パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

火曜聖書研究会 2020年3月3日

2020-03-03 00:03:27 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ12章1節~19節

この箇所は、ラザロとの関わりで一まとまりと考えられます。

2節 マルタは言い伝えによれば裕福な未亡人であったということです。ですから、イエスを食事に招待しても、自分で給仕する必要はなく、使用人に仕事をさせればよかったのですが、イエスに対する尊敬と奉仕の心から給仕していたと思われます。

3節 ナルドの香油は一説によると、高山に生える植物の根から採られるもので、採りに行くのも困難な上に採れる量も限られていたために、高価であったということです。女性はこれを財テクや結婚の持参金とするために大事にとっておくことが有ったということです。
 食事をする解きは、人は体の左側を下にして横たわり、右手で食物を口に運びました。ですから、足以外の部位に届くのは難しかったのです。それで、イエスの足に香油は塗られました。髪の毛で拭うことの意味はよくわかりませんが、髪は女性の誇りであり、きちんと結い上げておくことが良いとされていましたか。マリヤの行為は、その誇りをも顧みずにイエスに仕えるという意味が有ったのかもしれません。

5節 イスカリオテのユダがここで文句を言います。300デナリという具体的な金額が出てきます。ユダがそれだけ金勘定に慣れていたからだと思われます。それは300日分の賃金と同じ額です。時代によって感覚は異なりますが、東京の最低賃金から計算すると、二百万五千円ぐらいだと思われます。

6節 ユダがマリヤに文句を言ったのは、彼がイエスの一行のお金を預かっていたのに、そこから盗んでいたからだという説明が有ります。大金が入れば、自分が盗んだ分を補填できるとか、もっと盗むことができるという計算が有ったのかもしれません。金入れという語は、元々は吹奏楽器のマウスピースを入れる箱という意味だそうです。有名な最後の晩餐の絵では、ユダはお金を入れた袋を握っている姿で描かれていますが、実際は木箱のようなものであったかもしれません。

7節 イエスはユダをたしなめています。マリヤの行為が、イエスの葬りの日のためにとっておこうとした香油を用いたことだと説明しています。マリヤには復活の信仰が有ったと思われます。同時に、イエスが度々預言しておられた、ユダヤ人の指導者によって死に渡されるということも信じていたことでしょう。それで、この時が最適であると判断したようです。聖霊による導きが有ってのことだったであろうと思われます。

8節 イエスがこの世の王として弟子たちと生きるのではなく、昇天されることを意味しています。

9節 過ぎ越しの時にメシアは兵を上げるという考えが有りました。その時が近いと思った人々が、イエスを見に来たと考えられます。それに加えて、イエスによって死人からよみがえらされたラザロを見たい人たちも集まってきて、いつもよい大勢の人が詰めかけていたと思われます。イエスは他にも会堂管理者の娘とナインの寡の一人息子をよみがえらせました。しかし、ユダヤ人は死後三日目までは霊が戻ることが有ると信じていましたから、死後四日経ってからよみがえったラザロのケースは、決定的な神の奇跡と考えられました。

10節、11節 ラザロの復活の奇跡のために、多くの人がイエスはメシアだ、もしくは神のみ子だと信じるようになったので、ユダヤ人の指導者たちはラザロも殺そうかと相談します。そこに、彼らの邪悪さが見られます。いったい何の罪状で死刑にすることができるというのでしょうか。

13節 イエスがエルサレムに来られると聞いて、人々はしゅろの木の枝を取って出迎えました。しゅろの枝は勝利の印で、王の凱旋の時にも用いられました。また、ベタニヤは、ナツメヤシの家という意味が有りましたから、ナツメヤシが多く生えていたと思われます。ナツメヤシの枝はしゅろの枝と同じ形ですから、それも用いられたかもしれません。人々はここで、イエスは王だ、メシヤだという認識を示したことになります。

14節 イエスはろばの子をみつけたと記されています。その具体的な様子はマタイ21章2節に記録されています。弟子たちを遣わして引いて来させたのでした。ろばの子に乗ったのは、預言の成就のためであったと述べられています。

16節 13節と15節にはイエスについての預言の引用が有りますが、弟子たちにその理解が与えられたのは、イエスが昇天され、聖霊が臨んでからであったという説明がされています。

17節、18節 ラザロのよみがえりが、決定的な奇跡の業であったばかりでなく、多くの目撃者がいたことも、人々の注意を引く理由となったことが示されています。マリヤとマルタを慰めに人が大勢集まっていたことが記録されていますが、その人たちが皆その奇跡を目撃したものと思われます。

19節 パリサイ人たちの言葉に、ラザロの奇跡が大きな力を持っていたことがうかがえます。世をあげてと訳された表現は、ほぼ一人残らずという程の語感が有るようです。パリサイ人たちが、あらゆる手立てでイエスを罠にかけて捕えようとしたことは、福音書のあちこちに見いだされます。


ごく簡単なまとめ)
・イエスの死と復活の予告は明確であり、それを信じる信仰を持つことは幸いである。
・ラザロの復活の奇跡は、多くの証人がいたことと併せて、イエスのメシアであることの大きな証明となった。
・イエスのエルサレム入城もその有様も、旧約聖書の預言の成就であり、確実にイエスがメシアであることの証明である。
・弟子たちに旧約聖書の預言の理解がはっきり与えられたのはイエスの昇天と聖霊降臨の後であった。聖書の言葉は聖霊の働きを通して理解されるものである。
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