ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

気概を失っていないか──人間としての気概③    渡部昇一

2016-10-03 18:14:59 | 知恵の情報
人生とは自らの気概を作り上げる道程
「吾輩は猫である」と言った漱石の名前のない猫には、凛とした気概を感じます。
その猫にも劣るような、昨今の政治家を初めとする人々の気概のなさではないで
しょうか。もはや、情けなさを通り越しています。

孟子は、
「自ら省みて縮(なお)くんば(正しければ)、千万人といえどもわれ往かん」
と説いています。

そこまで崇高でなくても、日々の一挙手一投足にも、やはり私たちは自分なり
の気概を貫いて生きていきたいものです。

気概とは、その人の生き方の証であり、その人の哲学の反映でもあるでしょう。
それは自分のアイデンティティーの裏返しでもあるのです。
よく、人は自分の顔に責任を持てと言われますが、それはとりもなおさず
気概がそこはかとなく表面にしみでてくることを言っているのです。

こう考えますと、人生とは、自己実現を一つ一つ図りながら、自分の内なる
ものを高め、気概を作り上げていく過程と言えるのではないでしょうか。言い
換えれば、精神を創造していく道程なのです。そして、時折、自分を省みて、
気概がどの程度まで向上してきたかを確認し、さらに高めていくことが必要
なのではないでしょうか。
その時に、自分の人生という背骨を、熟すれば解けてしまうようなロウや、
押されればボキット折れてしまうプラスチック、ましてや、どこかから借りて
きた骨で形づくるのではなく、まさしく内面から熟成されて結晶した気骨で
作り上げていくことが、深みのある人生を築き上げるのでしょう。

もちろん、気概には孟子の先述の言葉のような勇ましく力強い気概もあれば、
柳のようにしなやかで決して折れない気概もあるでしょう。それは人さまざま
だと思います。

しかし、人間の価値、人生の価値、というものは、気概においてそれが推し
量られるという真理を、私たちは深く考えなければならないと思います。
それは時代を超えても永遠に真理であると言えるのではないでしょうか。

─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より

最近話題の豊洲移転の問題。気概のある人がどれだけいるだろうか。
ニュースや、ニュース解説を何度もみてくると、だんだん、都の職員が
何か隠していることが見えてくる。盛り土と地下空洞の切り替えを誰が
やったか・・・それを都の体質に置き換えてうやむやにしてしまいそうだ。

テレビでいろいろな人が話しているのに注意を傾けて、小さい情報を
拾っていると、あるジャーナリストが昼の番組で今取材中だといって
まだはっきりと言えないがと、当時の様子を知っている人の情報らしき
を語っていた。それによると当時の石原都知事と土木関係の人と建築関係の
人を集めて他の人を入れない話し合いがあったときがあるらしい・・・
この席で決定されたのではないか・・・
石原氏はどんな聞き取りにも応じるといっているのだから、彼は、
気概を持って己を公明正大、清廉潔白にしてその当時を思い出し事実を
語ってもらいたい。