PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

精神「障害者」という呼称をめぐる討論

2010年10月16日 11時15分06秒 | PSWのお仕事

PSWは「精神障害者の社会的復権と福祉のための専門職」とされています。
この札幌宣言(1982年)で、PSWは自身を定義し、協会は機能回復しました。
僕が、PSWとして精神科病院で働き始めた年のことです。

PSWの業務の対象者は、国家資格になる以前から「精神障害者」でした。
「精神障害者」と言う用語は、PSWにとって自明のこととして使われていました。
学問基盤である社会福祉の世界で、「精神障害」と呼び習わしていたためでしょう。
高齢者領域、児童領域とならんで、障害者領域の一分野として「精神障害」はありました。

「精神障害者」という法律・行政用語は、戦後の精神衛生法(1950年)からです。
それまでは精神病者監護法(1900年)が生きていて、あくまでも「精神病者」でした。

精神衛生法で「精神障害者」が定義されました。
「『精神障害者』とは、精神病者(中毒性精神病を含む)、精神薄弱者及び精神病質者をいう」と。
あくまでも「医療及び保護」のための強制入院対象者として、定義された言葉でした。

でも、「精神障害者」という用語が一般化したのは、さらにずっと後のことです。
精神病院の現場では、精神疾患の「病者」「患者」として考えられていました。
精神科の医療スタッフにとっては、あくまでも「患者さん」であった訳です。

PSW以外の専門職に「精神障害者」という言葉は、あまり浸透していませんでした。
むしろ「精神障害者」と呼ぶことに、多くの医療専門職は抵抗を示しました。
「患者であって、けっして障害者ではない」という意識が支配的であったと思います。

地域の支援機関も限られ、デイケアや作業所が拡充していくに従って変わりました。
「メンバー」「利用者」という言葉が拡がっていきました。
それと同時に「精神障害者」という言葉も徐々に受け入れられていったように思います。



精神医学会で「精神障害者福祉」がテーマとして標榜されたのは1990年が最初です。
僕の知る限り、第33回日本病院・地域精神医学会(東京・霞ヶ関)が初めてです。

樋田精一さんが運営委員長、寺谷隆子さんが事務局長、事務局はJHC板橋が担いました。
地域の作業所が、医学会の総会事務局を担うというのも、前代未聞のことでした。
この時、僕は大塚ゆかりさん(現・山梨県立大学准教授)と、総合司会をしてました。

初日のシンポジウムが延びて閉められた後、討論は自主的な夜間集会に引き継がれました。
「精神障害者」という呼称をめぐって、「病者」も含めて、討論が継続されました。
丁々発止のやりとりは、司会者として、なかなか刺激的な体験でした。

僕は壇上で、頭上の看板を指さしました。(プラトンのように?笑)
参加者は、カッコで括られた「精神『障害者』福祉」の文字を見つめました。
なぜ、精神「障害者」とカッコで括られているのか、考えて欲しいと僕は訴えました。

患者と障害者、医療と福祉の線引きは、僕には無意味に思えました。
法の定義に誰もが異和感を持つのは、当然でした。
でも、医療従事者にこそ、「障害者」に対する内なるスティグマがあると思えました。

総会翌日、調一興さんの迫力ある講演で、学会の方向は定まったと言えます。
国際障害者年日本推進協議会と、軌を一にした運動を展開していくことになりました。
「精神障害者」にかかわる学会として、障害者運動の中へ参画していったのです。

翌1991年、精神神経学会と共同で、障害年金診断書様式の改訂に取り組みました。
1993年、障害者基本法により、精神障害者も障害者として初めて位置づけられました。
1995年、精神保健福祉法ができて、初めて「精神障害者福祉」が法律になりました。
精神障害者福祉制度ができて、本当に、たかだか15年しか経っていないのです。

「患者」のままでは、あくまでも医療の対象でしかありませんでした。
「障害者」と位置づけられることによって、福祉施策がようやく動き始めました。
そして、両者を橋渡しする精神保健福祉士が、1997年国家資格化されました。

その後、2001年、WHOはICF(国際生活機能分類)を採択しました。
これにより、障害は特殊なものではないという方向が、明確に打ち出されました。
障害のネガティブな価値は払拭され、全ての人の生活の延長に位置づけられたのです。

最近は「精神障害者」という一括りの言葉も、最近は使われなくなってきています。
「精神障害を有する人」とか「統合失調症をもつ人」とかが、主流になりつつあります。
誰でも、その人の生活があり、丸ごと精神障害なんて人は、いませんしね。
「がい」の字をどうするよりも、パラダイム転換の可能性を秘めた呼称だと思います。



上に記したことは、あくまでも一学会での出来事です。
精神保健福祉の歴史からは、大して意味はないのかも知れません。
でも、法制度を規定する時代意識は、こうした小さな討論が出発点で形成されます。
少なくとも、僕個人にとっては、エポックメイキングな出来事でした。
精神障害者福祉というテーマが、PSWだけのものでなくなった瞬間だったと言えます。
実践現場が先で、行政は常に後追い、追認です。

あの、全社協ホールでの夜間集会は、非公式な集まりだったので記録が残っていません。
後の学会誌に、司会をした僕が記した小文だけが、唯一残っている記録です。

もう、20年前の古い話ですが、以下に引用しておきます。
当時のディスカッションの一端が、少しでも伝わればと思います。
そして、改めて「精神障害って何だろう?」と議論を積み重ねて欲しいと思います。


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精神「障害者」をめぐる討論

総合司会 古屋龍太


シンポジアム2は時間切れのため、その実質的討論は、同一会場で開催された夜間集会に持ち越された。
参加者は130名、夜7時過ぎまで熱心な討論がかわされた。
シンポ2の経過は、以下の頁を参照して頂くとして、ここでは夜間集会での討論の模様を要約しておく。

今回のシンポ2のテーマは「生活を豊かにする」内容と制度について、施設・住居・労働・地域活動・当事者活動の視点から切り込んだものである。
これらは、第31回総会(駒ヶ根)における討論~「精神障害者って何ですか?」「退院を社会復帰と呼ぶなら、入院を社会脱落と言わなくてはならなくなる」や、
第32回総会(岡山)におけるシンポ~「私という主語のある生活をどう拡大するのかという問題」を引き継いだものと言える。

さて、夜間集会では、冒頭より「精神障害者」という呼称に対する疑義が強く表明された。
「精神障害者という言葉を、我々は余りにも無自覚に使っていないか。
言葉は、実践の内容にも影響を及ぼす。相当な吟味が必要」
「行政が対応してゆく時に、処遇されるべき人を定義する言葉として“精神障害者”はある。
目の前の患者と付き合っている時、我々は“障害者”として見ているだろうか」
「“障害者”と呼ばれることの言葉の痛みは十分考える必要がある。
便宜上使っているというのは、答えになっていない」
「“障害者”と呼ばれることが嫌な素地が現にある。
嫌な思いをしたりさせたりしない、適当な言葉が他にあればとつくづく思う」
「精神障害者=異常者と考えられている。
自分は病気になった患者であって、障害者ではない」…。

上記の議論は、実は今総会の基本テーマを決める際、総会運営委員会内でも厳しくなされた。
結局、多様な議論のあることを前提として、あえて問題提起として〈精神「障害者」福祉〉を、我が国の精神医学会の総会テーマとしては初めて掲げることとなった。
PSWらの福祉の世界ではともかく、おそらく医療従事者の中にこそ、「精神障害者」という言葉への抵抗は根強くある。

その理由の一つは、「障害」という言葉にまつわる廃疾というイメージが流布されていることによる。
障害年金の診断書に「症状が固定して治療の効果が期待できない」「社会生活はできない」と、これまで記されていたように、障害を認めることは治療的関与の可能性を放棄したことと捉えられていた。
WHOが国際障害分類(ICIDH)を示したのは1980年であるが、我が国ではこの中の disability を、疾病の「焼け跡」として「障害」と位置づける考えが一般化され、このことが逆にスティグマ(烙印)として機能してきた。

しかし、今日、障害という概念は広く捉えられている。
疾病と障害は共存しているのであり、治療とリハビリという段階論や、 cure と care 、治療と福祉という二元論はそろそろ克服されなければならない。
医療とは、病者がより良く生きることへの援助としてあり、生きることのハンディに対する社会的視点を欠かせない。
むしろ、疾病という狭い枠組みにすべて押し込めて事足れりとするのではなく、障害という視点から明確に権利要求していく視点が必要ではなかろうか。
そこから、障害という言葉のもつスティグマ性を打破していく具体的方途が見出せる筈である。

その為には、まず我々医療従事者が、障害という言葉に対する感情的反発を乗り越えて、障害概念をきちんと検討していく必要がある。
そんなことを強く考えさせられたシンポ2/夜間集会であった。

(『病院・地域精神医学』第34巻1号(通巻103号)5頁、1992年発行より)
※ブログへの転載にあたり、改行等の手を入れました。