ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

「悟り」とは、執着とか悲嘆とか、心の 事実そのままになった状態

2016-06-14 18:57:13 | 知恵の情報
★神経質は、机上論の屁理屈を推し進めているうちに、病の悩みの死の恐怖という
一面のみにとらわれ、動きもとれなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の
発揮ということに気がついたのを心機一転といい、今度は生きるために、火花を散らして
働くようになったのを「悟り」というのである。

★思念することなく、自分の頭の存在を確認するもの、これが体得である。
このときにはじめて、飛びくる石をも、とっさに避けることができる。これを悟りともいえる
だろう。
鏡に映して、自分の顔の位置・形式を知る。これが思想である。
このときには、髭を剃る手さえも、アベコベになって、思うようにならない。これこそ
迷妄というのである。

★机上論で腹式呼吸でもやり、周囲のことも何も忘れて、こころが一つになった時が、
仕事が最もできるというふうに考えるのは、思想の間違いである。精神が四方八方全般
に働いて、しかも現在の仕事の最も適切に出来る状態を、「無所住心」というかと思います。
これがいわゆる悟りでしょう。

普通の人は「鯨は獣類である」、ああそうかと理解し、あるいは「人間は物事に執着して、
一心になり、目的が破壊されると悲観する」と聞いてなるほどと納得する。その理解とか
納得とかいうことを「悟り」かと思っている。「悟り」とは、思うに、執着とか悲嘆とか、心の
事実そのままになった状態、とでもいえばよかろうか。禅やそのほかの宗教では、
どういうか知らないけれども、「悟り」とは迷いに対する言葉で、幸福が不幸、僥倖が災難に
対するように、独立・絶対のものではない。

「悟り」の境涯は、すべての行動が、自由自在で、最も適切に働くときの状態であるが、
他の方面からみれば、われわれの本能とか、自然良能とかいうものは、ほとんど不思議的に、
適切な働きをするものである。

出し抜けに目の前に石が飛んでくる、パッと身をかわす。小さなごみにも、知らぬ間に、
目を瞬いて、目に物を入れない。悟りの働きは、このような微妙さの発揮されたもので
ある。
 
★日常の生活において、すべて、自分のことは自分でするとかいうことは、ただ実行が
なければ、体験がなく、人に対する思いやりなどもできぬため、真の人格の修養が出来ぬ
ためであります。したがって相当の体験の出来た後の人は、必ずしも日常、これをしなければ
ならぬという鋳型にはまることは、私どもの主意ではありません。それは何かの道徳とか
宗教とかの形式で、かえってとらわれになり、不人情になることがあります。
  
人々の日常生活は、みな身分・境遇・時と場合とにより、絶えず変化するものであります。
多くの人を使う人は、その人々に各々その任務をつくさせてやることが必要ですが、ただ
その思いやりが、理屈でなく、自分の体験の人情から出たものでなくてはなりません。
貴族と平民、忙しい人と閑人、主人と居候、社交と独居、常に変化するもので、ただ人情
から出発すれば、いかなる場合にも、常に何の拘泥もなく、礼儀も規則もなくて、無理なしに
できるのであります。これがいわゆる悟りであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

悟りは、やはり、迷わない状態だろう。
俳人が五七五で、ありのままの姿を映し出す悟りの境地は、詩のなかからわかってくる。