ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

苦しみはなぜ生まれるのか    ジェームズ・アレン

2016-10-12 18:15:20 | 知恵の情報
悲しみや不安、恐れや厄介ごとは、なぜ生まれるのでしょう?
それは、ものごとが自分の思い通りにならないからではないでしょうか。
また、欲望がたくさんありすぎてものごとを正しくみることができず、ものごと
の軽重を正しく見ることができないからではないでしょうか。

悲しみに打ちひしがれているときは、自分が失ったものしか見えなくなってしま
います。悲しみが目の前に立ちふさがっているので、人生の全体像が覆い
隠されてしまうのです。それ自体は小さなことであっても、苦しんでいる本人に
とっては大事なことで、人生のほかのできごとと比べたときの正確な重要度が
わからなくなってしまいます。

三十歳を過ぎると、時々自分の過去を振り返ることがあるでしょう。かつては、
不安に駆られたり、悲しみに打ちひしがれたり、あるいは絶望の淵に立たされ
たりしていたできごとも、いまならそれがどれくらいのことなのかを客観的に見る
ことができ、「取るに足りない小さいことだったな」とわかります。

今日、自殺しようとした人も、自殺を思いとどまって十年後に振り返れば、
「何と小さなことを理由に、つまらないことをしようとしていたのだろう」と驚く
かもしれません。

心が感情に支配されたり、悲しみに暮れていたりすると、判断力が失われて
しまいます。そして、ものごとの軽重をはかったり、塾考することができなくなり
ます。心がかき乱されてしまって、ものごとの相対的な価値やバランスがわから
なくなってしまうのです。ちょうどそれは、目を覚まして活動していても、縛られて
自由に行動できない悪夢の中にいるようなものです。

   ★   ★   ★   ★   ★

「ものごとをゆがめないで見る能力」は、「ものごとのありのままの姿を見る
能力」と言い換えることができます。この「ありのままに見る能力」は、養成
していかなければならないものです。

こうして養った力を働かせて世の中を観察するならば、あらゆる知性が会得
でき、品性も磨かれていきます。しかし、世の中だけではなく、精神世界にも
目を向けるなら、まだまだありのままに見る能力は足りません。、だから、
もっと訓練する必要があります。そして、精神の世界にあるものをありのままに
見るなら、嘆き悲しんだり、悲鳴に暮れたりする必要はないことがわかります。

─『「意志」と「人生」の法則』 Light on Life's Difficulties ジェームズ・アレン
  松永英明訳 KKベストセラーズより

心が未熟だと、自分の身にふりかかったことを大げさに考えてしまいます。
一つの対象と他の対象との関係を正しく見ることができません。そのために、
周囲にあるものごとが美しく調和を保っているということにも気づかないのです。

人たるの道を守る───『菜根譚』

2016-10-11 18:31:21 | 知恵の情報
人としての道をしっかり守っていれば、かりに不遇な状態に陥っても、一時のこと
にすぎない。権勢にこびへつらえば、かりに得意の状態にあっても、長続きしない。

道を極めた人物は、世俗の価値にとらわれず、死後の評価に思いを致す。
一時は、不遇な状態に陥っても、人としての道を守って生きるほうがはるかに
賢明ではないか。
(『菜根譚』前集一)

■人としての道、原文では「道徳」となっている。ふつう、道徳といった場合、
 社会により時代によって変化していくものとされているが、ここでいう
 「道徳」とは、それとはちがっていて、一定不変のものとして前提されている。
 人間が人間であるための条件といってよいかもしれない。それを守るとは、
 要するに、人から後ろ指をさされないような生き方をするということである。
 (守屋 洋)

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

『菜根譚』は、大変魅力ある本です。儒教、仏教、道教の三つの主張を
融合し、そのうえにたって処世の道を語っている。前集225(2)、後集135
の内容だが、その日になにか教えを得たいとき、占いカードのように
ページの一箇所をぱっと開いて目に付くところを読んでみたりする。項目ごと
に自分で考えてみられるので、自分にあっているようだ・・・
前から順番に読んでいくと内容を忘れてしまうので、こんな工夫もしている・・・

『菜根譚』著者は、洪応明、字を自誠、号を還初道人と称したが詳しい経歴
などはわかっていない。中国古典のなかでは、比較的新しい本である。
明の万暦年間の末期になったと推定されている。17世紀の初め頃、
今から370年ほど前にかかれたことになる。豊臣から徳川に政権が移ろう
としていた頃だ。
若い頃、科挙の試験に合格して、官界に身を投じたが、中途で官界を
退き、もっぱら道教と仏教の研究にいそしんだとされる。『菜根譚』の
他に『仙仏奇蹤』四巻があり、仙界、仏界の古典のなかから逸事や名言
を抜き出して編集した本だという。

人心をつかむコツ

2016-10-10 18:03:04 | 知恵の情報
いくら名優といったって、しょせんは作り事の芝居を演じているのではないか?
その作り事なのに、観客は感動の涙を流し喝采の拍手を送っている。それに
引きかえ、自分は神の道や真理を説くのに信者は上の空で聞いているようだ、
一体これはどうしたことだろうか──牧師はそう考えるとわけがわからなくなった。
この上は、その名優某に会って、客を感動させる秘訣を聞き出そう、と決意すると、
牧師は、名優某を訪ねた。

「いや別に客を感動さす秘訣だなんて、ございません」とその名優は一応断った
があまり牧師が熱心なので、つい「そんなに仰いますと伺いますが、あなたは
お説教をなさるとき、あなたの仰ることを心から信じておいでになりますか?
おそらく伝道用の教本のままを機械的に仰っておられるのではありませんか。
しかし、私は、なるほど演っていることはいずれも作り事ですが、それに全身
を打ち込んでやっています。私自身が芝居の中の人物になりきろうと努力し、
工夫もつねにかさねてやっています。」とその気持ちを述べた。牧師は、この
言葉に深く反省した。
「自ら疑えば人に信ぜられず、自ら信じれば人に疑われず(素書)」という
兵法上の言葉がある。

夜店の植木屋が枝ぶりのよい花木の盆栽をしきりにすすめる。値段もそう
高くはない。しかし、なんだか不安だ。すぐ枯れるのではなかろうか、とも
思われるが、もともとこの盆栽には根がないのである。つまり、「自ら
疑う」どころではない不正の事実があるから、どうしても人に不安を与えず
にはおかない。植木屋はこの不安を除こうとしてうんと安値にまける、
これで客の不安は欲に変わってこのインチキ盆栽を買うことになる。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

『素書』
原書は六章に分かれており、その内容は道・徳・仁・義・礼の五つは一体で
あるという黄老の学説を宣伝しており、あわせてこの思想によって国を治め
兵を用いるための指針を示しています。その論述は空虚なものとはいえ、
この思想の歴代の軍隊の管理と将軍の任用に対する影響はとても深く、
封建社会の軍事思想を研究するのにもゆるがせにできない内容の一つです。


不安神経質症───神経質症③

2016-10-09 17:07:42 | 医療
Aさんは外交的で仕事もバリバリとこなし、体力にも自信がありました。仕事が
オーバーワーク気味で、睡眠時間が少ない日が続きます。部下も残業や休日
出勤をしてがんばってくれ、期日までに来年度の販売計画書を作成して間に合わす
ことができました。Aさんは、その後部下を連れて飲み歩きました。夜中に目が覚め
るとワイシャツを着たままで、布団の上に寝ていました。どこをどう帰ってきたのか、
記憶もはっきりしません。

Aさんはなんとも言いようのない不安感を覚え、心臓の激しい動悸を意識しまし
た。そして、死の恐怖に襲われました。すっかり動転して、呼吸するのも困難に
なったため、奥さんに救急車を呼んでもらって入院しました。ところが、検査の結果、
心臓にはなんの異常も認められませんでした。

この出来事を契機にして、Aさんは心臓の動悸が気になり始め、またあの晩の
ような発作が起こるのではないかという不安に襲われて、外出するのが怖くなり
ました。とくに電車に乗るのが怖く、各駅停車ならともかく、一人では急行や特急に
のれなくなってしまいました。症状について医師の話を聞いてからは、誰かいっしょに
いれば特急にも乗れるようになりましたが、仕事に支障が生じ、まじめなAさんは
困り果てています。

Aさんのような不安神質症の人は、心臓をはじめどこにも疾患はないと医師が
診断しても、心臓の動悸が激しくなったり、圧迫感、呼吸困難、めまいなどを意識
して、死の恐怖に襲われるのです。そのため、医師の言葉を信じることができず、
しだいに症状が固まって日常生活に支障をきたすようになります。

さて、神経質な人というと無口で陰うつなイメージを抱きますが、不安神経質症の
人はどちらかというと感情表現が豊かで、明るい外向的な人が多く、強迫神経質症
のタイプとは対照的です。強迫神経質症の人が理知的で感情を抑える傾向が強い
のと比べると、感覚的傾向が強いと言えます。一般的な神経質は、不安神経質症と
強迫神経質症の中間タイプというところでしょうか。

このように、ひとくちに神経質と言っても、タイプにより性格傾向が多少異なります。
神経質症で悩んでいる人は、誰もが自分の症状が一番重いと考え、自分ほど
不幸な人間はいないと強く思い込む傾向にあります。したがって、不安神経質症
の人の訴えを聞いた強迫神経質症の人は、なんでそんなことぐらいで悩んでいるのか
と思いがちです。逆の場合も同じことです。けれども、森田理論を学び、症状から
解放されていくと、症状の形態は違ってもそのメカニズムは同じであることがわかり、
共感や同情心が芽生えてくるのです。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社より

神経質症について長く、紹介してみたが、自分の日ごろを内観してみると思い当たる
こともあるように思う。森田氏のアドバイスを参考にすることで自分の行動を考え
直すきっかけになるように思う。

「どうして宇宙人は地球にこないのか?」という巷のよくある質問を目にして・・・

2016-10-08 18:42:18 | 知恵の情報
 
 

まだ、こんなことを考えているのは、鈍感すぎる。
状況証拠は、たくさんあるし、地球人がいかに戦闘的かということも
以前から、言われていることです。地球人だけが勝手に民主的である、親切
であると思い込んで相手のことを考えていないから、わからないのです。
わたしたちは、アフリカの自然動物を不干渉の形で人間が守っていますが、
同じことなのです。宇宙人の立場にたってみてください。自分たちに戦闘的な
地球人にどの異星人が接触してくるでしょうか・・・

また、世界統一的な科学の情報が蔓延しており、相対性理論や、現代科学の
内容が地球までこれるわけがないと豪語してやまない、間違った科学信仰のやからが
吹聴するせいで地球人の意識が開かれず「いの中のかわず」、だからです。

異星人は、過去に原子爆弾の関連でそれぞれの国の首脳に会っています。
民主的に接してきたのにそれを裏切っているのは、地球人なのです。
私が知るところによると、以前は、国の主要の人にコンタクトしていたが、今後は
一般の人に接触しようというということがいわれているということでしたが、その後
どうでしょうか・・・一般の人も獣性を持った人間ばかりで、無理ではないでしょうか。

当分は、不干渉の形で地球は、見守られていくのでしょう。人間の意識の拡大
を待って接触してくるというのが、考えられることでしょう。また、地球の歴史は、
かなり、現代の地球人が知らないことも多いので、アヌンナキなどのシュメールの
話、ニビル(交差する星という意味)などの再接近により、異星人の新たな交流
(よくない)が出てくる可能性も懸念されています。

人間の意識が拡大し、異星人の科学も謙虚に学び宇宙連合や、銀河連盟との
交流が早くできることを私は、願っています。


神経質症は精神病ではありません──「人間性に対する謝った認識」から生ずるもの

2016-10-08 16:25:39 | 医療
テレビや新聞雑誌の事件報道で、「原因はノイローゼ」という言い方をしていることが
よくあります。そのため、神経質症と精神病を混同している人が多いようです。
神経質症は精神病ではありません。また、身体の病気でもありません。では、
神経質症とはどういうものでしょうか。

神経質症とは、「人間性に対する謝った認識に基づく精神的なからくりによって
生ずる」ものです。健康な人なら誰にでもある、またなくてはならない心理的
あるいは生理的現象を、異常や病気と思い込んでしまうこと─これが「人間性
に対する誤った認識」です。これはとんでもないことになった、何としても治さな
ければとあがけばあがくほど、神経質症状が強まり、深みにはまっていきます。

神経質症に苦しむ人には、ある種の性格傾向が認められますが、それがいわゆる
神経質性格です。では、神経質性格の人はみんな神経質症に悩むのかというと、
そんなことはありません。次のような条件が重なったとき、はじめて神経質症に
なるのです。

まず第一に、外的要因として、やっかいな環境や状況におかれた場合です。たとえば、
就職、結婚、出産、退職などといった人生の節目、昇進や転勤、病気や親しい人の死
といった環境や身辺の大きな変化が、そうした外的要因になります。

次に内的要因としては、①神経質性格と幼弱性が結びついてマイナス方向に傾
いたとき、②ものごとや環境にうまく対処できないのではないかと適応不安を感じた
とき、③「かくあるべし」といった観念に縛られて人間性に対する謝った認識を持った
とき、などが挙げられます。

このような外的要因と内的要因が重なり合ったときに当然生まれてくる感情や
生理的な変化を、「他の人にはない異常なもの、あってはならないもの」と認識する
誤りが、神経質の始まりです。そうした感情や生理現象を取り除こうとしても、
それは、当然あるべきものをなくそうという不可能な努力でしかありません。
それなのに、取り除こうとますます注意をそこに集中するから、あがけばあがくほど
症状の泥沼に陥っていきます。このような精神的なからくりのせいで、何十年もの
長い歳月を苦しんで過ごす人もいます。

この神経質症の苦悩から開放されるためには、まず何よりも神経質症の本態
(メカニズム)をよく理解し、認識の誤りを正して努力の方向を修正し、症状は
あっても日々の生活に必要なことを実践していくことです。

神経質症に苦しむのは嫌なことに違いありません。、しかし、それは人間というもの、
自分というものを正しく知って、自分や周囲の人たちを活かしていく道を開く貴重な
機会でもあるのです。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

強迫神経質症───神経質症②

2016-10-07 18:38:17 | 医療
誰でも考えることや感じることを異常だと思い込み、そんな煩わしいことは考えまい
感じまいとすればするほど、それが強くなって苦悩する─これが強迫神経質症です。

強迫神経質症には、次のようにたくさん種類があって、症状は千差万別です。
対人恐怖(赤面恐怖・蒼面恐怖・表情恐怖・視線恐怖・醜貌恐怖・吃音恐怖・
発汗恐怖・排尿恐怖・体臭恐怖など)、不完全恐怖(ガス栓・戸締り・郵便物の投函・
間違い・など)、疾病恐怖(精神病・癌・性病・らい病・結核・高血圧など)、不潔
恐怖、雑念恐怖、縁起恐怖、自殺恐怖、阪神恐怖、罪悪恐怖などなどです。

強迫神経質症には、不完全恐怖や不潔恐怖や縁起恐怖のように、強迫行為を
伴うものも少なくありません。具体的な例で見てみましょう。

Aさんはアパレル関係の会社の総務部人事課に勤務しています。新入社員の
採用に関する報告書をまとめて課長に提出したところ、漢字と採用人員数の
間違いを厳しく指摘され、落ち込みました。これをきっかけにして、書類や報告書
に間違いがあっては大変だと強い不安にかられ、作業中に何度も見直し、さらに
完成後に何度チェックしても不安で、自宅に持ち帰って見直すまでになってしまい
ました。仕事が停滞し、提出日に間に合わないこともあるため、いっそう混乱して
不安が増幅していきます。

Aさんは、自分の見直しは度を超えていて、不要なことだと頭でわかっており、
止めたいと思っています。でも、不安に引きずられてついつい繰り返してしまう
のです。

Bさんの場合は、ポストに手紙を投函するとちゃんと下まで落ちたかいつも不安
で、ポストの口に手を入れて何度も確認してしまいます。不安が昂じて、集配
の郵便局員が来るのを待って確かめたことさえありました。

二人は不完全恐怖の典型的な例ですが、反対にCさんは行動ができません。
なぜかというと、Cさんは縁起恐怖で、仏滅の日や四(死)や十三という数字
に出会うと怖くなり、何もできなくなってしまうのです。

Aさん同様、BさんもCさんも自分の行為の馬鹿さ加減や、そんなことをしていては
いけないとわかっているのですが、不安な感情に負けてしまいます。

神経質症の三タイプのなかでは、強迫神経質症がもっとも頑固だと言われています
が、強迫行為を伴う場合には、気休めの行為を少しずつでも止めていかなければ
なりません。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社


テレビや新聞雑誌の事件報道で、「原因はノイローゼ」という言い方をしていることが
よくあります。そのため、神経質症と精神病を混同している人が多いようです。
神経質症は精神病ではありません。また、身体の病気でもありません。では、
神経質症とはどういうものでしょうか。

神経質症とは、「人間性に対する謝った認識に基づく精神的なからくりによって
生ずる」ものです。健康な人なら誰にでもある、またなくてはならない心理的
あるいは生理的現象を、異常や病気と思い込んでしまうこと─これが「人間性
に対する誤った認識」です。これはとんでもないことになった、何としても治さな
ければとあがけばあがくほど、神経質症状が強まり、深みにはまっていきます。
(つづきは、次回)

神経質症の症状は、大きく分けて次の三つに分類されます

2016-10-06 18:37:02 | 医療
①普通神経質症
②強迫神経質症
③不安神経質症

実際にはこの三つが明確に区別できなかったり、症状が移り変わっていくケース
もあります。まず、普通神経質症について見ていくことにしましょう。

普通神経症には、さまざまな症状があります。頭痛、頭重、頭内朦朧感、めまい、
疲労感、脱力感、肩凝り、記憶力減退、身体の動揺感、不眠症、胃腸神経症、書痙、
頻尿、性的障害などがあげられています。

身体の不調に関するこうした訴えがあるにもかかわらず、普通神経症の人が内科医
の診療を受け検査しても、異常は見つかりません。けれども本人が症状にとらわれ、
不安を感じているために、気分によって症状は変化します。また、症状を取り除こう
としたり、症状を理由に現実から逃げたりすると逆に症状が強くなるという、神経質症
特有の傾向も見られます。神経質性格の特徴のひとつとして「強い欲求」をあげまし
たが、これは欲求の面からみれば{健康欲求}が強い、つまり健康面に不安を感じ
やすいという傾向なのです。

普通神経質症を治すにはどうすればいいかと言えば、身体的な症状を気にしながら、
しなければならないことをしていくことです。つまり、現実に必要なこと、見のまわりの
日常的なことをおろそかにせず、手を出して実行しなければなりません。

アメリカでは気軽に精神科医の診療を受け、かかりつけの精神科医をもつことが
ステイタスシンボルになるとも言われています。ところが日本では、こころの問題は
秘密裡に扱わなければ本人に不利になるのが現状です。けれども最近は、こころの
問題がたびたびマスコミに取り上げられ、そうした方面の図書もたくさん出版される
ようになりました。会社によっては社内に精神科の医師を置いているところもあり、
社会全体がこころのケアの必要性にきづきはじめています。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

心理学的な面から、神経質症を知っておくことは、損にはならないだろう。
哲学などの考え方だけでは、自分を知るということは、足りない時代になっている。
科学の発達とともに心の動きも方法を変えてみていくことも必要だろう。

書物が真に読者のものとなるためには     ショウペンハウエル

2016-10-05 18:11:48 | 知恵の情報
熟慮をかさねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は
食べることによってではなく、消化によってわれわれを養うのである。それとは逆に、
絶えず読むだけで、読んだことを後でされに考えてみなければ、精神の中に根を
おろすこともなく、多くは失われてしまう。

しかし、一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の
一も栄養になればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。

さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は
一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった
道は見える。だが、歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用い
なければならない。(『読書について』斉藤忍随訳 岩波文庫)

    ★    ★    ★    ★

書物を読んで賢くなると思ったら大間違いである。世には本の虫と称され、またそう
評されるのを喜んでいる人もある。もし読書の量に比例して人間が成長するのなら、
本の虫は大人格者になっている筈だが、現実はほとんどそうではあるまい。
かえって嫌味な人柄になっている場合が多い。知識をひけらかして得意になっている
人ばかり、一方的な見せびらかし屋には鼻をつまみたくなる。

人間にとって勉強の本筋は、あくまでも人生体験である。人間を鍛えるのは人間
関係という砥石である。書物の効用は、二通りしかない。
その第一は、人生に処する心構えを教えてくれること。しかし、これは要するに
畳水練であって、いざ水に入って体が浮くようになるには、おのずから別な実地の
工夫が要る。
効用の第二は、実社会で苦労した事柄を、どう納得したらよいか、つまり、経験
を整理する勘所を教えてくれること。読書は体験の代用品にはならないのである。
─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より

一番重要なことは、本を読むことが好きか嫌いかということだと思う。なんだかんだ
批判しても、こうだという考えで本を読んでいては楽しくない。読むことが好きで
楽しくてしょうがなければならない。そういう姿勢で読んでいれば必ずその人の
血肉になるに違いない・・・

十年間の辛抱ができる人は    勝海舟

2016-10-04 18:48:44 | 知恵の情報
上がった相場も、いつか下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときが
あるものさ。その上がり下がりの時間も、長くて十年はかからないよ。それだから、
自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、しばらくするとまた上がって
くるものだ。大奸物・大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳だからのう。

しかし、今はこのとおりいばっていても、また、しばらくすると老いぼれてしまって、
つばの一つもはきかけてくれる人もないようになるだろうよ。世間の相場は、まあ
こんなものさ。その上がり下がり十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ。
(『氷川清話』角川文庫)

奸物(かんぶつ):悪知恵のはたらく心のひねくれた人間。奸知にたけた人物。
大逆(たいぎゃく):人の道にそむく最も悪質な行為。君主や親を殺す類。

    ★   ★   ★   ★

古代アテネには陶片追放(オストラキスモス)という制度があった。市民たちは陶片に、
この人がいては国家のためにならないと思う人の名を書いて投票する。そして、
最多得票者を、罪もないのに理由など関係なく十年間国外に追放するという方式
であった。アテネの政治を自分の思い通りにきりまわしたいテミストクレスは、意見
が対立している人気者のアリスチデスを、この手で追っ払おうと企んだ。

投票の日、町を歩いていたアリスチデスは、見知らぬ字の書けない男に代筆を
頼まれた。なんと、アリスチデス、と書いてくれ言う。どうして君はその人を追放
しようと思うのか、と聞くと、彼は即座にこう答えた。なあに、別に訳はないんだけど、
あんまりみんなが、アリスチデス、アリスチデス、と褒めそやすのを聞くのがうるさい
からさ(『新・プルターク英雄伝』祥伝社ノン・ポシェット)

人の世は評判に左右される。そして評判が或る限度に達すると、反転して飽きられる
のを防げないのである。

─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より


私は、有名になろうと思わないから、あまりピントこないが、人のうわさ、評価と
いうことで考えてみると当てはまるかもしれない。十年くらいの時間で人は変わる
だろうし、世の中も動いている。パソコンの普及や、携帯、スマートフォンも十年
くらいで様変わりだ。

気概を失っていないか──人間としての気概③    渡部昇一

2016-10-03 18:14:59 | 知恵の情報
人生とは自らの気概を作り上げる道程
「吾輩は猫である」と言った漱石の名前のない猫には、凛とした気概を感じます。
その猫にも劣るような、昨今の政治家を初めとする人々の気概のなさではないで
しょうか。もはや、情けなさを通り越しています。

孟子は、
「自ら省みて縮(なお)くんば(正しければ)、千万人といえどもわれ往かん」
と説いています。

そこまで崇高でなくても、日々の一挙手一投足にも、やはり私たちは自分なり
の気概を貫いて生きていきたいものです。

気概とは、その人の生き方の証であり、その人の哲学の反映でもあるでしょう。
それは自分のアイデンティティーの裏返しでもあるのです。
よく、人は自分の顔に責任を持てと言われますが、それはとりもなおさず
気概がそこはかとなく表面にしみでてくることを言っているのです。

こう考えますと、人生とは、自己実現を一つ一つ図りながら、自分の内なる
ものを高め、気概を作り上げていく過程と言えるのではないでしょうか。言い
換えれば、精神を創造していく道程なのです。そして、時折、自分を省みて、
気概がどの程度まで向上してきたかを確認し、さらに高めていくことが必要
なのではないでしょうか。
その時に、自分の人生という背骨を、熟すれば解けてしまうようなロウや、
押されればボキット折れてしまうプラスチック、ましてや、どこかから借りて
きた骨で形づくるのではなく、まさしく内面から熟成されて結晶した気骨で
作り上げていくことが、深みのある人生を築き上げるのでしょう。

もちろん、気概には孟子の先述の言葉のような勇ましく力強い気概もあれば、
柳のようにしなやかで決して折れない気概もあるでしょう。それは人さまざま
だと思います。

しかし、人間の価値、人生の価値、というものは、気概においてそれが推し
量られるという真理を、私たちは深く考えなければならないと思います。
それは時代を超えても永遠に真理であると言えるのではないでしょうか。

─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より

最近話題の豊洲移転の問題。気概のある人がどれだけいるだろうか。
ニュースや、ニュース解説を何度もみてくると、だんだん、都の職員が
何か隠していることが見えてくる。盛り土と地下空洞の切り替えを誰が
やったか・・・それを都の体質に置き換えてうやむやにしてしまいそうだ。

テレビでいろいろな人が話しているのに注意を傾けて、小さい情報を
拾っていると、あるジャーナリストが昼の番組で今取材中だといって
まだはっきりと言えないがと、当時の様子を知っている人の情報らしき
を語っていた。それによると当時の石原都知事と土木関係の人と建築関係の
人を集めて他の人を入れない話し合いがあったときがあるらしい・・・
この席で決定されたのではないか・・・
石原氏はどんな聞き取りにも応じるといっているのだから、彼は、
気概を持って己を公明正大、清廉潔白にしてその当時を思い出し事実を
語ってもらいたい。


気概を失っていないか──人間としての気概②    渡部昇一

2016-10-02 16:52:02 | 知恵の情報
「武」の精神と気概
この気概というものを考えるときに参考になるのが、「武」の精神です。
「武」の精神とは、自分の義務のために、いつでも死ぬということで、人間としては
一番高貴な行為と言えるでしょう。

一切の暴力を退け、無抵抗のままに十字架に磔にされることを選んだキリストの
教えを奉ずるキリスト教団でも、武は常に尊ばれてきました。キリスト教団で
「大王」とか「大帝」と呼ばれた中世の指導者たちは、いずれもキリスト教団を
侵す敵と戦場で戦い抜いた英雄たちでした。

日本でも、『葉隠』を引き合いにだすまでもなく、「一旦緩急あれば死をもいとわぬ」
精神は、武士の精神として尊ばれ、崇められてきました。
私たちが、歴史小説や劇などで、「武」の精神に感動を覚えるのは、人としての
素晴らしい生き方をそこに見るからなのです。
その例はいくらでもありますが、例えば私が子供の頃によく聞かされた佐久間
艇長の話を紹介しましょう。

それは、日本海軍に潜水艦が初めて登場した頃のことです。瀬戸内海で一隻
の潜水艦が故障し、浮上できなくなりました。乗組員全員が懸命に浮上への
努力をする中、佐久間艇長は、なぜ浮き上がれなくなったのか、どこに故障が
発生し、どのように修理しようとしたか、克明に書き続けました。電池がなくなり、
明かりが消えると、潜望鏡から漏れるわずかな明かりを頼りにして、空気中の
酸素がどんどんなくなっていく窒息状況の中で、渾身の力を振り絞って佐久間
艦長は書き続けます。

「一人も持ち場を離れた者はなし。このような事故のために日本の潜水艦の
発達が遅れないようにしてほしい。ここでなくなった自分の部下たちの遺族の
面倒は見てほしい」。最後にそういったことを書き残して、全員持ち場についた
まま死ぬのです。
これは、アメリカやイギリスの海軍の教科書にものって、海軍軍人の手本と
なったそうです。

これが「武」の精神なのです。武というものは、実際に戦争があろうとなかろうと、
人間としての使命を持った人には厳として存在するものなのです。自分という
人間を確立した人、そういった信念のある生き方をする人には、この「武」、
言い換えれば気概があるのです。
逆に気概を失った時、人はその信念どころかこれまでの生き方の軌跡までもが
嘘となって、見るも無残に散っていくことになるのです。

─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より

自分という人間を確立した人、そういう人になりたくて、よく生きるための情報
を集めている・・・いろいろ考えさせられている・・・行動はできているだろうか

気概を失っていないか──人間としての気概①    渡部昇一

2016-10-01 18:02:22 | 知恵の情報
気概を失っていないか
男児学ばざれば 即ち已む
学ばばまさに 群を超ゆるべし
・・・・・・・・・・
いずくんぞ奮発して志を立て
もって国恩に答え もって父母を顕(あらわ)さざるべけんや

これは、『日本外史』や『日本楽府(がふ)』を著した頼山陽(らいさんよう・1780~
1832)が、まだ十歳半の時に書いた文章です。私は小学校の頃、この文章に
発奮して勉学を志すようになったこともあり、私にとっては思い出深いものです。

この詩に流れる頼山陽という一個人の人間の気概が、その後の頼山陽の自己実現
を確かなものにしたように思えます。

ところで現代において、この気概という人間が持つ崇高な精神が非常に弱まって
きているのではないか、と私は大いに懸念しているのです。

それは、戦後、間違った左翼思想に基づく教育が幅を利かせ、気概とか男らしさ
といった、人間として欠かせない精神的教育が置き去りにされたことや、間違った
歴史教育で日本人の気概を失わせてしまったことに最大の理由があります。

(略)ここでは一個の人間としての気概の大切さについて明かしたいと思います。
                                        
─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より

気概というのは、「困難にも屈しない強い意気。気骨。はり。「―を示す」
「国難を積極的に乗り越えて行こうとする強い気持ち」である。北朝鮮や、中国
の共存共栄に反するような行動にどういう姿勢で日本人は臨んだらよいか、
覚悟と知恵が要求されてくるようになってきているのではないか・・・