PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

第4回S-PSフォーラム開催

2012年09月29日 01時15分37秒 | フォトチャンネル

今日は「社大精神保健福祉士フォーラム」(略称:S-PSフォーラム)のご案内です。
昨年より年2回開催し、早くも第4回目のフォーラム開催になります。
前回は七夕の日、今回は11月11日(日)、ポッキーの日に開催です。

社大のさまざまな課程で学んだ、PSWの相互交流の場としてスタートしました。
学部・通信教育科・専門職大学院・研究大学院の、現役生・卒業生が集います。
手弁当で運営されている会ですが、とても大事な場になってきています。

ほかにも社大には、学部卒業生たちが集まる2月の「社大PSW勉強会」があります。
今年からは、6月の学内学会に合わせ開催する、PSWのセッションも初めて設けました。
これらは、PSW資格を取得した卒業生たちの、ホームカミングデーの要素もあります。

ただし、卒業生・修了生が、ただ集まる同窓会というだけの要素ではありません。
同じ大学という場を共有したPSWたちの、実践交流・相互研鑽の場になっています。
お互いをリソースとして活かしあい、PSWの理念を確認し合う場になっています。

午前中の講演は、大野和男さんにお願いしました。
精神保健福祉士国家資格時の日本PSW協会理事長で、元専門職大学院教授だった人です。
「Y問題」を切り口に、PSWの抱えるジレンマと価値を、熱く語っていただきます。

午後の分科会は、いずれも卒業生たちの実行委員会による企画です。
前回の分科会を踏襲して、趣向を凝らした運営を目指しています。
秋の日の一日、職場を離れて、PSWとして母校でリフレッシュしてください。

なお、今回から参加者に「社大の精神保健福祉士養成課程に関心のある方」が入りました。
ざっくばらんに言えば、PSWに興味があれば、どなたでも参加可能です。
精神保健福祉領域にかかわる、様々な職種・立場の方のご参加をお待ちしています。

※画像は、前回のS-PSフォーラムの午前中の講演会場の様子です。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

第4回 日本社会事業大学PSWフォーラム
~現役生と卒業生のより良いキャリア形成と実践力向上を目指して~

日本社会事業大学精神保健福祉士養成課程では、学部・通信教育科・専門職大学院・研究科大学院において精神保健福祉を学んでいる方と卒業した方々の相互交流と実践的学びの場として、精神保健福祉士養成課程関係者フォーラム(S-PSWフォーラム)を開催します。
パートナーシップを体感し、みんなでエンパワーメントしあいましょう!

◆日 時:11月11日(日) 10:00~17:00 
◆場 所:日本社会事業大学 清瀬キャンパス 教学B棟B301ほか
◆参加者:通信教育科、社会福祉学部、専門職大学院、研究科大学院の在籍者および卒業者、社大の精神保健福祉士養成課程に関心がある方

◆構 成:
○1 基調講演 10:00~12:00
講師:本学元教授 大野和男先生
「精神保健福祉士が抱える人権上のジレンマ~改めてY問題を考える-」
精神保健医療福祉の領域では、この1年の間に、精神科特例の一部改正、アウトリーチ推進事業、保護者制度の撤廃の検討など、これまで以上に精神保健福祉士として人権を意識する機会が増えています。
そこで今回の基調講演では本学元教授の大野和男先生をお招きして、「精神保健福祉士と人権」について深く考える機会を設けました。
「Y問題」に深く関わってこられた大野先生のお話しは、これからの精神保健福祉の羅針盤となるでしょう。

○2 分科会(予定)13:00~15:30
●分科会①すこやか貯蓄を体験しよう【学部&通信卒業生共同企画】
気分調べやWRAPなどをヒントを得て作られた、病気の有無に関わらず誰でも使える「すこやか貯蓄」を体験して,仕事に役立てるのはもちろん、あなた自身の「すこやかさ」を考えてみませんか?
生き生きとして輝くような状態を目指して自分自身の「すこやかさ」を追求し、リカバリーについて考えてみたい方、日頃から気分や体調を維持・向上させるために使っているツールについて考えたい方、また、それを専門職として働く上で活用したい方、心よりお待ちしています。

●分科会②みんなのピアカウンセリング【教員&学部・専門職大学院卒業生企画】
「ピアカウンセリング」という言葉は聞いたことがあるけれど、どんなことを行っているかわからない方、体験したいと思っている方にお薦めです。
ピアカウンセリングは障害当事者だけのものではなく、同じ課題を抱えるピア、同じ境遇のピア、同じ志を持つピアなど、ピアの形は様々です。
そんなピアの魅力を寺谷先生とともに深く語りあいたい方、あらたな仲間を作りたい方、どうぞお越しください。

●分科会③みんなのリカバリー、秋色カフェへようこそ【教員&通信卒業生共同企画】
カフェのようなリラックスした雰囲気で、さまざまな立場の人が、所属・背景を超え、対等な立場で、人と出会い、会話を楽しみます。
お疲れのかた、ホッとしたいかた、癒されたいかた、どなたでも、大歓迎です。
秋の森を旅して、新しい出会いと安らぎを体験してみませんか?
添田先生の「癒しのミニレクチャー」もご用意してお待ちしています。

●分科会④龍龍先生の公開スーパービジョン」【教員&学部卒業生共同企画】
スーパーバイザーは専門職大学院准教授 古屋龍太先生です。
対象は精神科病院のPSWや精神障害者地域生活支援センターや精神保健福祉センター、その他施設などで直接クライエントと接して、ケースを持っているPSWです。
事例検討を通じて自身の成長やケース対応をよくしたい、スキルアップしていきたいという方々にとってはとてもよい機会となっています。

●分科会⑤SSTを体験してみよう!!【学部&通信卒業生共同企画】
SSTはきいたことあるけど、実際はどうすすめているの?
そんな思いを持つ方、一緒にSSTを体験してみませんか。
楽しく、元気が出る!!そんなSSTの魅力をお伝えします!!
SSTを知っている、きいたことはある、文献は読んだことはあるが未経験、そんな方にお薦めです。

●分科会⑥「保護者について考えよう」【学部卒業生企画】
来年度施行予定の「障害者総合支援法」において保護者制度・入院制度の見直しが検討され保護者の責務規定の削除についても議論されています。
この分科会では、基本的にはフリートーク形式。
これまで体験した医療保護入院のケースや「保護者」にまつわる様々な思い、今抱えている問題、参考図書・資料等の紹介などを参加人数によって小グループに分かれたうえで活発な意見交換を図っていきたいと思います。

●分科会⑦行政が抱える課題を分かちあいませんか?【教員&通信卒業生共同企画】
日本社会事業大学の卒業生には行政職の第一戦で活躍されている方が大勢いらっしゃいます。
この分科会では日頃地域住民のため、広く国民のために汗を流している行政職の方々が、職務・立場を離れ社大の同窓生として本音で語り合う場を用意しました。
久しぶりに母校に戻り、大いに語りあいませんか?

○3 交流会 生協カフェテリア 15:45~17:00
教員による「よろず相談」を含む。軽食とドリンク付き。持ち込み、お土産大歓迎!

○参加予定教員:
大嶋 巌(日本社会事業大学教授)
寺谷隆子(前・本学精神保健福祉士養成課程主任教授)
大野和男(元・本学大学院福祉マネジメント研究科教授)
古屋龍太(本学専門職大学院准教授)
贄川信幸(本学社会事業研究所特任准教授)
添田雅宏(本学通信教育科専任教員)
北本明日香(本学通信教育科専任教員)

◆申し込み先:
お申し込みは、以下の必要事項をご記入の上、大島研究室までメールにてお送りください。
(必要事項)氏名、課程、卒業年、現所属先、連絡先(メールアドレス)、希望する分科会(第2希望まで)
(大島研究室e-mailアドレス) spsforum.jcsw@gmail.com  

◆主催:S-PSWフォーラム実行委員会
社大のPSW課程を卒業した皆さんと教員が、自主的に組織し、企画運営しています。

大学の不思議な用語あれこれ

2012年09月19日 23時58分00秒 | 大学という場所

もう、大学に身を置くようになって5年目になりますが。
未だに「不思議な言葉だな~」と思う、特殊な用語があります。
言葉に馴染みがないと、どこか異邦人感覚になってしまいます。
この不思議な世界に染まりきらないうちに、ここに記しておきましょう。


◆たんい

キログラムとかメートルとかの単位でなく、授業の「単位」のことです。
文科省が単位の基準を定めていて、足りないと卒業できなくなります。
この単位を取得するために、学生は授業に一生懸命出席する訳ですが。
精神科から来た人間には、トークンエコノミーのように思えてきてしまいます(笑)。

講義は、90分1コマの授業を最低8回、演習は15回やると、1単位と決まってるそうで。
前期と後期、それぞれ「月曜日1時限」というような帯番組をやると、15回になります。
学部の講義は、そんなわけでだいたい2単位ずつ取るようになっています。
卒業までに卒論以外に、学部生は最低90単位、大学院は30単位取らなきゃいけません。

僕らが学生のころは、授業が「休講」になると「やった~」と喜んでいたのですが。
今は必ず15回やることになっていて、必ず「補講」を組まねばいけないそうです。
なので、教員の都合で休講が出ると「予定が狂った」と学生には不評です。
ちなみに僕は、大学1年次の取得単位は6単位、2年次も4単位だけでした(爆!)。

(^_^;)


◆どっかい

「読会」と書いて「どっかい」と読みます。
単なる書類の読み合わせや、読書会のようなものと思ったら、大間違い。
現在の国会ではありませんが、昔は法案審議の際に「第一~第三読会」まであったそうで。
大学では、公募教員の新規採用にかかわる人事案件の、重要なステップです。

教員の公募が出ると、応募者から教育研究業績や履歴書が提出される訳ですが。
大学側の採用条件(担当科目、専門領域など)に合致する候補者を選考することになります。
名前をブラインドして、応募者全員の点数一覧が教授会に示されます。
上位得点者から提出された数点の論文を、選考委員が読んで講評を書き、点数をつけます。

これが「第一読会」で、色々な質問が教授たちから出ます。
きわめて公平に、より優秀な教員を採用するための、大事なステップなわけですが。
なかなか厳しい評価や疑問が出され、次回教授会の「第二読会」に進みます。
我ながら、よくぞこんなプロセスをクリアできて採用されたなと、今でも不思議です。

(?o?;)



◆かつあい

演歌じゃあるまいし「渇愛」ではなく「割愛」です。
漢字表記は合っていましたが、でも、意味がよくわかりません。
「文字数の関係で、残念ながら割愛させて頂きました」なんて言いますけど…。
「かつあい依頼が来ました」って会議で報告受けても、なんのことだかさっぱり…。

辞書では「惜しいと思うものを、思いきって捨てたり、手放したりすること」
「愛着の気持ちを断ち切ること。恩愛や煩悩(ぼんのう)を捨て去ること」です。
実はこれ、大学間での人事採用案件にかかわる特殊用語です。
別の大学に採用が決まった教員について、元の大学に「悪いけど、了解してね」と…。

いわば、大学同士の間で「仁義を切る」方法として定着しているようですね。
「割愛拒否」はあり得ないそうで、穏便に人事異動ができるための知恵のようです。
でも、割愛依頼を受けた側は、新年度までに教員の補充をしなければならず、結構大変です。
僕などはそのうち、リストラという名の「割愛辞令」を、個人で頂くかも知れませんが…。

(^へ^;)


◆ぼ~と

最初は「暴徒」しか思いつきませんでした。
でも、会議で言われている意味がまったくつながりません。
「では、ぼ~とで決めますか?」などと言われて、いきなり暴れるわけにもいきません。
「ボード(board)」、つまり理事会とか委員会の意味かなとも思いましたが、違います。

「ボート(vote)」は、投票や賛否表示を意味します。
そういえば、「議席でキャスティング・ボートを握る」なんて言いますね。
要するに案件を議決する際に、挙手で採決ではなく無記名投票を行う。
特に役職者の選挙や、新規教員の採否を決定する際に、必ず「ぼ~と」が行われます。

仕切りを設けた投票所を設けて、いちいち、無記名投票をするんですね、大学では。
投票立会人を決めて、順番に教授会の部屋を出て、別室に投票しに行きます。
お互いにしこりを残さないための、とても民主的な手続きの知恵なのかとは思いますが。
決選投票までやたら時間がかかり、うんざり疲弊してくると、僕は暴徒と化したくなります。

(^o^;)


※画像は、名護市の「宮里そば」の「ぼ~とそば」。
 うそです、「ソーキそば」です。
 この店、昼は当たり前に相席で、大繁盛です。

広田伊蘇夫さんの一周忌

2012年09月18日 23時13分58秒 | 日々の雑記

今日は9月18日、広田伊蘇夫さんの命日です。
もう1周忌というのが、信じがたいですが…。
昨年の2月には「喜寿の会」を新宿で行ったばかりだったのに…。

こう記しても、広田さんの名前を知っている人は少ないでしょう。
精神科医として、決してメジャーな存在ではありませんでしたし。
精神保健福祉の教科書に、名前が出てくるような存在でもありませんし。

むしろ、一昔前の精神病院の院長たちには、煙たがられた存在と言えます。
その主著のタイトルの通り「精神医療と人権」を語る精神科医でしたから。
「改革派」「人権派」の代表的論客として、この国の精神病院を批判し続けた人です。

この人がいなければ、日本の精神科医療はもっと遅れていたかも知れません。
1984年の報徳会宇都宮病院事件を契機とした、精神衛生法改正=精神保健法成立は、
この人の活躍がなければ、実は成し遂げられていなかったと言えるでしょう。

精神保健医療福祉を変えていくのは、「おかしい…」という現実への素朴な疑問です。
広田さんは、生涯一臨床医として、市井の精神科医として行動し続けました。
純朴に社会正義を追い求め、自らの信念に沿って地道な運動を持続した人です。

制度の改正は、時の流れとともに自然に変わっていくものではありません。
法律が大きく変わる時には、必ずその影に使命感をもって取り組んできた人がいます。
歴史は、その時代の人々の意識的な行動により、初めて築かれていくものです。

広田さんには「勝手にネットに追悼文なんか書くんじゃないよ」と怒られそうですが。
こういうアクションを起こした実践家がいた、ということは記しておきたいと思います。
彼の世代が成し遂げられなかった変革は、現在のPSWが引き継ぐべき使命と言えるでしょう。


※画像は「広田伊蘇夫先生の喜寿を祝う会」(2011年2月5日)で挨拶する広田さん。


★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

広田さんの言葉
~追悼・廣田伊蘇夫元理事長~

古屋龍太
(日本社会事業大学大学院、准教授)

2011年9月18日、広田伊蘇夫さんが亡くなりました。
享年78歳、悪性リンパ腫でした。

私が広田伊蘇夫さんと出会ったのは、約30年前の「病院精神医学会」山梨総会(1981年)ででした。
その後「病院・地域精神医学会」になり、「日本病院・地域精神医学会」に変わり、随分メジャーな学会になりましたが、日本で一番ラディカルな医学会を牽引する小柄な理事長でした。
たまたま、その後1984年、学会事務局が国立武蔵療養所(当時)に移り、広田さんが監事に退き、その後を継いで樋田精一さんが理事長になり、私が学会の事務局の仕事をするようになって以降、約20年間にわたって会合で同席させて頂くようになりました。

したがって、私が知る広田さんの姿は、ごくごく限られたものです。
学生時代からずっと行動を共にしてきた精神科医の方々に比べると、広田さんのほんの一面しか知らないと思います。
そんな自分が追悼文を記すなど、恐れ多い感じはしますし、広田さんからは「お前が追悼文書いてくれるのかよ?」と笑われてしまいそうですが。
たぶん精神医療改革を共に闘ってきた同じ世代の精神科医や弁護士の方々が、それぞれ追悼文を書いて下さるでしょうから、私は私の世代の目から見た広田さんを記しておきたいと思います。



広田さんたちは、1974年に「刑法改「正」保安処分に反対する百人委員会」を結成し、これを母体に1980年には「保安処分に反対する精神医療従事者協議会」を発足させました。
この協議会は、その後の「精神保健従事者団体懇談会」(精従懇:22団体で構成)に発展し、現在も引き継がれています。
精神保健医療福祉にかかわる従事者たちの横断的な連合体をまず組織し、隔月開催のこの協議会の中心的な存在として、幅広い関係学会・協会とのコンセンサス作りと共同戦線形成を図っていきました。

1984年、報徳会宇都宮病院事件が起きた時、病院精神医学会理事長であった広田さんは八面六臂の活動を展開しました。
やはりこの国の精神医療の実態が明らかになった歴史的事件であり、入院患者たちの救済と、当時の精神衛生法の抜本的改正をなしとげなければならないという使命感が、広田さんを強く突き動かしていたのだと思います。
そして、宇都宮病院が存在し得たということは、自分たちの医療改革実践が不十分であったことと同じ地続きの問題なのだという自責の念から、広田さんは憤りながらも、時に空しい虚無感に襲われたようです(「病院の治療・看護の再点検」1985年)。

広田さんは精神医療関係5団体による宇都宮病院調査団を組み、声明を発しました。
事件報道は入院患者2名に対するリンチ死亡事件でしたが、この病院では入院患者に対する暴力的支配が日常化しており、看護室や保護室で鉄パイプ・金属バット等によるリンチが横行していたこと、3年間に222名の患者が亡くなっていたこと、入院患者が作業療法という名のもと病院の業務や親族経営の企業で使役されていたこと、医師派遣の見返りとして東京大学に死亡患者の脳が提供されていたこと等の実態が次々と明らかになりました。

広田さんは国内の運動を組むだけでなく、国際世論に訴えました。
国内法の改正に向けて、外圧を有効に利用した戦略でした。
自由人権協会の弁護士らとともに、国際人権連盟に同問題を訴えました。
国連の人権委員会「少数者の差別防止並びに保護に関する小委員会」に提訴されました。
同委員会に出席するために、仕事の合間を縫って、手弁当で毎週ジュネーブと往復する傍ら、『精神医療と人権』3巻を上梓しました。

ジュネーブで日本政府代表は、とんでもない答弁を繰り広げました。
「政府としても遺憾、きわめて例外的な事件」
「日本の強制入院患者は12%、あとは同意入院」
「法律は適正であり、改正する必要はない」と。
ここで言われた「強制入院」は、自傷他害のおそれがあるとされた方の措置入院のことです。
当時の「同意入院」は、今の医療保護入院です。
決して、患者本人のボランタリーな意思によるものではありません。
とても姑息な言い逃れですが、霞が関の官僚たちはごまかせると思ったのでしょう。
広田さんたちの働きかけにより、国際人権連盟会長から当時の中曽根内閣総理大臣閣下宛に要請書簡(抗議文)が届き、政府代表は前言を撤回せざるを得なくなりました。

広田さんたちは海外の法律家とも連携し、国際法律家委員会(ICJ)訪日に合わせ、国際医療従事者委員会(ICHP)を創設しました。
1985年合同調査団の調査内容は「結論及び勧告」として、日本政府に示されました。
広田さんは、厚生省の小林秀資課長(当時)に、精神衛生法改正を強く迫りました。
結局、国連人権委員会に出席した同課長は、法改正について意見表明せざるを得なくなりました。

1987年、精神衛生法が改正され「精神保健法」が制定されました。
患者本人の意思による「任意入院」が、この時初めて日本にできました。
患者自身が、自分自身の意思で、精神科病院を利用する。
その門戸を開いたのが、広田さんの一番大きな功績であったと、私は思っています。
広田さん自身は「自由入院」という言葉で法律化できなかったのを悔しがっていましたが。
「不十分な点はたくさんある。しかし、ひとつ風穴が開いた」。
広田さんが、法改正後の学会で語っていた言葉です。



静かな人でした。
とても静かで、熱い情熱を秘めた人でした。
じっと他者の言葉を聴き、余計なことは言わない人でした。
そのかわり、ズバッと一刀両断の、辛辣なひと言を語る人でした。
いくつも、広田さんが遺した言葉が思い返されます。
その場にいる人の背筋を、しゃんと伸ばさせる、短いひとことでした。

学会の理事会では、居並ぶ精神科医や専門職種などのディスカッションを聴いたうえで、ひとこと告げました。
「スローガンだけじゃダメだ。スローガンだけじゃ何も変わらないよ」
「仮にも学会なんだ。運動をするにも、データを示さなきゃダメだ」
「事実を示さなきゃダメだ。常に事実に基づいて語らなきゃダメだ」
「本当のことを言わなきゃダメだ。この学会を再建した意味がない」
「千人超えたら、もう学会じゃないよ。単なるお祭りだ」
「学芸会じゃあるまいし、良いことしましたって発表だけで、何になる?」。

そして、会議のあとの帰り道、居酒屋などで同志や若手の仲間たちの議論を聞いていました。
説教はしませんでした。
いつもひとこと、告げました。
時に、含羞の笑みを浮かべながら。
時に、人を射抜くような鋭い眼差しで、相手を見つめながら。
「専門職を名乗る以上、学問をしろよ」
「学問はコツコツと、真面目に取り組んでやるもんだよ」
「僕は勉強した。本当に勉強した」
「自分にできる限りのことはやってきた。精一杯診療もしてきた」
「運動もした。書いた。書くべきものは、書いた。もういいよ」。

晩年は、季刊誌「精神医療」の編集委員会で同席させていただきました。
広田さんの絶筆は、私が知る限りでは、同志たちへの追悼文でした。
「島(成郎)が逝き、藤沢(敏雄)や生村(吾郎)が逝き、浜田(晋)も逝った」
「もうイヤだよ、追悼文を書くのは。長生きしてても、みんな先に逝っちまう」
「医者として、やるべきことはやったよ。もう、いいんだ、俺は…」

振り返ると「もう、いい」という言葉が、やたら多い晩年でした。
そして追悼文は、みんな「いずれまた」「またお会いしましょう」という言葉で締めくくられていました。



2011年2月に「喜寿の祝い」を新宿で開き、全国から仲間が集まりました。
お祝いの励ましの言葉を受けて、広田さんは挨拶で精神科医療の現状と今後について語りました。
「精神医療改革は、まだまだ不十分」「取り組まなければならないことは、たくさんある」と語りながらも、「書くべきことは、もう書いた」と広田さんは言っていました。

広田さんの学問的業績の集大成といえるものが『立法百年史ー精神保健・医療・福祉関連法規の立法史』でしょう。
情緒的文言を排して史料の事実のみを記し、精神病者監護法前史から日本の100年を説き起こす400頁を超える大著です。
この本について取り上げると書評になってしまいますし、広田さんの生涯一臨床医としての姿勢は、初期の著作に表れていると思うので、言葉をいくつか拾い出してみたいと思います。

「今、明白なことといえば、自らの精神医療が恥と失敗の繰り返しであったし、今後もそうなるであろうとの実感だけである。
このことを認め、自覚すればするだけ、記したり、話したりすることが白々しいものとなってゆく」
(「日常性へのいくつかの疑問」1974年)。

「病者が自らの誇りや野心をもって、自らの生活を社会に根づかせた時にはじめて、社会復帰は真の意味を獲得し得るものであろう。
とするならば、病者の自尊心や野心を切り刻む病院内部の、そしてなによりも医療者内部の権威構造は、病者の社会復帰への道を傷つけはしても、それを拡大するものとはなり得ない。
このことがわれわれの内部で自覚されてゆかない限り、真の意味での社会復帰医療は、はるかかなたの幻想として存在せざるを得ない」
(「内なる阻害ー社会復帰の前提」1974年)。

「病院治療で何が問われなければならないかといえば、まず、病者は自立し得ず、自らをコントロールし得ないものとの立場を離れ、[理解]ではなく、ラパイユの意味での[愛の関係]にどこまでたち至り得るのかがあり、次に、何が施設のもつ有害な、致命的な政策なり哲学であるかの検討があり、さらに病者を救い難い、無力の犠牲者とみるのではなく、自らの行為に対し責任もあれば、理由づけもできる者としてみる立場に、我々がどこまで立ち得るのかという問題につきるといえよう」
「それは分裂病の病的プロセス論の賛否の問題ではなく、病者の自己決定なり責任を、個々の症例について検討し、それをどう保証してゆくかという問題といってよい」
(「治療者と病者の関係」1975年)

G.トーネイやD.H.クラークらの言説を取り上げながら
「スタッフといえども、ひとりの人間として、合理と不合理を共々もち合わせ、誤りやすい存在であり、それが病者に影響を与えるものであるとの経験的認識があり、この認識の上に、人間集団としての精神医療を展開するのが、精神病院における実践の方向である」
「そこには、道徳療法の根底で、この運動を支えたロックの思想をうかがうことができる。
このようにみる時、精神医療におけるわれわれの治療的実践は、決してドラマチックなものでもないし、それを期待するべきものではない。
それは[われわれもまた誤謬を犯す]との控え目で、つつましやかな認識の上での実践である」
(「精神医療の歩み」1977年)

「コンビニだって、今や24時間やってるんだから、あちこちに診療機関があれば便利ですよ。
ところがコンビニにも負けているわけです。
惨憺たるものですよね、比較すると。
これは資本と福祉の対決点であると私は見ています」
「保健所が人間を相手にしないで、事務屋さんになってしまった。
ただ、勤務している人は優しいですし、ケースによっては懸命に援助して下さいますけれどもね」
「マニュアル通りにやっているだけ。
何か出さないと何もしない。
治療の根本が、変わってきましたね。
人間的ではない。
人間はそんなに簡単でも単純でもない。
マニュアル通りに動く患者がいたら、大変だと思うよ」
(「座談会:病・地学会50年の回顧と展望」2009年)



9月22日の夜。
世田谷キリスト教会での前夜式には、多くの精神医療関係者が集まりました。
学生時代からずっと行動を共にしてきた、精神科医の森山公夫さんが故人を偲び、その活動を称えました。
その思い出を記した追悼文は、広田さんが長年編集委員を務めていた「精神医療」誌の最新号(65号)に掲載されています。

当然のことですが、精神科医師である広田さんというのは、ごく一面だったんだなと葬儀で実感しました。
お顔もそっくりなご兄弟や親族の方に囲まれていた、富山県での少年時代や、社会の矛盾に目を見開いた多感な思春期。
私たち精神保健福祉領域の者もほとんど知らなかった、社会福祉法人興望館の運営する児童養護施設での活動や、子どものいなかった広田さんの子どもたちとのかかわり。
そして、入院療養中の広田さんに告げられた、奥様が突然自宅で逝去された事実…。
「もう、いい…」。
広田さんの晩年の口癖が思い出されました。

今は天国で、含羞に満ちた少年のような笑顔を浮かべて、奥様と過ごしているのでしょうか?
他者を正面から見つめる鋭い眼差しで、先に逝った同志たちと再会し、酒を酌み交わしながら議論しているのでしょうか?

「時代を、状況を変えたいなら、ちゃんと勉強しろよ。学問しろよ」。
…今も広田さんの声が聞こえてきそうです。



廣田 伊蘇夫 先生 (ひろた・いそお、1934年~2011年)

【略歴】
1933年 富山県魚津市に生まれる
1961年 東京大学医学部卒
都立松沢病院、三枚橋病院を経て、同愛記念病院に勤務
日本病院・地域精神医学会:理事長(1979年~1988年)、監事
国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会:元日本代表
精神衛生従事者団体懇談会:元代表世話人
イギリス王立精神医学会選出会員
批評社刊:季刊誌「精神医療」編集委員
社会福祉法人興望館(児童養護施設)理事など

【著書】
浜田 晋・広田伊蘇夫・松下正明・二宮冨美江 編:『精神医学と看護―症例を通して』,日本看護協会出版会,1973年 
広田伊蘇夫:『精神病院~その思想と実践』岩崎学術出版社、1981年5月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『日本収容所列島~精神医療と人権Ⅰ』亜紀書房、1984年11月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人権後進国日本~精神医療と人権II』亜紀書房,1985年6月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人間性回復への道~精神医療と人権III』,亜紀書房,1985年12月
広田伊蘇夫・暉峻淑子編:『調査と人権』,現代書館,1987年5月
広田伊蘇夫:『断想・精神医療』,悠久書房,1987年10月
広田伊蘇夫:『精神分裂病~慢性状態からの考察』医学書院、1987年4月
浜田 晋・竹中星郎・広田伊蘇夫 編:『ナースのための精神医学――症状のとらえ方・かかわり方』,日本看護協会出版会,1997年9月
広田伊蘇夫:『立法百年史~精神保健・医療・福祉関連法規の立法史 増補改訂版』, 批評社, 2004年7月初版

【翻訳】
トーマス S.サズ 著 石井毅,広田伊蘇夫 訳『狂気の思想 : 人間性を剥奪する精神医学』新泉社、1975年
テモシー・W. ハーディング著, 広田伊蘇夫訳:日本の精神衛生法の諸特徴 比較研究(精神衛生法改正国際フォーラム).法学セミナー増刊、37;256-265、1987年
広田伊蘇夫,永野貫太郎 監訳『精神障害患者の人権 : 国際法律家委員会レポート』 明石書店、1996年8月

【論文・報告】
広田伊蘇夫:睡眠段階と閃光刺激への反応.臨床脳波、9(2);115-123、1967年3月
広田伊蘇夫:措置入院制度――その反医療性.精神医療(第1次)4:19-23、1970年
Uno,M., Yoshida,M. & Hirota,I.:The mode of cerebellothalamic relay transmission inuvestigated with intracellular recording from cells of the ventrolateral nucleus of cat's thalamus.Exp.Brain Res.10;121-139.1970年
広田伊蘇夫:もちあじ論への疑問~園田よし氏(あけぼの会)との関連から.精神医療(第2次)、2(3);87-90、1971年11月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-1-.精神医学、14(3);207-217、1972年3月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-2-.精神医学、14(4);349-356、1972年4月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-3-.精神医学、14(5);457-465、1972年5月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-1-.精神医学、14(6);557-566、1972年6月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-2-.精神医学、14(7);661-667、1972年7月
広田伊蘇夫:精神衛生法をめぐる諸問題.病院精神医学、33、1972年
広田伊蘇夫:保安処分新設決定と今後の方向.病院精神医学、35、1973年
広田伊蘇夫:精神衛生実態調査をふりかえる.病院精神医学、36、1973年
広田伊蘇夫:Rehabilitationの可能性 精神病院の中から.精神医学、16(3);232-245、1974年3月
広田伊蘇夫:治療における不安と熱意.精神医療、3(2);79-82、1974年1月
広田伊蘇夫:わが内なる阻害ー社会復帰の前提.精神医療、3(2);83-86、1974年1月
広田伊蘇夫:社会復帰援助の経験から.心と社会、5(2・3)、1974年
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと~日常性へのいくつかの疑問.精神医療、4(1);32-38、1974年9月
広田伊蘇夫:「作業療法」をめぐる精神衛生法小委員会結論 (第72回日本精神神経学会総会特集-1-) .精神神経学雑誌、77(11);809-812、1975年11月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと(その2)~治療者と病者の関係から.精神医療、4(3);54-59、1975年5月
広田伊蘇夫:書評Thomas S. Szasz の立場.精神医療、4(3);73-75、1975年5月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと〔Ⅲ〕~離島での経験と社会学者の目から.精神医療、4(4);63-69、1975年9月
広田伊蘇夫:非行者と病院医療.精神医療、5(1)、1976年
広田伊蘇夫:精神医療の歩み.5(3・4)、1977年
広田伊蘇夫:東京都における緊急措置入院制度をめぐり.病院精神医学、48、1977年
広田伊蘇夫:社会適応施設案へのコメント~精神衛生課長との面会を通して.病院精神医学、52、1978年
広田伊蘇夫:オープン・ポリシーということ.「レモンブックスⅢ」、やどかり出版、1979年
広田伊蘇夫・石川信義:精神病院と地域精神医療.社会精神医学、3;231-237、1980年
広田伊蘇夫:原点から現状を考える (精神医療・医学の今日的課題<第76回日本精神神経学会総会特集-2->) .精神神経学雑誌、82(10);599-606,1980年10月
広田伊蘇夫:松沢病院の戦後の医療実態 (日本精神医学と松沢病院<特集>).精神医学、22(10);1089-1096、1980年10月
広田伊蘇夫:ワイアット裁判以後.精神医療、34;86-89、1980年
広田伊蘇夫:精神医療の抜本的改善について(要綱案)に関する要望書、1981年
広田伊蘇夫:事業報告及び事業計画・資料日弁連・単位弁護士会宛要望書.病院精神医学、65、1981年
広田伊蘇夫:精神病院の社会復帰活動を考える 秋元波留夫氏の感想に寄せて.病院、42(1);76-78、1983年1月
広田伊蘇夫:【精神衛生法と患者の人権】国連人権委員会の報告から.精神医療(第3次)、47;143-148、1983年6月
広田伊蘇夫:精神医療の現実に目をそむける推進派--「保案処分」めぐる賛否.朝日ジャーナル、26(12);92-95、1984年3月
広田伊蘇夫:【宇都宮病院問題緊急特集号】精神病院の密室性を打破するために.精神医療、51;71-75、1984年5月
広田伊蘇夫:患者の人権を重視した医療・看護体制.看護、36(10);21-26、1984年9月
広田伊蘇夫:宇都宮病院問題に対する本学会の対応経過について.病院・地域精神医学、75;87-88、1984年9月
広田伊蘇夫:病院の治療・看護の再点検、東北精神医療、14、1985年
広田伊蘇夫:視点:1984年3月14日.精神科看護、20、1985年
広田伊蘇夫:精神衛生行政の実態.精神医療、14(1)、1985年
広田伊蘇夫:事業報告・事業計画・参考資料宇都宮病院関係.病院地域精神医学、78;15-32、1985年3月
広田伊蘇夫:精神衛生行政を考える.精神医療、54;34-46、1985年4月
広田伊蘇夫:精神医療への若干のコメント 宇都宮病院問題を通して(会議録).精神神経学雑誌、87(11);818-822、1985年11月
広田伊蘇夫:治療者に求められているもの.精労協ニュース、56、1986年
広田伊蘇夫:精神障害者処遇の歴史と記者の目--精神衛生法改正を機に.新聞研究、436;47-51、1987年11月
広田伊蘇夫:精神保健法への若干のコメント.CORE、4(3);193-196、1989年3月
広田伊蘇夫:1964年法改正運動・医局連合.精神医療(第3次)、70;52-60、1989年5月
広田伊蘇夫:90年代の精神病院を展望する ヨーロッパ諸国の動きのなかから.日本精神病院協会雑誌、9(5);411-415、1990年5月
広田伊蘇夫:私と精神医療.病院・地域精神医学、97;11-27、1990年8月
広田伊蘇夫:[せん妄状態]ということ.同愛医学雑誌、16;42-51、1990年12月
広田伊蘇夫:【精神医療改革運動20年】回顧と期待.精神医療(第3次)76;42-43、1991年5月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(1) いま,なぜ総合病院か.病院、50(4);338-339、1991年4月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(5)リエゾン精神医学とは.病院、50(8);698-699、1991年8月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(6)総合病院精神科の患者動態.病院、50(9);788-789、1991年9月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(8)変わりゆく精神分裂病像.病院、50(11);970-971、1991年11月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(9)老人医療にかかわってみて.病院、50(13);1094-1095、1991年12月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(10)老人痴呆その見立ての歴史.病院、51(1);68-69、1992年1月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(12)精神科治療の動態と望むこと.病院、51(3);246-247、1992年3月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(14)精神科治療における“精神の覚醒”.病院、51(5);436-437、1992年5月
広田伊蘇夫:精神保健法の見直しに期待する 国連原則と精神保健の改善.作業療法ジャーナル.26(7);472-476、1992年7月
広田伊蘇夫:遠き道程~精神障害者と人権保護.精神医療(第4次)、1;8-15、1992年8月
広田伊蘇夫:Alpha-Interferonの副作用 精神症状への考察.同愛医学雑誌、17;37-41、1992年12月
広田伊蘇夫:精神医療における倫理的ジレンマ 若干の考察.精神医学、35(8);891-894、1993年8月
広田伊蘇夫:精神分裂病の慢性化とは(会議録).薬物・精神・行動、、13(6);338、1993年12月
広田伊蘇夫:慢性精神分裂病の病態生理をめぐって.同愛医学雑誌、18;55-59、1994年12月
広田伊蘇夫:Common Diseases 200の治療戦略 せん妄.Mndicina、32(12);554-555、1995年11月
広田伊蘇夫:旧き分裂病者からの便りによせて.精神医療(第4次)、8/9;68-78、1996年8月
広田伊蘇夫:宇都宮病院入院者の損害賠償請求訴訟の経過.精神医療(第4次)11;62-65、1997年5月
大友 守 , 黨 康夫 , 小川 忠平 , 荒井 康男 , 佐野 靖之 , 広田 伊蘇夫 , 伊藤 幸治:蘇生後の喘息患者にみられたLance-Adams症候群の一例、アレルギー、47(2・3);302、1998年3月
広田伊蘇夫:高齢者の権利擁護--介護保険と成年後見.精神医療、16;49-60、1999年4月
広田伊蘇夫:【改正精神保健福祉法施行】精神医療と法.精神科看護、27(5);8-12、2000年4月
広田伊蘇夫:序説.『追悼 島成郎~地域精神医療の深淵へ』,批評社,精神医療別冊,2001年
広田伊蘇夫:高齢者のメンタルヘルス (総特集 メンタルヘルス・クライシス).精神医療、27;90-97、2002年
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(会議録).精神神経学雑誌、2005特別;S117、2005年5月
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(解説).精神神経学雑誌、107(9);958-962、2005年9月
広田伊蘇夫:【転換期を迎えた精神科病院と地域生活支援】 戦後の精神科病院施策の変遷.精神医療、48;36-43、2007年10月
広田伊蘇夫:追悼:黒川洋治さんへ.精神医療、53;127、2008年
広田伊蘇夫:藤沢敏雄先生追悼記.病院地域精神医学、52(1)、2009年
広田伊蘇夫:【追悼藤沢敏雄の歩んだ道】おわりに~追悼記として.精神医療、2010年別冊;140-141、2010年5月
広田伊蘇夫:浜田晋さんを追悼する.精神医療、62;134-135、2011年

【座談会】
稲地聖一・浦野シマ・岡田敬藏・田原明夫・広田伊蘇夫・樋田精一:本学会の歩んできた道、進む道.病院・地域精神医学、100;8-33、1992年
松本雅彦・広田伊蘇夫・島成郎・森山公夫・野口昌也・西澤利朗・藤沢敏雄:転換期の風景と精神医療の現在.精神医療(第4次)1;32-72、1992年8月
羽田澄子・浜田晋・広田伊蘇夫:老人問題あれこれ.精神医療(第4次)4;8-39、1993年9月
広田伊蘇夫・ 谷中輝雄・岡崎伸郎:対談 緊急検証 障害者自立支援法体制.精神医療、39; 8-24、2005年
広田伊蘇夫・中山宏太郎・松本雅彦, 岩尾俊一郎, 佐原美智子, 高岡健:【精神医療の1968年】 1968年-時代の転換期と精神医療.精神医療、60;8-33、2010年
広田伊蘇夫・樋田精一・白澤英勝・田原明夫ほか:【回顧と展望】病・地学会50年の回顧と今後の展望.病院・地域精神医学、51(3);207~226p.2009年


※この追悼文は、精神保健ミニコミ誌「クレリェール」592号に掲載されたものを、同編集部の了解も得て、大幅に加筆修正し転載したものであることをお断りします。

※著作等一覧については、国立国会図書館NDL-OPAC書誌一般検索も用いて作成しましたが、漏れも多く、手元の書籍による探索時間も限られていたため、不十分なものであることをお断りいたします。

※参考文献
広田伊蘇夫:事業報告・宇都宮病院問題関係.病院・地域精神医学、78集.1985年
広田伊蘇夫:『断想・精神医療』,悠久書房,1987年
森山公夫:広田君、ありがとう.精神医療(第4次)65;123‐127、2012年
古屋龍太:日本病院・地域精神医学会の50年とわが国の精神保健福祉をめぐる流れ(1957年~2008年)」病院・地域精神医学、51(3);254~281p.2009年


以上、『病院・地域精神医学』54巻3号(通巻185号)344-348頁(2012年3月発行)より転載

沖縄の人たちの気持ち

2012年09月12日 09時41分47秒 | 日々の雑記

先週7日(金)~9日(日)、沖縄に行ってきました。
名護市で開かれた「福祉フォーラムin名護」に参加するためです。

昨年の宮古島に続いて、5回目の「専門職大学院出前ゼミ」です。
現地の専門職大学院修了生が中心となって、企画運営されるフォーラムです。

講演2本、シンポジウム1本、ワークショップ1本、ゼミ4本。
1日盛りだくさんのメニューに、120名の方が参加されました。

その様子は、フェイスブックの専門職大学院ページの方に掲載しています。
画像も多数アップしていますので、よろしければご覧ください。



沖縄に到着した前日には、レンタカー3台で「嘉数高台」の公園に向かいました。
密集した住宅街に隣接するアメリカ海兵隊普天間基地が、眼下に広がっていました。

その後、「道の駅かでな」に立ち寄り、展望台から嘉手納基地を眺めました。
嘉手納町の83%を米軍が占め、17%の土地に住民が住む「基地の町」を身近に感じました。

フォーラムを終えた翌日には、再びレンタカー3台で辺野古の海を見に行きました。
エメラルドグリーンの海の向こうに、キャンプシュワプの鉄条網が拡がっていました。

その後、宜野湾市での「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」に向かいました。
前夜の懇親会で、名護の方々からお聞きして、皆で急きょ決めたことでした。

「参加はしなくてもいい。でも関心は持っていてほしい。沖縄の気持ちはわかってほしい」
とても控え目な言葉でしたが、一同の気持ちを動かすには十分でした。



レンタカーを沖縄国際大学の駐車場に停め、シャトルバスで海浜公園に向かいました。
昨年、日本病院・地域精神医学会を行ったコンベンションセンターの海側です。

会場周辺の駐車場・道路には、沖縄各地から集結したバスが溢れていました。
数百台もの、あれだけの数のバスが一堂に会しているのを見たのは、初めてでした。

マイカー渋滞を避けるために、沖縄県内のすべての各市町村から貸切バスが出ています。
かなり年配の方から、子供連れの夫婦、学生まで多種多様な市民が集まっています。

ネット上では「沖縄県外からの動員がほとんど」というような書き込みも散見されますが。
現地に行けば、それが根拠のない中傷であることがハッキリわかります。

周辺には、会場に入れない人々が、暑い日差しを避けて、たくさん座り込んでいました。
参加者は主催者発表で10万1千人、過去最大規模の県民大会になりました。

現地到着が遅れたため、本当に後半の方しか参加できなかったのですが。
登壇者の発言に聴き入り、拍手し、指笛を鳴らし、気勢を上げる姿は、胸に迫りました。

自由のない辺境の地で、常に意志を蹂躙され、ないがしろにされてきた沖縄の人々…。
短い時間でも、沖縄の気持ちに触れることができて、行動を共にできて、良かったです。



今年『精神保健福祉』に掲載された拙文を、以下に再掲しておきます。
今回の県民大会の会場で開催された、昨年の学会の参加印象記ですが。

沖縄の人たちの気持ちに触れた、自分の気持ちを率直に記したものです。
沖縄に関することを、沖縄の人々抜きに決めるな!…。そう思います。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


沖縄と東北を結ぶもの~第53回日本病院・地域精神医学会総会に参加して

古屋龍太(日本社会事業大学大学院)

2011年は、悲しい年だった。
遠く離れた東北の地で、人々が一瞬にして生活のすべてを失い、親しい家族を喪う光景を、私たちは目撃した。
多くの人が亡くなった。
多くの人が生きる希望を失った。
そして多くの人が、心痛ませ、何もできずにいる自分が後ろめたく、もどかしかった。
未曾有の大震災は、戦後最大の国難とも呼ばれた。

第54回日本病院・地域精神医学会総会は、2011年11月18日~19日、戦中戦後の国難を一身に背負わされてきた南の島で開かれた。
碧い海が拡がる沖縄には、自由な空がない。
今なお米軍の管制空域を避け、民間航空機は海上すれすれをゆっくり飛んで那覇に着く。

3・11を経て、大会基本テーマは「出会い、支え合い、結び合う~ゆいまーるの島から」と掲げられた。
大会長の知念襄二(福の木診療所)は記す。
1960年の琉球精神衛生法以降、本土化の過程で「同化と異化」が内在していた。
日本と比した沖縄の収容史の落差から、この国の精神医療の変革に何事かの視点を提示しうる根拠が孕まれていると。

沖縄総会の姿勢は、北村毅(早稲田大学琉球・沖縄研究所)の記念講演「戦後沖縄の心象風景」に見事に結実していた。
今も米軍基地と隣り合わせの人々の生活の中に残る、沖縄戦の記憶。
敗戦国として、日米地位協定の下で陵辱されてきた悲しみの記憶。
戦闘機の爆音によってフラッシュバックされる光景と、日常も続く漠然とした不安。
時限爆弾のように、遙か時を経てから発症する心の叫び。
辺境の住民の意思を無視した中央政府の意向と、抑圧され内向した怒り。
まだ若い文化人類学者の静かな語りに、参会者は東北の被災地と沖縄の心象風景をだぶらせ、等しく心を揺さぶられ涙していた。

その体験は、理事会企画シンポジウム「東日本大震災と精神医療」、市民公開講座「震災と沖縄」に繋がっていく。
閉会式で、学会理事長の白澤英勝(東北会病院)は、言葉を詰まらせながら「沖縄で学んだ記憶を東北の地の活動に繋げていくこと」を約し、深々と頭を垂れた。
それは、1000人を超えた参加者らの気持ちを代弁するものでもあった。

今も、原発問題は何も解決していない。
「自分たちは被災したのではない、今なお被災し続けているのだ」というフクシマの訴えは正しい。
来年度の日本病院・地域精神医学会は、日本精神保健福祉士協会と同様、そのフクシマで開催される予定だった。
フクシマに代わって、前者は名古屋で、後者は熊本の仲間が代走を引き受けた。
誰かが成し遂げられなくても、誰かが代わりに立ち、年1回のその場を絶やさず、襷を繋いでゆこうとする。
そうやって、私たちは集い、語り合い、歴史を繋ぎ、言葉を紡いできた。

歴史から学び、記憶を風化させぬこと。
その地に人が住み、その身に悲しみの記憶を秘めている限り。
オキナワと被災地を結ぶ、国難を背負わされた土地に生きる人の気持ち。
東日本大震災と、戦後沖縄と、精神科病院。
この三者は、決して無縁ではない。
少なくとも、それぞれの場で体験された極限状況は、国策として隔離収容政策を続けてきたこの国の形と、どこか通底している。
心に大きな痛手を負った人々があれば、その気持ちを推し量る想像力をもち、明日へと繋いでいく支援は、PSWのミッションでもあるはずだ。

寒風吹きすさぶ、灰色の琉球の海を見ながら、そんなことを考えた。


(日本精神保健福祉士協会誌『精神保健福祉』89号(2012年3月)「情報ファイル」より)