ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

争わない方法

2016-06-04 18:48:18 | 知恵の情報
泣いている赤ん坊の、泣きわめきを止めさせるにはちょっとコツがいる。
抱き上げて、体をゆすったり、ほほずりをしたり、頭をいくらなぜてやっても
赤ん坊は泣き止んでくれない。なぜなき止めないか、それには抱いた人が
自分の意思どおりに泣き止めさせようと思って赤ん坊にはたらきかけている
からである。つまり、赤ん坊と抱いた人との自我が対立しているからで
ある。

ところが、自我を捨ててニコッと笑って赤ん坊を抱き上げて、赤ん坊の
望むようにあやしてやると、泣き止んでしまう。抱くひとと赤ん坊との
間になんの対立もなく、両者は気持ちの上で、一体となっているから、
赤ん坊は泣いて自己を主張する必要がなくなり、泣き止むのである。

十頭の馬を川辺まで連れてくることは、馬を扱う人なら簡単なことで、
そこで川の水を飲ますことも、やさしいことである。だが、その中で
どうしても水を飲もうとしない一頭の馬にはどうしたらよいか。ここで、
飲ませておかないと、炎天下しばらくは水飲み場はないというとき、
まことに切実なものがある。この水を飲みたがらない馬には、その
気持ちを知って、その望むままにしてやることにより、水を飲むように
導くよりほかはない。人と馬の気持ちが一体になることにより、それは
はじめてうまくいく。

この相手と一体になるには、自我をすてねばならないが、これは相手に
屈従することではない。屈従は自分の意志を曲げて相手の意思に
従うことである。一体となることによりこちらの意思に初めて相手が
納得してくれる。人の上に立ち人を上手に使うには、まず、「我」を去る
修養が第一。そのことを老子は、「・・・善く人を用いる者は之が下となる。
是を争わざるの徳という」とみごとに諭している。

─『一日一言 人生日記』 古谷綱武編 光文書院より紹介

これは、以前に考えてみた「同情」の方法と同じだろうか。
相手の立場に立つという、とっかかりが自我を捨てるということか。
無心とか、己を捨てて浮かぶ瀬もあれ、などヒントが探すとあるが、
むづかしいのではないか。
私の友人で十姉妹やフェレットなどを上手に飼っている人がいた。
彼にコツを聞いてみたら、なんと教えてくれるだろうか・・・

最近は猫ブームで映像で見ていると、猫かわいがりしているのをよくみる。
お互いに警戒なく、対立もなく、安心できるという感じがしていてみていて
微笑ましい。気持ちを知るということは、相手がしたくないことをせず、
そばには、いるということか。
よく、相手を観察して同情することになるだろうか。

自分の苦い経験で、昔、文鳥をかごからだして、えさをあげていたときがあった。
手の上で食べていたので顔の近くにちかづけたら、ほっぺたをつつかれて
しまい、血がでてしまった。あのときは、一体になっていなかったのだろう
か・・・文鳥の性格は前から気が強くて注意はしていたのだがやられた?!
文鳥にとっては顔に近づけられるのが嫌だったんだな・・・

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