和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

その三 まわり道

2010年04月27日 | 農と歴史のはなし
  
その一で法隆寺の画像を使ったその流れに沿っているだけで本文とは何ら関係ありません


 江戸末期に伊勢国の岡山友清が作出した「伊勢錦」の評判を聞きつけた宇陀郡萩原村の山根兵衛は、その種籾を手に入れて、後に明治の三老農と讃えられる中村直三の元にそれを贈りました。直三は伊勢錦の試験栽培を経てこの稲の性質の良さに自信を深め、大和国内の石門心学講舎の助力を受けて種籾の頒布を始めます。
 伊勢錦は籾が一穂に350から420粒も付く典型的な穂重型品種で、その元は「大和(錦)」つまりは大和地方で栽培されていたであろうものが伊勢に渡り、岡山友清が十年以上もの歳月をかけて伊勢錦を作出し、こうしてまた大和に出戻ったものと考えられます。
 中村直三の尽力もあって伊勢錦の普及はまずまずのようでしたが、席巻すると言うまでは行かず、かえって大和錦の方が明治期に入っても栽培が続けられるという結果になります。何より神力という革新的稲とほぼ同時期で株重型稲への転換期だった事は、不運だったのかも知れません。

 船津伝次平、奈良専二と並んで明治の三老農の一人として名を馳せた中村直三は、天理の永原村に没落農家の子として生まれ、村抱えの治安維持要員として藩と村、農民の間に立って軋轢の解消に腐心しました。
父や祖父が篤志家とも言える人物で、農事改良に努めるなど没落してもその志は高く、農家でない事でかえってより広い視野で農業を見つめる事が出来たのかも知れません。
 自著の「勧農徴志」では、京女郎や河内麦と言った具体的な品種を挙げて麦作を勧めています。また、稲の品種を相撲番付の形を借りて判り易く解説するなど、品種の選定は収量を左右する大事な要因として重要視していたようです。父の善五郎が作出した稲に善五郎穂と名付けて周囲に配ったことからもそれを伺わせ、農業の安定が社会の安定につながるという信念で行動したのでしょう。
 またプラウの改良など新しい技術の導入にも熱心で、大和という地域を越えて農事改良の活動を全国に広げて行きました。
  
                       中村直三頌徳碑 (三昧田)
 
 明治という新しい時代、新政府は他産業と同じように農業にも西洋の近代農法を導入しようとお雇い外国人を招聘し、有名なアメリカ人のクラークやドイツ人のマックス・フェスカが来日します。 特にフェスカは日本列島の土質をつぶさに観察した結果、日本の農業とその土台となる気候風土が西洋のそれとは大きく違う事から、いきなり西洋近代農法を導入することを断念します。気候風土の大きな違いとは、日本が酸性土壌で夏季に多雨多湿なのに対してヨーロッパはアルカリ性土壌で、夏季は乾燥し冬季に雨が降るというものです。
 その結果この地では米作が、かの地では麦作が主要作物となったわけですが、米作りの現場は労働集約的で人海戦術のようなもので農繁期を凌いでいました。家畜による畜耕も地域差が大きく、多くの地域では家畜を使わず人力で耕作するために小肥、浅耕での栽培というのが当時の現状でした。
 それに加えて、灌漑施設が十分でない状況下では何より水の確保が最重要課題であり、水田は今のような乾田ではなく湿田あるいは半湿田が普通でした。特に関東以北は強弱あれど殆どが湿田であったといわれています。
 「乾田馬耕」という言葉があります。水田の乾田化には牛馬と犂(プラウ)を使った畜耕が欠かせませんでしたが、関が原以北は明治初年でも牛馬耕が普及しておらず、老農の一人である林遠圃が設立した勧農社による巡回普及まで待たなければなりません。フェスカも人力に依存した省力の小農からの脱却が必要と考えますが、それは農業のみならず日本の社会や文化とも密接に絡む問題だったのです。
 そこで明治政府は改めて地域に伝えられた在来の農法を見直す事から始めます。全国の篤農家を集め、近代西洋農法とは異なる知識知恵を持つ農業指導者を「老農」と呼んで全国で農談会を開きました。老農達は在来農法の知恵に長けた傾聴に値する反面、必ずしも理論的ではない場合もあり近代農法との軋轢に晒されたり、地域に特化した狭い知識もありました。お雇い外国人によって蒔かれた近代農法の種が花開く為には、こういった在来農法をいかに相克するかが必然だったようにも思えます。

 湿田はおろか半湿田すら見た事がない身としては、写真で見る腰まで泥田に浸かって田植えをする光景は、何でこんな辛い事をしてるのかが全く理解できないものでした。しかし、それはひとえに水の確保を最優先した結果に他ありません。水田の代かき用水量は湿田で80~120ミリ、乾田で100~180ミリとかなりの差があり、積極的な選択の結果ではないかも知れませんが非合理的なものでは決して無かったのです。
 最近、越冬水鳥のために冬季湛水という、冬の間も田の水を落水せずに溜めたままにする方法が見られます。「田冬水」と呼ばれたこの方法も当然その昔は野鳥の為などでは決して無く、田水を確保するためであったのは言うまでもありません。
 新田開発などで尾根間に侵食したいわゆる「谷津田」などはたいてい半湿田の状態で、現在も基盤整備が行き届かず補助輪を付けないと耕運機やトラクターがはまってしまいます。両尾根に挟まれた谷津田は尾根からの水が集まるために湿田化するのですが、灌漑が期待できない谷津田はそれでも良かったのです。
 奈良盆地を空から俯瞰してみるとまるで大きな谷津田とも見て取れます。そんな奈良盆地が湿田、半湿田から乾田化していく過程などを以降考えていければと思います。あと訂正入ります。


その二
http://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/88f93b520dcde87befd117baec82fad1
その一
http://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/932b67183268d86b7808a40e84f17c3d


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