ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

男はつらいよ──寅さんの人生語録

2016-06-15 19:22:48 | 知恵の情報
 

寅さんの映画は何本かは、きっと誰でも見ているだろう。その中で、心に残っている
ことばがある。粗野で江戸っ子気質を感じる、いいっぷしの悪さのなかに人情がある。
それをもう一度思い出して味わってみたい・・・
『男はつらいよ 寅さんの人生語録』山田洋次・朝間義隆作/寅さん倶楽部編(PHP研究所)


▲「ほら、いい女がいるとするだろう、。男がその女を見て、ああ、この女大事にしたい
  なあ──そう思うだろう。それが愛じゃねえのか。」

▲「誰もうらむわけにはいかねえな、そういうことは、そりゃこっちが思う分だけ向こうが
  思ってくれりゃ世の中に失恋なんてなくなっちっやうからな。そうはいかねえものな。」

▲「わかりまへんなあ。そないに格好ばかりつけとったら、女ごはん、ものにならんで。
  ちょっとくらい格好悪うても、アホやと言われても、とことんつきまとうて、地獄の底まで
  追っかけて行くくらいの根性がないとあきまへんで、この道は。」

▲「亭主が帰ってくる、風呂が先か、酒が先か、スット面見て分かるようじゃなきゃだめ
  だよ、ねえ」

▲「お前頭が悪いな、俺とお前は違う人間に決まっているじゃねえか。早え話が、
  お前がイモ食ったって俺のケツから屁がでるか。」

▲ 「おいちゃん、俺は決して、金持ちの娘を嫁に貰おうなんて気持ちはこれっぽちだって
   ありゃしねえよ。女ってのは少し苦労したほうがいい嫁になるっていうからな。」

▲「見かけより辛いんだよ、サラリーマンの勤めは。」

▲「うるせえ!そうか、おいちゃん、そういうことを言うのかい、それを言ったらおしまいだよ。」

▲「お互いに過去は触れないほうがいいんじゃねえか、いろいろあるんだから、な」

▲「万一ということがあるじゃないか。その万一の場合にそなえて万事手ぬかりの
  ないようにしてやるのが隣り近所のつき合いっていうもんじゃねえか、おばちゃん。」

▲「おう、そうだよ、人はあきらめが肝心だよ。」

▲「人間は、何のために 生きているのかな。なんて言うかな、ほら、あー生まれて
  来てよかったなって思うことが何遍かあるだろう、その為に人間、生きてんじゃ
  ねえのか。」

▲「人が褒めあうということはこれは実によいことだね、お互いに褒め合わなきゃ
  いけない。褒めあってこそ人間は少しずつ向上してゆくんじゃないかな。」

▲「そりゃ今は悲しいだろうけどさ、月日がたてばどんどん忘れていくものなんだよ。
  忘れるってことは本当にいいことだよ。」

▲「男っていうものはな、引き際が肝心よ。」

▲「心配事は一つくらいあったほうが長生きすると言います。」

▲「そりゃ好きな女と添い遂げられれば、こんな幸せはないけどさ、しかしそうは
  いかないのが世の中なんだよ、みんな我慢して暮らしているんだから、男だって
  女だって。」

▲「私、近頃よくこう思うの、人生に後悔はつきものじゃないかしらって、──
  ああすればよかったなあという後悔と、もう一つは、どうしてあんなことを
  してしまったんだろうという後悔・・・。」

▲「善意だけじゃ済まされないことだってあるでしょ、世の中は。」

─『人間通になる読書術・実践編』谷沢永一著 PHP新書参照


  

「悟り」とは、執着とか悲嘆とか、心の 事実そのままになった状態

2016-06-14 18:57:13 | 知恵の情報
★神経質は、机上論の屁理屈を推し進めているうちに、病の悩みの死の恐怖という
一面のみにとらわれ、動きもとれなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の
発揮ということに気がついたのを心機一転といい、今度は生きるために、火花を散らして
働くようになったのを「悟り」というのである。

★思念することなく、自分の頭の存在を確認するもの、これが体得である。
このときにはじめて、飛びくる石をも、とっさに避けることができる。これを悟りともいえる
だろう。
鏡に映して、自分の顔の位置・形式を知る。これが思想である。
このときには、髭を剃る手さえも、アベコベになって、思うようにならない。これこそ
迷妄というのである。

★机上論で腹式呼吸でもやり、周囲のことも何も忘れて、こころが一つになった時が、
仕事が最もできるというふうに考えるのは、思想の間違いである。精神が四方八方全般
に働いて、しかも現在の仕事の最も適切に出来る状態を、「無所住心」というかと思います。
これがいわゆる悟りでしょう。

普通の人は「鯨は獣類である」、ああそうかと理解し、あるいは「人間は物事に執着して、
一心になり、目的が破壊されると悲観する」と聞いてなるほどと納得する。その理解とか
納得とかいうことを「悟り」かと思っている。「悟り」とは、思うに、執着とか悲嘆とか、心の
事実そのままになった状態、とでもいえばよかろうか。禅やそのほかの宗教では、
どういうか知らないけれども、「悟り」とは迷いに対する言葉で、幸福が不幸、僥倖が災難に
対するように、独立・絶対のものではない。

「悟り」の境涯は、すべての行動が、自由自在で、最も適切に働くときの状態であるが、
他の方面からみれば、われわれの本能とか、自然良能とかいうものは、ほとんど不思議的に、
適切な働きをするものである。

出し抜けに目の前に石が飛んでくる、パッと身をかわす。小さなごみにも、知らぬ間に、
目を瞬いて、目に物を入れない。悟りの働きは、このような微妙さの発揮されたもので
ある。
 
★日常の生活において、すべて、自分のことは自分でするとかいうことは、ただ実行が
なければ、体験がなく、人に対する思いやりなどもできぬため、真の人格の修養が出来ぬ
ためであります。したがって相当の体験の出来た後の人は、必ずしも日常、これをしなければ
ならぬという鋳型にはまることは、私どもの主意ではありません。それは何かの道徳とか
宗教とかの形式で、かえってとらわれになり、不人情になることがあります。
  
人々の日常生活は、みな身分・境遇・時と場合とにより、絶えず変化するものであります。
多くの人を使う人は、その人々に各々その任務をつくさせてやることが必要ですが、ただ
その思いやりが、理屈でなく、自分の体験の人情から出たものでなくてはなりません。
貴族と平民、忙しい人と閑人、主人と居候、社交と独居、常に変化するもので、ただ人情
から出発すれば、いかなる場合にも、常に何の拘泥もなく、礼儀も規則もなくて、無理なしに
できるのであります。これがいわゆる悟りであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

悟りは、やはり、迷わない状態だろう。
俳人が五七五で、ありのままの姿を映し出す悟りの境地は、詩のなかからわかってくる。


鉄人28号の操縦機を誰が使うのか───科学には徳・仁はない

2016-06-12 18:16:43 | 日記
以前に科学を絶対だと洗脳されたようになっているものがいると、批判したが、科学は
なんども言うが、「方法」であり、そこに使う人間の心が宿っていないといけないと思う。
徳のある人間が使うべきなのだ。鉄人28号は、悪にも善にもなりうるものである。

竹内薫さんがNHKの科学番組で科学者の研究する方向性について話していたときが
ある。悪いとわかっていても研究してしまうだろう、ということをおっしゃっていた。
性(さが)だとも・・・ここに、科学者も普通の人とかわらない、学ばなければいけない
倫理道徳の問題がある。一部の研究に秀でていても何にもならない。
金に目がくらんだり、政治権力におもねることも簡単にやる。そういう人間が科学を
やってはいけない。

キューバ危機のとき、米国は砂糖を悪玉にして、キューバとの砂糖取引をしないようにした。
現代でもその情報が一人歩きして、世界的に砂糖が体に悪いような情報が広がっている。
砂糖は、ブドウ糖であり、脳の唯一の栄養であるというのに。最近糖質ダイエットなどという
のがはやっているが、それは、筋肉から糖分をとってしまい破壊してしまうもので、毎日、
朝、食事を糖質を控えていくと頭はぼーっとしてしまう。素人考えで、もしかしたら、
痴呆症などという老人の病気は糖分を減らして脳の栄養が極端に不足した状態をずっと
続けたからではないかと思うことがある。

原子力発電所も最悪の地球加熱装置である
日本の原発には、沸騰水型と加圧水型と二種類ある。原子炉から出た熱は、高温の
水蒸気をつくって、タービンに送られ、タービンの羽根が回って発電機を動かし、生まれた
電気が送電線で消費地に送られる。この時、熱エネルギー運動エネルギー
電気エネルギーへと変換がおこなわれるので、原子炉で生まれた熱エネルギーの
三分の一しか電気にならないのである。

このあと、水蒸気に残った三分の二の熱を海に捨てている。つまり、海水で水蒸気を
冷やして水に戻し、原子炉に送り返している。発電量の二倍の熱量を捨てなければ
ならないのが原発なのである。この捨てられる熱量を温排水と呼んでいる。そればかりか、
原発は東京や大阪の大消費地から遠方の地域に建設されてきたので、送電線による
エネルギー・ロスが大きく、〆て70%のエネルギーを捨てている。最もエネルギー
効率の悪い発電所である。

温排水によって海に捨てられる熱量はどれぐらいになるだろうか。2010年7月現在、
商業用原子炉54基の合計で4911・2万キロワットの「電気出力」を持っている。
その二倍の約一億キロワットの膨大な熱で加熱しているのが原発だということになる。
この熱量を言い換えると、日本全体では、毎日、広島に投下された原爆100個に
相当する巨大な熱量で海を過熱しているのである。広島の原爆は、一瞬で町を
焼き尽くして、跡形もなく消し、14万人の命を奪ったが、それが毎日100個であれば
どうなるか。これで海の生態系がこわれないはずがない。誰にでもわかることだ。
(『二酸化炭素温暖仮説の崩壊』広瀬隆著 集英社新書より抜粋)

広瀬隆氏の2010年の本から説明を紹介したが、現在は、ほとんど稼動していないが
テレビのコマーシャルでもやっているが四分の一まで政府は稼動しようとしている。
原発はいつ大事故を起こすかわからない危険な発電所であり、さらにこのようなエネル
ギー効率の悪く、海を加熱するとんでもない発電機だ。
人間に、地球に悪いものをどうしてやろうとするのか、科学者の責任である。
必死になって止めない、悪の心が存在している・・・

原発はクリーンではないし、温暖化は火力発電のせいではない。このことも解明できない
のもデクノボーの科学者たちだ。大きな金を稼ごうとする国際的な金融マフィア(そうと
しか複雑なので表現できないが)に科学者たちが自分の命がほしくてしたがって
いる模様。

21世紀は、科学者の倫理の気概が問われる時代だ。
専門になればなるほど、一般の素人は煙に巻かれてしまう。だからこそ科学者が
徳・仁・礼・信・義を持たなくてはならない。自分の分野の研究をオタクのようにやって
いてはいけないのである。なにかの賞をとったってその人の欲望を満たすだけだ。
賞をとった科学者の姿をみてもその人の発言が地球の問題に触れていないときは、ちっと
も喜べない・・・・


何が親孝行か

2016-06-11 18:26:58 | 知恵の情報
近江の国に人に知られた親孝行者の息子がいた。うわさに聞くと、信州には大した
親孝行の息子がいるというので、その親孝行ぶりがどんなものか、一度見学してみたいと
近江の親孝行者は思った。そこで、母から暇をもらって、信州の親孝行者の家を訪ねた。

来てみると、その親孝行息子は山に薪を採りに行って留守で母親一人が囲炉裏端に
いた。来意を告げてしばらく休ませてもらっていると、やがて孝行息子が薪を背中に
いっぱい背負って帰ってきた。

これを見るや、母親はとんでいって、薪をおろすのを手伝ってやり、足を洗う水を運んで
来たり、座敷へあがれば、さぞ疲れたであろう、と肩を揉んだり、じつにまめまめしく
立ち働いているのである。これをみて近江の親孝行者は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
(まったく、見ると聞くとは大違いだ。何から何まで母親の手をかりるなんて、これじゃ
親孝行どころか、とんだ親不孝じゃないか)と憤懣やるかたない。これは、きっと家を
間違えたのだろうと、尋ねてみると、

「私は親孝行がどんなことだか知りませんし、また私が親孝行をしているとも思って
いません」とその息子は答える。そうであろう、ほんとうの親孝行者が、こんなに親に
世話をかけるなんてあり得ないことだ。憤慨した近江の親孝行者が帰りかけると、
信州の親孝行者は、

「まあお待ちなさい、私はいまも申しましたように親孝行とはどんなものか存じませんが、
私の母は薪を下ろすのを手伝ったり、いろいろな手伝いを楽しみにしています。
だからそれを断ると、不機嫌になりますので、母のいいなりになって、足を洗って
もらったり、蒲団を敷いてもらったりしているのです。」といった。
これがほんとうの親孝行ではないか。

─『一日一言 人生日記』 古谷綱武編 光文書院より紹介


親がいるときに反抗せず、大切な人であることに気づいてほしい。
どんな事情があるかわからないが、この世のしくみを大きく捉えればとらえるほど
親への感謝は生まれてくる。両親が自分にしてくれたことで、ひどこいともあるだろう。
しかし、そういう時は、この世のしくみへ目を向けてみるのだ。

イデア世界にいたとき、自分で親になる人を選んで頼んで現世に出てきたと
いわれている。しかし、自分が頼んだことを忘れている。
まず、自分が親に感謝するのが先なのだ。そうして、出てくるときには、現世での
計画がうまくいくかは、未知であり、不幸も、幸せも、自分が覚悟して出てきたのだ。

だから、まず、現世での修行のためのきっかけを作ってくれた両親に感謝すべきである。
親への感謝は、自分が共存共栄に気づき、生き方を悟ったときにでてくるが、そのほかに
この世のしくみに思いをはせてみると、わかってくるものもあるのだ。



モーツアルトで右脳を活性化する

2016-06-10 19:17:53 | 知恵の情報

 

トマティス博士の50年近い研究によると、「モーツアルトの音楽」には、他の作曲家の
曲に比べて、高周波の音域の曲(3000ヘルツ以上)が、圧倒的に多いといわれています。
なかには、5000ヘルツを超える曲もあるといいます。

人間は、通常、音を三つの通路を通じて聴いているといわれます。
一つは、当然、耳です。
二つ目が、皮膚、そして、三つ目が、骨からの振動です。

トマティス博士の発見によると「人間の背骨はピアノの鍵盤のような働きがあり、脳に
近い(延髄)上にいくほど、高周波の音に刺激を受ける」といいます。また、人間が
リラックスした状態になるには副交感神経の働きを強める必要があり、そのためには
骨の上部(延髄)を刺激することが不可欠なのです。

この点、「モーツアルトの音楽」は、高周波の波長を多く含んだ音楽ですから、延髄を
刺激する働きが大きいのです。この骨からの振動音が、脳に直接到達して記憶の中枢
ある間脳を刺激します。

①脳が刺激されて体の緊張がとれ、聴覚の感覚が安定します。
②言語を多用する際に使う「脳の高度の働きを整える」効果があります。
③脳の視覚(イメージ力)を活用して、時間・空間認識力を高めます。
④その結果として、「総合的な記憶力(左右脳の統合)」の向上と強化がはかられます。

こうしたすばらしい効果が「モーツアルトの音楽」にはあるのです。
最近では、この効果を知った世界中の医療関係者が「モーツアルトの音楽」を治療に
応用しています。ここ最近のニュース(2003年5月)では、アメリカのNBCの「Today-
Show(トゥデイ・ショウ)」で、「モーツアルトの音楽」を聴くことで、それまでまったく
話すことが出来なかった少女が、会話能力を取り戻した話題が報じられました。

「モーツアルトの音楽は唯一、感覚的な反応を引き起こします。音楽という枠組みを
超越して、音による感覚的な反応を引き起こすことを可能にしたのです。」
「モーツアルト効果」の《仕掛け人》でもある、ドン・キャンベルは「モーツアルトの音楽」
の最大の特徴として、トマティス博士の次の言葉をあげています。
「モーツアルトの音楽は、聞き手を選ばず、人を美、調和、喜び、永遠の世界に導く」
これこそ、私が「右脳教育の神髄」と考えているものです。

インドやキリスト教の僧侶たちは、大昔からすでにこうした音楽の力に気づいていました。
さらに、たとえば、イスラム教のコーランは、独特の韻を含んだ音楽が流れる中で斉唱され
ますし、また、グレゴリオ聖歌の響きは、僧侶たちの記憶力を高めるのに大きな効果を
発揮したと想像されます。

この音楽が、語学学習に効果があることを発見したのは、ブルガリアのロザノフ博士です。
博士は、モーツアルトを筆頭にクラシック音楽(バロック音楽)を使って、大人の語学
学習に革命を起こした人物です。

このように、音楽は、人の「記憶の宝庫」である潜在意識に、直接働きかける力が
あります。リラックスした心地よい音楽は、右脳と左脳のシンクロ(同調)をより高める
効果があります。

─『超右脳記憶法 実践篇』七田 眞著 KKロングセラーズより抜粋紹介

 

記憶法の本をいろいろ探していて、モーツアルトの音楽を聴いて記憶すると効果が
あるというものをみつけた。からだの働きにもよいようだ。バロック音楽なども
精神的安定をもたらすということも聞いたことがある。脳科学者の茂木総一郎氏も
クラシックの音楽を流して作業をするとよいことを本に書いていたと思う。
昔、「アダージョ カラヤン」などのCDがでたのも音楽の精神的効果が話題になった
頃だろう。アダージョは、確かテンポが、心臓の鼓動の拍数に近くてよいと聞いたことがある。
東山魁夷が気に入ったモーツアルトの第二楽章だけを集めたCDがある。信州の
東山魁夷の美術館でしか販売していなくて、いつか手に入れようと思っていたが
いまだ購入していない。私は、あるとき、健康雑誌に付録になったモーツアルトの
試聴盤を聴いていて、とてもこころに残った曲があった。「モーツアルトのピアノ
ソナタ第九番の第二楽章」である。若いときに作曲した曲だが、なんと愛らしく、
気持ちを引き付けるのだろうと、感じた。
最近は、寝る前にテープにとっておいた「クラリネット五重奏曲」を聴いているが
知らないあいだに寝てしまう。バッハの「ゴールドベルク変奏曲」より気持ちが
楽になるみたいだ。



(エル・ピラッテラ─モーツアルト─リスト)

感覚を磨く

2016-06-09 18:40:21 | 知恵の情報
感覚を磨くには
感覚をみがくのには 如何すれば良いかと云うと、
出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと
が第一であります。次に
実際に自分で作ってみること
が第二であります。

上の第一の条件は、あえて、文章に限ったことではありません。
すべて感覚と云うものは、何度も繰り返して感じるうち鋭敏になるのであります。

─『文章読本』谷崎潤一郎 中公文庫

      ★   ★   ★   ★

三つの規則
読書するにあたって大切なのは、きわめて簡単な自明といってもいいような三つの
規則だけである。
(一)たくさん、規則的に読むこと。
(二)よいものは全部読むように心がけ、悪いものや全然よけいなものは一つも読まない
ようにすること。
(三)良いものを正しく読んで、それを自分のものにすること。

正しく読むということは、なかなかの難事であるが、しかし、また大きな時間の節約でも
ある。というのは、正しく読んでおけば、対象をもっと深く捉えようとする時にだけ読み
返せばよく、対象のおおよそを理解するには読み返す必要がないからだ。

実際のところ、書物は二度、すなわち一度目は全部ざっと、二度目は綿密に、そして
おそらくは単に(鉛筆でメモしておいたところだけを)部分的に読んだとき、はじめて
読んだことになるのである。

─『希望と幸福 ─ヒルティの言葉─』秋山英夫訳編 現代教養文庫 社会思想社参照



私は繰り返すことが苦手です。友達は、繰り返しているとだんだん頭に入ってくるという
実感を言う人がいます。彼は、すばらしい、私は読書百遍は大切だとわかっていても苦手。
でも、繰り返し読めないのは、そういう本に出会っていないからだとも言われます。
自分がいままで読んだ本で、あれば、読み返したいというのは確かにあります。
なんでもかんでも繰り返すわけでなく、自分の思いが残っているものを読み返すという
ことなんでしょうか。これだと、苦手な教科書などは、繰り返せず、になってしまう・・・
渡部氏がおっしゃるように読めない本は、新聞や雑誌のように出来事のポイントだけを
知るように読めばよいのでしょう。それには、やはり、読書法の工夫が大事だと思う。



『吾輩は猫である』夏目漱石──を例にして繰り返し読むことを考えてみる

2016-06-08 19:07:35 | 読書

 

渡部昇一さんが『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)という
変わった本を出しています。とても感銘を受ける内容ばかりですが、今日は、本を繰り返し
読む大切さについて触れているところを少し紹介してみます・・・

      ★   ★   ★   ★

繰り返し読むということの大切さ
私が特にお勧めしたいのは、繰り返して読むということです。というのも、一回読んだら
もう読まないという方があまりにも多いように見受けられるからです。なにか、一度読んだ
ものをもう一度読むことは、損なことのように受け止めていらっしゃるのでしょうか。
しかし、本当はその逆で、繰り返して読むlことによって、その本ならではの味が分かって
くるのです。
      
繰り返して読むということは、筋を知っているのにさらに繰り返して読むということですから、
内容の細かいところやおもしろい叙述の仕方に注意が及んでいくということです。

実はそうしなければ、文体の質とか、文章に現れたものの背後にある理念のようなものが
感じとれません。その本の芯の部分や妙味を感じ取るには、どうしても再読・三読・四読・
五読が必要なのです。言い換えれば、反復によるセンスの練磨しかないのです。これは、
読書の質を高めるための必須の条件であり、本のすばらしさを本当に味わうための唯一
の方法なのです。

そこに新聞や雑誌を読むときとの大きな違いがあるのです。新聞や雑誌はニュースを知る、
つまり、出来事の筋を知ることにポイントがありますから、一度読めばいいのです。しかし、
読書は筋を読めばそれでいいというものではなくて、自分の精神形成に役立てるためにも、
その奥に流れる理念や哲学を読むことが必要になります。

また、読書の方法としてお勧めしたいもう一つは、昔読んだ名著を再度紐解いてみることです。

例えば、『吾輩は猫である』を考えてみましょう。
あの本を小学生か中学生の時に読まれた方は多いでしょう。しかし、それであの本は
もう読んでしまった本だと思ってはいませんか?

実は、あそこで交わされている会話は、当時、漱石宅の客間で、寺田虎彦や森田草平や
小宮豊隆や野上豊一郎などを相手にして、実際に漱石がしゃべっていたのと同一水準のもの
なのです。それをそんな人生経験の少ない年頃に読んで、その会話にぞくぞくするような
知的快感を感じることができるでしょうか。

「主人は好んで病気をして喜んでいるけれど、死ぬのは大きらいである。死なない程度に
おいて病気という一種のぜいたくをしたいのである」

「女はとかく多弁でいけない。人間も猫ぐらいの沈黙であるといい」

「のんきと見える人も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする」

「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ・・・義理かく、人情かく、恥をかく
是で三角になる」

「芸術というのは自己の表現に始まって自己の表現に終わるものである」

これらは、同署の中の警句(フレーズ)のほんの一部分に過ぎませんが、やはり人生経験
をそれなりに積んだ時に、「なるほど、うまいこと言うなあ」と感ずるのではないでしょうか。
ですから、以前愛読したといっても、もう一度紐解いてみるということが、読書において
欠かせないと思うのです。(渡部昇一)

            


          ★   ★   ★   ★

そういえば、茂木総一郎さんが、『吾輩は猫である』の本を小学校のときに肌身離さず
持っていた、とご自身の本に書いていたと思う。その理由は、漢字がたくさん入っていて
これを読んでいれば漢字が身につくと思っていたという。ちょっと面白い動機だったので
覚えている。この本の内容のコメントは、どうだったか、覚えていないが、私には、
量が多すぎて手に余って今日まで来ている。ときどき拾い読みをするが飽きてしまった。
渡部氏の指摘する点を頭において読み直してみると面白いものが見えてくるかもしれない。




(エル・ラファエルライエル─曾子─豊臣秀吉─夏目漱石)

自覚とは・・・

2016-06-07 19:07:11 | 知恵の情報
自ら欺くことなく、自己を正しく如実に認めることを自覚という。たとえば自分は苦痛を
回避する気分本位のものである、怠惰であり低脳であり、欲望過大であるとかいうこと
を、自ら省みて、よくこれを承認することである。

いまこの自覚ということについて、少し注意すべきことは、自覚はただ自己の本性を
正しく深く細密に観察認識しさえすれば、それでよいのである。
やりくり手段はいらない。ただ認めさえすればよい。これが最も大切なことで人の
思い違いやすいところである。

自分は怠けてはいけない。読書の興味を待たなければならないl。人前に出ても
大胆にならなければならないとかいうふうに、人間の小智悪智を弄することが
最もよくないことである。しかもそれが今日の教育でも修養書でも宗教でも、みな
そのように教えるところであるからなおさら難しいことである。

        ★   ★   ★   ★ 

強いて笑い顔をするということは、ウソをいうのとおなじように、なかなか難しいもの
である。もちろん、平気で嘘を言う種類の人は別であるが、神経質はむしろ愚直に
近いほどの人もいるから、この種の人には、なかなか思うようにできない。

この場合には、ただ自分は、不機嫌な気難しいわがまま者であるということを
自覚し、人にもこれを認めさせ、その結果として、当然人に嫌われ、うるさがられる
ものであるということを覚悟し、その応報を受けさえすればよい。けっして自分は
このような性質であるから、人は大目に見て、自分を許してくれるべきである。
人は自分が悪人でないことや、自分の正直なところなど認めて、理解してくれ
なければならぬ、などと考えてはならないことである。

このように思い定め、覚悟して後には、社交的にあるいは家庭的に、時と場合とに
応じて、笑うも笑わないのも、自由自在で、必ず自然の人情味が現れるように
なるのである。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

自覚は、やはり、あるがままに自分をみることになるのだろう。
自分の弱さを認めそのうえで、なにをやるか。弱さゆえの知恵があるはず。
自覚によって、自分のアイデンティティが出てくるのかもしれない・・・

自分を人の立場に置き換えて考える

2016-06-06 18:51:45 | 知恵の情報
われわれが、自我というものを押し広げていくと、人も同じ人間ということがわかり、
大我ということにもなる。これが一番よくわかるのは、子供を持ってからです。
子供を持たない若い人は、ずっと年の違った妹くらいで、わずかに推量ができる
くらいのものである。

自分の子供が、歯が痛い、腹が痛いというときに、それくらいのことは耐えれば
よい、とかいうふうにけっして考えぬ、どんなに痛かろうかと思って、自分も
それと同じ痛み・苦しみを感じる。これが本当の同情である。

自分の妹が、欲しいものが買えないというと、一緒に残念に思い、友人が試験に
合格すれば、一緒に喜ぶ。これを同情といって、同悲・同喜といいます。
相手も自分も、同じ我になって考えるのである。

これに反して、自分一人の我を盾に、人の不幸や病気を見たときに「自分で
なくてよかった」とか、「それくらいの苦しみは耐えればよい」とか、「死んだ
ものは、あきらめるよりほかにしかたがない」とか、「病気のときは心を
呑気にもたなければいけない」とか、自分のかってなことばかりをいっている。
これを小我というのである。多くの人の悩みを悩み、世の人の喜びを喜ぶ、
これが大我であって、志士・仁人の心持である。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

人をあるがままに同情できる人間になろう。
森田氏は子供がいないとわからないようなことをいっているが決してそういうことは
ないと思う。なぜなら、この相手の立場に立つということは、人類の課題だからだ。
子供をもって大我がわかっているなら、現在のような地球になっているはずがない。
子供がいてもわからない親が多いから、世の中がよくならず大我も同情もわからず、
過ごしているのである・・・
自分が一人では生きられないことがわかり、共存共栄を身につけなければ、生きられない、
ということを個人個人が自覚していなければどうにもならない。
感覚で相手の立場に立てる人は、それを伸ばし、その感覚が育っていない人は思考に
よって、演技でもそういう態度をとってみる・・・人の協力がないと生きられない
状況を選んで生活する、そういうことをしなくてはならないと思う。

あるがまま 「花は紅、柳は緑」

2016-06-05 17:55:56 | 知恵の情報
さて、ここでみなさんに、十分注意してもらいたいことは、自分自身をその
あるがままに認めることです。自分は、身長150何センチであるとか、体重何キロ
とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなくなるもの、自分は小人であって、
飾り、言い訳し、取りつくろいたくなるものとか、何かにつけて、利害得失に迷い惑う
ものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。

なお自分は身長153センチと正直に自認しようとすれば、それではなんだか心細い、
少なくとも、159センチくらいには思いたい。人前で固くなる、気が小さい、小人だ、
試合のときは足の震えるものなど、そのまま、あるがままに考えることは、なんだか
浮かぶ瀬のないような気がして、苦しい。もっと気を大きく、朗らかにすれば、3センチの
ものも、9センチに伸び上がり、小人でもいくらか、君子らしくなるかもしれない、という
はかない考えが浮かんでくる。

そこで、いろいろの小細工を工夫して、臭いものに蓋をし、われとわが心を欺いて
「自欺(じぎ)」ということにもなる。それが少し調子に乗って、増長慢心が起こると
「ナポレオン何人ぞ。彼も人なり、我も人なり」とかいうような、とてつもないことを
考えるようになる。実際にこのような教え方をする精神修養家が、どちらかといえば、
かえって一般であるかもしれない。しかし、その空威張りの考え方は、実は強迫観念と
同様の心理であって、そのためにかえってますます小胆・無能になり、浮かぶ瀬は
なくなるのである。

「自ら欺く」ということが全くなくなり、明朗な心となることを、孔子の教えの『大学』では
「明徳を明らかにす」といいますが、自分は153.3センチあるというふうに、自分の
ことをも、深く正確に認識していくことを自覚といいます。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

森田療法の創始者森田正馬のことばです。
禅も勉強されていて、なかなか考える視点が参考になります。
「花は紅、柳は緑」といいます。これは、あるがままの姿をいっている、これは、
人生には、苦痛は、当然苦痛であり、煩悶はそのまま煩悶であるということ
なのです。当然であることをそのまま受け入れるということでしょうか。

「人生は,苦は苦であり楽は楽である。「自然に服従し、境遇に従順である」のが
真の道である。毎日の心持を引き立たせる最も安楽な道である。憂鬱や絶望を面白くし、
雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが、不可能であって、世の中にこれ以上の
苦痛なことはない。人生は腹が減れば食べたく、腹がはれば食べたくない。いつも
食べたく、美味でありたいというのが、思想の迷妄であり、哲学・宗教の邪道である
のである。」とも森田氏はおっしゃっている・・・




争わない方法

2016-06-04 18:48:18 | 知恵の情報
泣いている赤ん坊の、泣きわめきを止めさせるにはちょっとコツがいる。
抱き上げて、体をゆすったり、ほほずりをしたり、頭をいくらなぜてやっても
赤ん坊は泣き止んでくれない。なぜなき止めないか、それには抱いた人が
自分の意思どおりに泣き止めさせようと思って赤ん坊にはたらきかけている
からである。つまり、赤ん坊と抱いた人との自我が対立しているからで
ある。

ところが、自我を捨ててニコッと笑って赤ん坊を抱き上げて、赤ん坊の
望むようにあやしてやると、泣き止んでしまう。抱くひとと赤ん坊との
間になんの対立もなく、両者は気持ちの上で、一体となっているから、
赤ん坊は泣いて自己を主張する必要がなくなり、泣き止むのである。

十頭の馬を川辺まで連れてくることは、馬を扱う人なら簡単なことで、
そこで川の水を飲ますことも、やさしいことである。だが、その中で
どうしても水を飲もうとしない一頭の馬にはどうしたらよいか。ここで、
飲ませておかないと、炎天下しばらくは水飲み場はないというとき、
まことに切実なものがある。この水を飲みたがらない馬には、その
気持ちを知って、その望むままにしてやることにより、水を飲むように
導くよりほかはない。人と馬の気持ちが一体になることにより、それは
はじめてうまくいく。

この相手と一体になるには、自我をすてねばならないが、これは相手に
屈従することではない。屈従は自分の意志を曲げて相手の意思に
従うことである。一体となることによりこちらの意思に初めて相手が
納得してくれる。人の上に立ち人を上手に使うには、まず、「我」を去る
修養が第一。そのことを老子は、「・・・善く人を用いる者は之が下となる。
是を争わざるの徳という」とみごとに諭している。

─『一日一言 人生日記』 古谷綱武編 光文書院より紹介

これは、以前に考えてみた「同情」の方法と同じだろうか。
相手の立場に立つという、とっかかりが自我を捨てるということか。
無心とか、己を捨てて浮かぶ瀬もあれ、などヒントが探すとあるが、
むづかしいのではないか。
私の友人で十姉妹やフェレットなどを上手に飼っている人がいた。
彼にコツを聞いてみたら、なんと教えてくれるだろうか・・・

最近は猫ブームで映像で見ていると、猫かわいがりしているのをよくみる。
お互いに警戒なく、対立もなく、安心できるという感じがしていてみていて
微笑ましい。気持ちを知るということは、相手がしたくないことをせず、
そばには、いるということか。
よく、相手を観察して同情することになるだろうか。

自分の苦い経験で、昔、文鳥をかごからだして、えさをあげていたときがあった。
手の上で食べていたので顔の近くにちかづけたら、ほっぺたをつつかれて
しまい、血がでてしまった。あのときは、一体になっていなかったのだろう
か・・・文鳥の性格は前から気が強くて注意はしていたのだがやられた?!
文鳥にとっては顔に近づけられるのが嫌だったんだな・・・

「人格の完成」を道とする日本人    鈴木大拙

2016-06-02 18:09:07 | 知恵の情報
シナやインドの学者のいうように、東洋では、何事も人格の完成ということに
関係させているが、西洋では、科学は科学のため、藝術は藝術のためなどと
いって、そのものの独立性をやかましくいう。日本などでも、人間のやること
は何でも──生花でも剣道でも、踊りや謡でも、何でも──人格の向上と
いうことに関係させるのである。画家にしたところが、胸中万巻の書がなくては
駄目だという。西洋の美術にそのような注文をつけるものはあるまい。ここに
東洋と西洋との相違があるといってもよい。

─『新編 東洋的な見方』鈴木大拙著 岩波文庫


日本では、野球道とか相撲道という。「心・技・体」などという。技を極めることに
人間の心のあり方が問われているようだ。私も柔道をやったが、技を研究しながら、
自分の生き方を考えていた。
柔道には、加納治五郎大先生の柔道原理がある。
精神力最善活用と自他共存共栄という理念だ。
自分の体の力と精神を最善に使うということと、他者を生かしていくということである。
そして、柔道を稽古する目的は、「己を完成し世の捕益となす」ためにというものだ。
単なるスポーツではなく、人間形成の道徳教育と結びついている。
人格の完成ということは、個人の問題でなく、他者とどうやっていくかという問題では
ないだろうか。周りの人とうまくやるには、人間ができていなくてはならないし、
人間社会全体のあり方を考える上でも人格の成長のある人が必要だ。
これは、東洋というより、日本の特質のようにも思える。
戦後は、日本のこういった精神性を解体するようにGHQなどが動いた。
米国の娯楽などを入れ、3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス─数学者岡潔氏
指摘)を通じ、日本精神をなくす取り組みがされた。戦後の米国の娯楽がたくさん
入ってきていたのはそういう意図があってのことだ。また、政治に関しても独立して
日本がやっているようにみせかけながら、指導していたのである。
最近、年次改革要望書なるものがずっと日本に米国が出されていて、指導していたことが
わかった。電電公社の解体や、国鉄の解体、郵政局の民営化も米国の指導によるものらしい。
細かいところにも指示していて、高速道路へのバイクの交通許可なども米国の指導だとも聞く。
マスコミ、テレビの王手は、株を20%くらいは外資にとられているという。番組への
指導もありそうだ。NHKには、内部にGHQからの番組をチェックしている米国系の
部門がいまだあるとも聞く・・・
しかし、日本人は野球にも道をみて、日本精神にある、「明き、清き、直き、心」をめざす
道は失っていない、会社で働くことにも道を見つけていた。日本人の血に流れる
精神は米国にどうすることもできるものではない。
日本人の資質を改めて問い直して、日本人の誇りを取り戻す時期に来ているのかもしれ
ない。若い人の一部が米国の文化をただ取り入れていたりするとちょっと悲しくなる。
よいものは、取り入れても日本の形に変えていってほしい・・・
日本人というアイデンティティー(主体性)を失わないでほしい。