和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

その二 一粒万倍穂に穂

2010年01月31日 | 農と歴史のはなし
  

 江戸期の農書に「一粒万倍穂に穂」というものがあります。現在の岡山県にあたる備中国小田郡の河合忠蔵が記したものですが、その直截的な事この上ないタイトルに込められた豊穣への思いは、今の人にも十分に伝わるものです。しかし、その具体的なイメージは当時の人々と私達では違うのではないでしょうか。穂重型稲が主流だった時代の稔りの姿のイメージは現在とは微妙に違っていたと思われ、その微妙なずれは過去の稲作ひいては過去の農業に対する認識を誤らせていくように思えます。


 前回述べたように、穂重型品種から株張型品種への転換はスムースになされましたが、「神力」が稲の品種として画期であったことは確かな事で、後世にミラクルライスとも呼ばれ、あるいは「神力以前、以後」という用法が使われる所からもそれは窺えます。
 しかし、当時の現場においてはその様な認識は薄かったように思えます。そもそも品種の概念が明確ではなく、穂重型、株張型のどちらにしてもアジアイネのオリザサティバ、ジャポニカ種のうるち米である事には変わりない、現在のように主要稲品種の上位三品種で全国の作付面積の半分近くになるなんてことも無く、地域によって田んぼによって多種多様な品種で溢れていました。
 昔は一枚の田んぼに複数の品種を植える事もあれば、早生から晩生の品種を時期をずらしながら栽培することが一般的でした。これは単品種、モノカルチャのリスクを分散するためにも、季節性のリスクを回避するためにも意味があり、さらに早晩のずらしは作業上の労働力を集中させないためにも合理的な方法でした。何より品種としての固定化、純系淘汰が十分になされていない当時としては、一つの稲の性質が年々変化する事がごく当たり前でもあり、株張型稲もそんな多くの品種の一つと言う認識程度しかなかったのかも知れません。

 何故、株張型稲が優勢になったかより、むしろ何故、近代以前に穂重型稲が優勢であったのかを考える方が非常にわかりやすい。それは、稲穂に籾粒がびっしりと付いて首を垂れる、それこそ一粒万倍の豊穣のイメージを想像してみるならば、将にそれが穂重型稲の姿そのものになるからです。
 明治時代に入ってから導入された近代育種ですが、それ以前も以降もしばらくは、民間の篤農家や有徳者によって稲の育種が先導的になされ、その方法は「抜き穂」と呼ばれる極めて単純な方法でした。
 つまり、田んぼに生えている稲の中で、変異したりあるいは混入なども有り得るが、特徴的なものを選んで抜き取り、翌年に播種するというやり方がごく一般的でした。その選抜は一本だけ飛び出たような稈の長いものや、登熟に違いが有ったり、籾粒の見るからに多いものが選ばれる事が多かったようです。要は、明らかに周りの稲と姿かたちの異なる稲が選ばれるということで、それと当時の選抜者がイメージする良稲の姿が重なったものが更に選抜されていった訳です。

 幕末、伊勢国多紀郡勢和村の岡山友清によって生み出された「伊勢錦」などは、当地で栽培されていた「大和錦」の圃場で見つけた人一倍籾粒の多い一本を抜き穂したものであり、穂重型稲が選抜される過程をはっきりと物語っています。
 その後「伊勢錦」は評判も上々であったことから、友清はお伊勢参りの参道途中に籾種の普及所を設けて、広くこの種の普及に務めます。そんな「伊勢錦」の評判を聞きつけて人を介して手に入れたのが、明治の三老農の一人、中村直三その人でした。


(やはり実力が伴わないうちに書くとダメで、何が言いたいのか分からなくなってきました。十年くらいロムってろという感じですね)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。