自分の心が私利私欲に走りそうだと気づいたときは、すぐに正しい道に引きもどさ
なければならない。迷いが起こったらすぐそれに気づき、気づいたらすぐ改める。
こうあってこそ禍を福に転じ、死を生に換えることができるのだ。ちょっとした
迷いだからといって、決して見過ごしてはならない。
(菜根譚 前集86)
■『老子』に、「いかなる難事であろうと、その発端はつねに単純な問題にすぎず、
いかなる大事であろうと、その発端はつねに些細な事件にすぎない」とある。
発端のうちにくいとめてこそ、大事を招かずにすむのである。
─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より
これは、以前にも紹介したが、偽我を発見したときと同じ場面である。
偽我というのは、自己本位の自分の姿がでている、他者意識の薄い状態の我
である。これは、反省によって直ちに改めるようにするのである。
「自分のなかの偽我を発見したら、すぐさまそれを反省し、次の機会から、同じ
ような心の状態や行動をなくすのです。」といわれている。
簡単なことのようであり、自分についたくせはなかなか改められない。少しづつ
この反省を繰り返し、善我の自分へ向かおう・・・
なければならない。迷いが起こったらすぐそれに気づき、気づいたらすぐ改める。
こうあってこそ禍を福に転じ、死を生に換えることができるのだ。ちょっとした
迷いだからといって、決して見過ごしてはならない。
(菜根譚 前集86)
■『老子』に、「いかなる難事であろうと、その発端はつねに単純な問題にすぎず、
いかなる大事であろうと、その発端はつねに些細な事件にすぎない」とある。
発端のうちにくいとめてこそ、大事を招かずにすむのである。
─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より
これは、以前にも紹介したが、偽我を発見したときと同じ場面である。
偽我というのは、自己本位の自分の姿がでている、他者意識の薄い状態の我
である。これは、反省によって直ちに改めるようにするのである。
「自分のなかの偽我を発見したら、すぐさまそれを反省し、次の機会から、同じ
ような心の状態や行動をなくすのです。」といわれている。
簡単なことのようであり、自分についたくせはなかなか改められない。少しづつ
この反省を繰り返し、善我の自分へ向かおう・・・
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