臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

挑発族今し歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月23日 | 結社誌から
○  ささやかな本能 雨のはじまりを腕の毛がさやと教えてくれる  (名古屋)辻 聡之

 パソコンに「辻聡之」と入力し、検索ボタンを押してみると、何かの宴席と思われる雑然とした室内風景をバックにして結社誌「かりん」主宰の馬場あき子先生と並んだ一人の男性の姿が映し出されるが、件の男性は、角形の大きな伊達眼鏡を掛けて、今風な頭髪をしていて、必ずしも似合うとは思われない蝶ネクタイで首を縛られてはいるが、意外な事に「むくつけきおのこ」といった感じの大丈夫であり、過去の辻聡之作の短歌からイメージされる男性のそれとは明らかに異なるのである。
 本作は「ささやかな本能」という印象鮮やかな9音の歌い出しで以て始まるのであるが、件の実物写真を見てしまった今となっては、本作の歌い出しは「ささやかな本能」ならぬ「動物的な本能」と翻訳して読まなければならないのかも知れません。
 本作の意は「『雨のはじまり』を、私の『腕の毛がさやと教えてくれる』のであるが、それと言うのも、瀟洒な男性たる私自身の『ささやかな本能』が齎すところなのでありましょう」といったところでありましょうが、今の私は、作中の「腕の毛」を「豪腕剛毛」と翻訳して読み、「さやと教えてくれる」を「じわりと教えてくれる」と翻訳して読みたいような気がするのである。


○  驟雨あり選挙ポスターざんざんとほころびてゆく紫陽花の陰

 我が家の前の百段余りの石の階段を下りて行けば、かつては殷賑を極めた大山道に辿り着くのであるが、その傍らに、その季節ともなれば涼しい色して紫陽花が咲いている空き地があり、その空き地と大山道とを隔てるコンクリート作りの壁が、各候補、各政党の「選挙ポスター」の掲示スペースとなっているのである。
 私は、この度、この作品に接して、つい数十日前の6月の中頃に、前述の私の近所の「選挙ポスター」掲示スペースで展開されていた光景を思い出してしまいました。
 然り!
 梅雨時の驟雨に見舞われると、紫陽花の木陰に設置された掲示スペースに貼られた「選挙ポスター」は、今を盛りとして咲く「紫陽花の陰」に隠れて「ざんざんとほころびてゆく」のである。


○  雨、ランチルームに充つる沈黙に香を放ちたりわがカレーパン
○  直方体にとどめられたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ
○  しみじみと包丁は愉し内側を見せることなき日のキッチンで
○  空洞に砂糖がしみる七月のグレープフルーツくりぬきながら    
○  蕎麦、もやし、うどん、豆苗、細長きものばかり食う暮らしにも慣れ

 件の「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」を拝見する以前の私だったら、掲出の五首の作中主体(=作者)を「細面のソース顔の美青年」であると思ったに違いありませんが、件の写真を拝見してしまった今となっては、これらの作品の解釈に就いては、少なからず困惑して居ります。
 「雨」の日に「カレーパン」を作って「ランチルームに充つる沈黙」の中にその「香」を放つ青年。
 「直方体にとどめられたる」パック入りの「牛乳」を「この世のかたち」としみじみと思いながら「提げて帰」る青年。
 「内側を見せることなき日のキッチンで」、包丁を使って野菜を切りながら「しみじみと包丁は愉し」と思いつ呟く青年。
 「七月のグレープフルーツ」を「くりぬきながら」、「空洞に砂糖がしみる」としみじみと見入る青年。
 「蕎麦、もやし、うどん、豆苗」と、「細長きものばかり食う暮らしにも慣れ」て来た青年。
 こうした青年たち、即ち、掲出の五首の作品から読み知れる青年像は、あの「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」に映っている青年像とは、あまりにも隔たっているのである。
 斯くして、彼の塚本邦雄氏が、かつて『短歌考幻学』で仰った「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう」という仮説の正しさが証明されて行くのでありましょうか?

 

○  薄もののすかーと銀河を曵くやうに渉るひとあり見惚れてしまふ  (横浜)黒木沙椰

 作者ご自身が実見なさった現実の風景ではありましょうが、あまりにも美し過ぎて、私・鳥羽省三も亦、思わず「見惚れてしまふ」のである。
 表現上の細かい点に就いて言えば、「薄もののすかーと」は、敢えて「薄もののスカート」とする必要が無く、このままの方が「すかーと」なる女性の穿き物の〈柔らかさや美しさをよく映し得ていると思われるのである。
 また、「銀河を曵くやうに渉るひとあり」の「渉る」がなかなかに宜しい。 
 何故ならば、「渉る」とは、単なる〈路上での直線的な移動〉ではなく、〈水の上を歩いて渡る〉という意味なのだからである。 
 作中の「薄もののすかーと」を身に纏った「ひと」は、横浜市緑区の〈こどもの国〉の芝生の上を渡り歩いていたり、川崎市麻生区の新百合ケ丘駅裏の跨線橋を渡り歩いていたりするのでは無くて、他ならぬ「銀河」の上を「薄もののすかーと」を「曵くやうに」して「渉る」のであり、もっと正しく言えば、「薄もののすかーと」そのものが「銀河を曵くやうに」して「銀河」の上を「渉る」のであるから、この作品に於ける動詞「渉る」の存在は、決して忽せにする事が出来ません。
 一首の末尾の「見惚れてしまふ」という七音に込められた、作者の手放しの褒めようも素晴らしい。

 
○  傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず低く梅雨入りの雨

 「傍観者に終はらぬ生き方」とは、その対象が何であれ、ともかくも対象に積極的に関わって行く「生き方」である。
 問題は、関わって行くべき対象なのであるが、本作の作中主体とほとんど同一人物と思われる、本作の作者・黒木沙椰さんは、案外、その対象の何たるかをご存じで無いのかも知れません。
 であるならば、本作の作者は、この作品を通じて、日常生活の中で鬱積している得体の知れない欲求不満に対して儚い抵抗を試みただけのことでありましょう。
 黒木沙椰作の短歌の中で、目立った特色として挙げられるのは、一首全体の表現に漂う〈欠落感〉であり、〈喪失感〉である。
 作者・黒木沙椰さんは、「梅雨入りの雨」の中に身を置きながら、「傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず」などと、希望とも不満ともつかない寝言めいた言説を弄して居られるのであるが、ならば問う。
 一体全体、本作の作者・黒木沙椰さんは過去に於いて、その対象が何であれ、それに対して積極的に関わった事がただの一度でもあるのでありましょうか?
 その回答が「NO」である事は聴かずして既に判って居りますが、人間という者は、老若男女を問わず、一般的に「本日、ただいま為すべき事を為そうとせずに、その解決を明日へ明日へと先延ばしする」ものであり、そうした自らの怠惰が原因で、日常生活の中に不満や失望を齎し、究極的には、それが得体の知れない〈喪失感〉や〈欠落感〉を彼に感じせしめるに至るのである。
 この事は単なる文学的な修辞の問題ではなく、一人の人間の生き方の問題である。
 ならば、本作の作者は、今、現在、何を為すべきか!
 その回答も亦、言わずして、作者ご自身が既に解って居られることでありましょうが、
 




○  子には子の語らぬ世界ありながらみんなで家族、紫陽花が咲く

○  やまもものジャム煮詰めればつぶつぶと本音は怒りにちかきものにて

○  過剰なる愛厭はれてほどかるるわが二の腕の猫の爪あと

○  いざとなればときが来ればとカタツムリひとりの覚悟背に負ひゆく

○  盆踊りの提灯昼を揺れてをりひとりにひとつの完結がある

○  砂を吐けば海の記憶も薄れゆきああ真水では生きられぬ貝  (鴻巣)江川美恵子

○  スーパーの袋を両手に提げてゆく直火で炙るような路地裏  (草加)かしたにみかこ

○  小気味よき音ひびかせて芋がらを食みてひとりの部屋の静けさ  (茨城)櫛田如堂


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