり」とあるからには、、日常生活のさまざまな場面で、その「子」は、自分の母親たる作中の女性に、自分の素顔や弱みなどを見せない「子」である、と考えなければならない。
何事にも隠し事をする「子」の性格が如何にして形成されたのであるか?
自分の母親が大事にしている書物の「背表紙」に「プリキュアシール」を貼るといったような悪戯を仕出かしたり、自分の母親に自分の素顔や弱みを曝け出さない、といった、その「子」の複雑な性格が、その「子」とその「子」の母親との間の、どのような生活から醸成されたものであるかなど、私たち鑑賞者の興味はさまざまで尽きない。
私たち、鑑賞者の中のかなり早飲み込みの者は、「作中の親子関係の決裂は必至。作中の夫婦関係の決裂は必然。本作中の女性は、早晩、子を棄て、夫と別れて、故地・新宮に隠棲することになるだろう」などとも即断しかねないが、どこをどう推せば、そういう即断が為されるのだろうか、と、何事につけても常識的かつ穏健なる判断を示す傾向にある評者は慨嘆しているのである。
因みに申し添えると、本作に見られる母子関係は、前掲の葛原妙子氏の『橙黄』中の「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり」などに見られる母子関係などとは、比較にならないほどの健全な母子関係である、と評者は判断し、このままで進んで行ったら、むしろ、森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に発展するかも知れない、とも危惧さえしているのである。
〔返〕 傷はきづ痣はあざなり心にも身にも添ひ居て汝を泣かすもの 鳥羽省三
○ 昨日より太りし月の下を行く子の自転車の後輪を追う
少年少女が何か事ある時に、母親などの肉親に隠し事をするのは、ごく当たり前のこと。
それに過剰反応をするのは、愚かな母親のすることである。
前作に於いて、あまりの耐え難さに、自分の負傷を隠し立てすること無く示した、我が子の行為を「神妙な顔でみせたり」とだけ受け止めて、在り合わせの置き薬で治療を施してやった母親は、ごく普通の母親であり、その母親とその子との間の親子関係は、ごく平凡な母子関係であった。
本作は、前作とは異なって、ごく平凡な母子の、ごく平凡な一日の出来事を活写した作品である。
本連作の作者・鶴田伊津さんご自身をモデルにして創作された、本作中の女性とて、四六時中、頭に鉢巻を締めて詠歌に苦しんだり、今となっては薄れ行く記憶に頼りながら、食卓の上で『徒然草』を読んだりしているわけでは無く、月光が涼しく降る夜には、「月の下を行く子の自転車の後輪を追う」といったような、我が子思いの微笑ましい一面をも持ち合わせているのでありましょう。
しかし、作中の表現に沿って一言申し添えると、「昨日より太りし月」とは、単に月齢が「昨日より」一日分増えただけでは無く、この頃の平凡で幸福な生活に浸り切っている作中女性の体重が、一kgか二㎏程度は、確実に増えたのでもありましょうから、その旨、作中女性共々本作の作者に於かれても、ご注意の程を。
〔返〕 懐妊に非ず近ごろまた肥えし君の月追ひそぞろ行く姿 鳥羽省三
○ 今日われの海は凪ぎおり眠る子の額の汗をぬぐってやれば
平凡な昨日に続く平凡な今日である。
しかしながら、「眠る子の額の汗をぬぐってやれば」「今日われの海は凪ぎおり」とは、少しは危険。
ゆめゆめ、前掲の森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に陥りませんように。
〔返〕 けふ汝の海は凪ぎをり側らで眠りたる子の彼に似たれば 鳥羽省三
○ 治る傷ならばいいのだ夜の湖に覆われぬようカーテンを引く
「治る傷ならばいいのだ」とは、<治らない傷ならば取り乱して泣き騒ぐ>ということか?
それはともかくとして、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」とは、なかなかに含蓄に富みイメージを脹らませる表現である。
下の句のこの表現から類推して、言葉の響きに敏感な鑑賞者は、「治る傷ならばいいのだ」の「傷」を、二首目中の「子」の「右ひざのすり傷左すねのあざ」のみならず、作中の母子関係の「傷」、夫婦関係の「傷」、或いは、作中女性自身の心の「傷」などと推測しそうになるが、それも無理からぬことである。
しかし、そうなればそうなったで亦、作中女性夫妻の離婚必至説が頭を擡げ出すのである。
「治る傷ならばいいのだ」と作中女性は言うが、作中女性と作中女性の家族が負った「傷」が、そんなに簡単に治りそうも無い「傷」であることを、作中女性は知っているからこそ、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」と言うのである。
〔返〕 湖に夜霧に濡れて舟出せし夫の獲物を妻は見ざるも 鳥羽省三
○ 駅までの雨を浴びたる君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす
「駅までの」という措辞から推すと、作中の「君」は作中女性の待つ「駅」までの距離を、折りからの「雨を浴び」ながら歩いて来たのであろうか。
そして、この「君」と作中女性とは、これから何処へ出掛けようとしているのであろうか?
また、「君」とは、作中女性の「子」のことか、「夫」のことか?
更に想像力を逞しくして言えば、「君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす」の「知らぬ匂い」とは、動物の、しかも人間の、その中でも取り分け女性の「匂い」なのかどうか?
連作の終了を間近にして、鑑賞者たちの思いは、またしても千々に乱れることではある。
〔返〕 霧雨に濡れたる君の背を嗅げば栗の花の香かすかに匂ふ 鳥羽省三
○ エゴの花散り敷く下を横切りぬアーサー・C・クラークの影は
一見すると、この作品は、何か在りそうで何も無かった、この連作を閉じる作品として相応しい穏やかで清潔な作風ではあるが、「エゴの花散り敷く下」を横切った者の正体を、あの『2001年宇宙への旅』でお馴染みのSF作家「アーサー・C・クラークの影」とした、本作の作者の創作意図が今一つ評者に解らない。
〔返〕 謎で明け謎で暮れたる連作の<浅瀬のひかり>未だ幽かに 鳥羽省三
(つるたいつ) 1969年生まれ。和歌山県新宮市出身。「短歌人」所属。歌集に『百年の眠り』。
〔2010・06・22〕「朝日新聞・夕刊」掲載
今、私は、そうした戦後短歌史上の母子像を詠んだ数々の作品の中から、戦後に華々しく作歌活動をした女流歌人が自分自身と自分の子供との関わりを詠んだ作品の幾つかを選んで示し、本稿の本来の目的である、鶴田伊津作『浅瀬のひかり』を観賞するうえでの指針にしたいと思うのである。
下に転記する葛原妙子氏の世に知られた傑作などに見られる母子関係などと比較して観賞する時、鶴田伊津さんのこの七首の連作に詠われた母子関係は、先輩諸姉の作品に詠まれた母子関係などとは異なり、草食系社会などと揶揄される現代社会に見られる、新しく特異で、かつ普遍的な母子関係を映し出したものとして、観賞しなければならない作品と、評者は思うのである。
どちらが<是>で、どちらが<非>といったような問題では無い。
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり 葛原妙子『橙黄』S25
遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ 中城ふみ子『花の原型』S30
うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる 森岡貞香『白蛾』S28
拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと 同上
女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季 富小路禎子『未明のしらべ』S31
夢にさへ距てられたる子となりてはやも測られぬ背丈を思ふ 雨宮雅子『鶴の夜明けぬ』S51
囀りのゆたかなる春の野に住みてわがいふ声は子を叱る声 石川不二子『牧歌』S51
植えざれば耕さざれば生まざれば見つくすのみの命もつなり 馬場あき子『桜花伝承』S52
『浅瀬のひかり』 鶴田伊津
○ 土の香の著き牛蒡を洗うとき素足涼しき浅瀬のひかり
本作の作者・鶴田伊津さんとほとんどイコールの関係にあると思われる、東京に出て来た地方生まれの女性が、就学や就職などで数年間の一人暮らしを経た後、そこそこに愛する男性と出会って家庭の人となり、子を生すことにもなった。
「土の香の著き牛蒡を洗うとき」という上の句に歌われている状況は、今となっては十数年間の都会生活に磨かれて洗練され、田舎娘の面影をすっかり失くしてしまったその女性が、自宅の近所の八百屋やスーパーから買った来た泥付きの「牛蒡を洗うとき」、或いは、市民菜園といった名称の僅か数坪ばかりの家庭菜園で収穫した、泥付きの「牛蒡を洗うとき」と考えてもそれほど不都合ではないかとは思われる。
しかし、<その「土の香の著き牛蒡」を「素足」を晒して、川の「浅瀬」に入って「洗うとき」「浅瀬のひかり」に涼しさを感じた>などといった爽快感に満ちた状況を、今の首都圏での都会生活に求めることにはかなり無理がある。
したがって、この一首を、仮に作者・鶴田伊津さんの実体験に基づいて詠われた作品であると想定した場合、その背景は、和歌山県新宮市の作者(=作中の女性)の生家辺りとするのが妥当でありましょう。
和歌山県新宮市と言えば、あの佐藤春夫の故郷であり、その上流に<名勝・瀞八丁>を擁する熊野川に面した清流の地である。
作中の女性は、久し振りに都会生活から解放されてお子様連れで帰省した。
そして、今日は生家の畑から収穫したばかりの「土の香の著き牛蒡」の一束を抱えて熊野川の「浅瀬」に、その真っ白い大根足ならぬ、牛蒡のようにほそぼそとした足を晒したのである。
「ああ、この浅瀬の清らかな水で洗うと、土の香りがくっきりと漂っていたこの牛蒡の一束も、みるみる土の香が失せて新鮮さを更に増して行くことだ。清流で洗われて白くなったこの牛蒡と同じように、かつては体中真っ黒になってこの川の流れで遊び戯れていたこの私も、今ではすっかり都会の人となり、この細くて白い脚をこの浅瀬の清涼に晒している。おまけに可愛い子供まで連れて来て。ああ、私は東京で何をして暮らして来たという訳では無いが、何故だか恥ずかしいみたいだ。それにしても、この清らかな水で牛蒡を洗い、この浅瀬のひかりに晒されるとき、私の素足の何と涼しいことよ。何と爽やかなことよ。何故か知らないが、私は東京で恥ずかしいことをして来たみたいだ。」と、作中の女性は感じたのでありましょうか?
ああ おまへはなにをして来たのだと・・・吹き来る風が私に云ふ
(中原中也『山羊の歌』より)
五句目の「浅瀬のひかり」は、何かの暗示のようにも思われるが、その「何か」については、今は言及する余裕が無い。
〔返〕 紀の国の浅瀬の川の朝明けに白き素足を晒す汝はも 鳥羽省三
○ 伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ
「伏せ置きし『徒然草』」とあるが、作中の女性は、大学で中世国文学をご専攻になられたのでありましょうか?
それとも、愛読書の一冊として、吉田兼好著『徒然草』をお読みになって居られるのでありましようか?
「伏せ置きし『徒然草』の背表紙にプリキュアシール貼られておりぬ」とは、『徒然草』の何れかの段を読みかけていた人物が、その途中で用事か何かが発生した為に、そのページを開いたままで本自体を伏せてその場を離れていたところ、自分の知らない間に、誰がよって、その「背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、ということである。
頭脳明晰とは程遠い評者には、『徒然草』を読みかけたまま「伏せて」置いた横着者や、その「背表紙」に「プリキュアシール」を貼った不届き者を特定することは出来ないが、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段を特定することは出来る。
即ち、件の横着者が読みかけていた『徒然草』の段とは、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。」とある、第五十五段である。
とすると、それを読みかけていた件の横着者を特定することも、また、「プリキュアシール」を貼った犯人を特定することも可能となるのでありましょうか?
『徒然草』と言えば、今となっては、それ相当の国文学的知識と興味を備えた者で無ければ手にしない書物であり、「プリキュアシール」と言えば、幼児ないしはせいぜい中学生程度の女性が興味を示す物である。
本作の面白さは、その「『徒然草』の背表紙」に「プリキュアシール」が「貼られて」あった、というミスマッチに在る。
しかも、そのミスマッチは、単なるミスマッチのままで終わるのでは無く、日常生活全般にそうしたミスマッチを介在させたままで暮らしている、作中女性とその「子」との複雑な母子関係をも示唆するものともなっているから、一首の観賞のうえでは、決して見逃しにはならないものである。
〔返〕 伏せ置きし五十五段の風に飛び『徒然草』のつれづれなるも 鳥羽省三
○ 右ひざのすり傷左すねのあざ子は神妙な顔でみせたり
「『徒然草』の背表紙にプリキュアシール」を貼った犯人に天罰が下って、可哀想なことに、彼(または彼女、以下、略)は負傷した。
彼の負傷箇所は、「右ひざのすり傷」と「左すねのあざ」との二箇所。
それでも彼は、彼の母親であり、件の横着者である作中の女性に、「神妙な顔で」その負傷箇所を
見せたのである。
「子は神妙な顔でみせたり」とあるからには、、日常生活のさまざまな場面で、その「子」は、自分の母親たる作中の女性に、自分の素顔や弱みなどを見せない「子」である、と考えなければならない。
何事にも隠し事をする「子」の性格が如何にして形成されたのであるか?
自分の母親が大事にしている書物の「背表紙」に「プリキュアシール」を貼るといったような悪戯を仕出かしたり、自分の母親に自分の素顔や弱みを曝け出さない、といった、その「子」の複雑な性格が、その「子」とその「子」の母親との間の、どのような生活から醸成されたものであるかなど、私たち鑑賞者の興味はさまざまで尽きない。
私たち、鑑賞者の中のかなり早飲み込みの者は、「作中の親子関係の決裂は必至。作中の夫婦関係の決裂は必然。本作中の女性は、早晩、子を棄て、夫と別れて、故地・新宮に隠棲することになるだろう」などとも即断しかねないが、どこをどう推せば、そういう即断が為されるのだろうか、と、何事につけても常識的かつ穏健なる判断を示す傾向にある評者は慨嘆しているのである。
因みに申し添えると、本作に見られる母子関係は、前掲の葛原妙子氏の『橙黄』中の「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり」などに見られる母子関係などとは、比較にならないほどの健全な母子関係である、と評者は判断し、このままで進んで行ったら、むしろ、森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に発展するかも知れない、とも危惧さえしているのである。
〔返〕 傷はきづ痣はあざなり心にも身にも添ひ居て汝を泣かすもの 鳥羽省三
○ 昨日より太りし月の下を行く子の自転車の後輪を追う
少年少女が何か事ある時に、母親などの肉親に隠し事をするのは、ごく当たり前のこと。
それに過剰反応をするのは、愚かな母親のすることである。
前作に於いて、あまりの耐え難さに、自分の負傷を隠し立てすること無く示した、我が子の行為を「神妙な顔でみせたり」とだけ受け止めて、在り合わせの置き薬で治療を施してやった母親は、ごく普通の母親であり、その母親とその子との間の親子関係は、ごく平凡な母子関係であった。
本作は、前作とは異なって、ごく平凡な母子の、ごく平凡な一日の出来事を活写した作品である。
本連作の作者・鶴田伊津さんご自身をモデルにして創作された、本作中の女性とて、四六時中、頭に鉢巻を締めて詠歌に苦しんだり、今となっては薄れ行く記憶に頼りながら、食卓の上で『徒然草』を読んだりしているわけでは無く、月光が涼しく降る夜には、「月の下を行く子の自転車の後輪を追う」といったような、我が子思いの微笑ましい一面をも持ち合わせているのでありましょう。
しかし、作中の表現に沿って一言申し添えると、「昨日より太りし月」とは、単に月齢が「昨日より」一日分増えただけでは無く、この頃の平凡で幸福な生活に浸り切っている作中女性の体重が、一kgか二㎏程度は、確実に増えたのでもありましょうから、その旨、作中女性共々本作の作者に於かれても、ご注意の程を。
〔返〕 懐妊に非ず近ごろまた肥えし君の月追ひそぞろ行く姿 鳥羽省三
○ 今日われの海は凪ぎおり眠る子の額の汗をぬぐってやれば
平凡な昨日に続く平凡な今日である。
しかしながら、「眠る子の額の汗をぬぐってやれば」「今日われの海は凪ぎおり」とは、少しは危険。
ゆめゆめ、前掲の森岡貞香氏の『白蛾』中の「うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる」「拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと」などのような、隠微な母子関係に陥りませんように。
〔返〕 けふ汝の海は凪ぎをり側らで眠りたる子の彼に似たれば 鳥羽省三
○ 治る傷ならばいいのだ夜の湖に覆われぬようカーテンを引く
「治る傷ならばいいのだ」とは、<治らない傷ならば取り乱して泣き騒ぐ>ということか?
それはともかくとして、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」とは、なかなかに含蓄に富みイメージを脹らませる表現である。
下の句のこの表現から類推して、言葉の響きに敏感な鑑賞者は、「治る傷ならばいいのだ」の「傷」を、二首目中の「子」の「右ひざのすり傷左すねのあざ」のみならず、作中の母子関係の「傷」、夫婦関係の「傷」、或いは、作中女性自身の心の「傷」などと推測しそうになるが、それも無理からぬことである。
しかし、そうなればそうなったで亦、作中女性夫妻の離婚必至説が頭を擡げ出すのである。
「治る傷ならばいいのだ」と作中女性は言うが、作中女性と作中女性の家族が負った「傷」が、そんなに簡単に治りそうも無い「傷」であることを、作中女性は知っているからこそ、「夜の湖に覆われぬようカーテンを引く」と言うのである。
〔返〕 湖に夜霧に濡れて舟出せし夫の獲物を妻は見ざるも 鳥羽省三
○ 駅までの雨を浴びたる君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす
「駅までの」という措辞から推すと、作中の「君」は作中女性の待つ「駅」までの距離を、折りからの「雨を浴び」ながら歩いて来たのであろうか。
そして、この「君」と作中女性とは、これから何処へ出掛けようとしているのであろうか?
また、「君」とは、作中女性の「子」のことか、「夫」のことか?
更に想像力を逞しくして言えば、「君の肩に軽く触れれば知らぬ匂いす」の「知らぬ匂い」とは、動物の、しかも人間の、その中でも取り分け女性の「匂い」なのかどうか?
連作の終了を間近にして、鑑賞者たちの思いは、またしても千々に乱れることではある。
〔返〕 霧雨に濡れたる君の背を嗅げば栗の花の香かすかに匂ふ 鳥羽省三
○ エゴの花散り敷く下を横切りぬアーサー・C・クラークの影は
一見すると、この作品は、何か在りそうで何も無かった、この連作を閉じる作品として相応しい穏やかで清潔な作風ではあるが、「エゴの花散り敷く下」を横切った者の正体を、あの『2001年宇宙への旅』でお馴染みのSF作家「アーサー・C・クラークの影」とした、本作の作者の創作意図が今一つ評者に解らない。
〔返〕 謎で明け謎で暮れたる連作の<浅瀬のひかり>未だ幽かに 鳥羽省三
(つるたいつ) 1969年生まれ。和歌山県新宮市出身。「短歌人」所属。歌集に『百年の眠り』。
〔2010・06・22〕「朝日新聞・夕刊」掲載