ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

何が正しい生き方か・・・

2016-10-29 17:24:55 | 知恵の情報
庭の落ち葉をはけ、という住職の命で懸命に箒のあとを立てているものの、はいた
あとから落ち葉は落ちてくる、それに時雨が段々ひどく、いいかげん頭も上着も
ぬれた。この男は医者である。妻子に死なれ無常を感じ僧侶になりたいと頼み
に来たので、住職は断った。しかしたっての頼みに、では、わしの言うことに
絶対服従するか、いたします、というので、いま庭はきを命じられたのである。
医者がずぶぬれになって大ぎそうなので住職はようやく中止を命じた。

そして「わかったか!」とどなった。だが、医者には寒さが肌にしみるだけで何が
何だかわからない。「お前がいくらはいても、落ち葉はあとから、あとからと
落ちてくる。それと同じように、坊主になったからとて、お前の心の塵が清め
られるわけではない。お前は医者だから、我を無にして、人に奉仕することに
生きがいを見出しなさい。寺へはいって鐘をたたいたとて、それで救われると
いうものではない」
といって住職はさとした。医者は成る程とそれに従い、新しい人生を見出した。

神戸に須磨寺といいう大寺院がある。その境内の大師堂の前に句碑が建って
おり、その句は、
「こんな好い月をひとりで見て寝る  放哉」
とある。自由律の俳句で、尾崎放哉の名句の一つである。

明治のむかし、華厳の滝へ投身した哲学青年藤村操は放哉と一高で同じ
クラスであった。放哉は帝大法科を卒業すると、ある保険会社へ就職し、支店
長になった。やがて重役が約束されようとする出世を前にして、彼はウソと
非人情の娑婆にあいそをつかし、藤村操と同じ覚悟で妻子を捨て、無一物
中無尽蔵の境地を俳句に生きた。
「師走の夜の釣鐘鳴らす身となって」彼は寺男で終わった。これも一つの人生。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

どんな場合でもソクラテスが言われるように、「ただ生きるのではなく、よく生きる」
ようにと思う。それをみつめていると、自分の方向性は見えてくるに違いない・・・