礼拝音声
聖書箇所:詩編33:1-22
説教題:賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい
導入)
33編は、詩編の第一巻でダビデの名を冠していない唯一の詩編です。それでも、直前の32編の内容とのつながりから、ダビデの作ではないか、と考える立場が有ります。あるいは、別の人によって、32編への応答という面から編纂されたのかもしれません。この詩編が私たちに伝えようとしていることを、構成を追いながら確認してみましょう。
本論)
1節‐3節)礼拝への招き
—我々は何者なのか—
ここでは、私たちは正しい者たち、心の直ぐな人たちと呼びかけられています。正しいというのは、非難されるところのない、罰を受けないという意味が有ります。心の直ぐなというのは、(神に)満足される、というような意味が有ります。どうして私たちは正しい者、心の直ぐな人と呼ばれるのでしょうか。それは、イエス・キリストの偉大な恵みのゆえだったことを覚えておかなければなりません。
—我々は何をするべきなのか—
主にあって喜び歌うこと、ほめたたえることが求められています。3節には新しい歌をと書かれています。万人が毎日のように作曲することができるわけではありません。日々新しく直面する各場面に相応しい賛美の言葉でと理解するのが良いと思われます。巧みに弦をかきならせとありますが、万人が楽器を所有し、演奏できるわけではありません。巧みにと訳された語には、喜んで、喜ばしく、心地よくというような意味が有り、喜びにより比重が有るように思われます。喜んで礼拝しようという招きになっています。この三つの節は、類似表現の繰り返しによって、神を賛美することを強調しています。私たちに賛美するように励まし、また、迫っているのです。
さて、私たちには、神をほめたたえ、感謝をささげる理由が有ります。詩編の記者は、その理由を大きく二つの神のなされることに関連付けて述べています。一つは、「主のことば」であり、もう一つは「主の眼差し」です。
主のことば
—正しく、真実である— (4節‐5節)
主のことば、戒め、は正しく、その内容は非難するべき点が有りません。また、主の約束、契約の言葉を、主は忠実に、真実に遂行されます。ですから、私たちは喜びをもって主に感謝するべきなのです。神が正義と抗議を愛されるので、主にあって正しい者たちの賛美と感謝は彼らに相応しく、似つかわしいのです。
—創造における力— (6節‐7節)
主はみことばによって全世界を創造されました。(創世記1:3等参照)用いられている言葉は、現在も神がそのみことばの力をもって海や陸に関わっていらっしゃることを示唆しています。また、私たち自身も被造物であり、自分の存在を神にあって楽しむことができる恵みの中にいます。ですから、主に感謝をするのです。
—神の主権— (8節‐12節)
神を礼拝するのは、神がが創造主であるからだけではなく、最高主権を持つ全能の主だからでもあります。主の仰せられることは必ずなることが9節に示されています。神の言葉、神の御意志は、人間の意志に優先します。その神の支配、神の国に属する者たちは祝福されています。神は私たちをご自分の民として選ばれました。だから、感謝し、ほめたたえるのです。
主の眼差し
—全ての人々に— (13節‐17節)
神は創造主であり全知の主ですから、全ての人々を見そなわし、その全てをご存知です。誰も神の眼差しを避けて隠れることはできません。主の全知は同時に主の全能にもつながります。ですから、記者は、16節、17節で、軍事、軍馬への言及をしているのです。真実の力と救いは、主からのみ来るのです。(2歴代誌14:11、アサ王の祈り参照)
—主を恐れる者たちに—
神に選ばれた民は、神の特別な注目を受けるのです。神を恐れ、神の恵みと憐みに希望を置く人たちに、神のお取り扱いが有るのです。それは二重の恵みになっています。たましいを死から救い出すと書いて有ります。文学的には命が守られるという意味合いでしょうが、たましいは永遠の存在ですから、永遠の命を得るという意味にもとることができます。また、この地上では、飢饉の時にも命を落とさないと述べています。
20節‐21節 主を恐れる正しい者たちの態度
主を待ち望むという表現は、待ち焦がれるという意味も有ります。私たちの神の力と恵み、永遠の命の救いの望みに基づいて、日々の生活の中でも主を待ち望むのです。私たちは、主の聖なる御名に信頼します。御名は単数形です。それは、神が唯一の御存在だからです。一方で、神の御名と理解できる表現は、旧約聖書に16種類出て来ると考えられています。神の御性質の全てを含めて御名という一言で表現しているのです。
ここで、私たちが神に感謝し、ほめたたえる理由をまとめてみます。
1)私たちが神の前に避難するべきところの無い者とされたから。
2)神は契約に忠実な方だから。
3)神は全てをつかさどる全能の創造者だから。
4)神は私たちを神の民として選ばれたから。
5)神は私たちを救い出し、永らえさせる方だから。
6)神は私たちに特別に注意を払われるから。
7)神は永遠の命をくださるから。
22節 私たちの祈り
神は私たちの必要をご存知です。それでも私たちは祈らなければなりません。私たちは継続的に神を待ち焦がれるべき存在です。22節の祈りは、短い祈りですが、大事な祈りです。主の祈りのように、私たちが覚えておいて良い祈りと言えるでしょう。
まとめ)
賛美は正しい者たちに相応しいのです。私たちには賛美するべき理由が有ります。
1)私たちは義なる神の前に、正しい者であるからです
私たちは、イエス・キリストの恵みにより、神の目に非難するべきところのない、罰を受ける必要のない存在です。この大いなる恵みのゆえに感謝をささげるべきなのです。
2)神は最高主権者であり全能であるからです
神は何でもお考えのことを実行することのできる権威をお持ちの方です。そのような偉大な神を賛美し、ほめたたえないではいられないのではないでしょうか。
3)神はお選びになった民を特別に注目されるからです
神は私たちを守ってくださいます。私たちを養ってくださいます。そして、この魂に永遠に命をくださるのです。
聖書箇所:詩編33:1-22
説教題:賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい
導入)
33編は、詩編の第一巻でダビデの名を冠していない唯一の詩編です。それでも、直前の32編の内容とのつながりから、ダビデの作ではないか、と考える立場が有ります。あるいは、別の人によって、32編への応答という面から編纂されたのかもしれません。この詩編が私たちに伝えようとしていることを、構成を追いながら確認してみましょう。
本論)
1節‐3節)礼拝への招き
—我々は何者なのか—
ここでは、私たちは正しい者たち、心の直ぐな人たちと呼びかけられています。正しいというのは、非難されるところのない、罰を受けないという意味が有ります。心の直ぐなというのは、(神に)満足される、というような意味が有ります。どうして私たちは正しい者、心の直ぐな人と呼ばれるのでしょうか。それは、イエス・キリストの偉大な恵みのゆえだったことを覚えておかなければなりません。
—我々は何をするべきなのか—
主にあって喜び歌うこと、ほめたたえることが求められています。3節には新しい歌をと書かれています。万人が毎日のように作曲することができるわけではありません。日々新しく直面する各場面に相応しい賛美の言葉でと理解するのが良いと思われます。巧みに弦をかきならせとありますが、万人が楽器を所有し、演奏できるわけではありません。巧みにと訳された語には、喜んで、喜ばしく、心地よくというような意味が有り、喜びにより比重が有るように思われます。喜んで礼拝しようという招きになっています。この三つの節は、類似表現の繰り返しによって、神を賛美することを強調しています。私たちに賛美するように励まし、また、迫っているのです。
さて、私たちには、神をほめたたえ、感謝をささげる理由が有ります。詩編の記者は、その理由を大きく二つの神のなされることに関連付けて述べています。一つは、「主のことば」であり、もう一つは「主の眼差し」です。
主のことば
—正しく、真実である— (4節‐5節)
主のことば、戒め、は正しく、その内容は非難するべき点が有りません。また、主の約束、契約の言葉を、主は忠実に、真実に遂行されます。ですから、私たちは喜びをもって主に感謝するべきなのです。神が正義と抗議を愛されるので、主にあって正しい者たちの賛美と感謝は彼らに相応しく、似つかわしいのです。
—創造における力— (6節‐7節)
主はみことばによって全世界を創造されました。(創世記1:3等参照)用いられている言葉は、現在も神がそのみことばの力をもって海や陸に関わっていらっしゃることを示唆しています。また、私たち自身も被造物であり、自分の存在を神にあって楽しむことができる恵みの中にいます。ですから、主に感謝をするのです。
—神の主権— (8節‐12節)
神を礼拝するのは、神がが創造主であるからだけではなく、最高主権を持つ全能の主だからでもあります。主の仰せられることは必ずなることが9節に示されています。神の言葉、神の御意志は、人間の意志に優先します。その神の支配、神の国に属する者たちは祝福されています。神は私たちをご自分の民として選ばれました。だから、感謝し、ほめたたえるのです。
主の眼差し
—全ての人々に— (13節‐17節)
神は創造主であり全知の主ですから、全ての人々を見そなわし、その全てをご存知です。誰も神の眼差しを避けて隠れることはできません。主の全知は同時に主の全能にもつながります。ですから、記者は、16節、17節で、軍事、軍馬への言及をしているのです。真実の力と救いは、主からのみ来るのです。(2歴代誌14:11、アサ王の祈り参照)
—主を恐れる者たちに—
神に選ばれた民は、神の特別な注目を受けるのです。神を恐れ、神の恵みと憐みに希望を置く人たちに、神のお取り扱いが有るのです。それは二重の恵みになっています。たましいを死から救い出すと書いて有ります。文学的には命が守られるという意味合いでしょうが、たましいは永遠の存在ですから、永遠の命を得るという意味にもとることができます。また、この地上では、飢饉の時にも命を落とさないと述べています。
20節‐21節 主を恐れる正しい者たちの態度
主を待ち望むという表現は、待ち焦がれるという意味も有ります。私たちの神の力と恵み、永遠の命の救いの望みに基づいて、日々の生活の中でも主を待ち望むのです。私たちは、主の聖なる御名に信頼します。御名は単数形です。それは、神が唯一の御存在だからです。一方で、神の御名と理解できる表現は、旧約聖書に16種類出て来ると考えられています。神の御性質の全てを含めて御名という一言で表現しているのです。
ここで、私たちが神に感謝し、ほめたたえる理由をまとめてみます。
1)私たちが神の前に避難するべきところの無い者とされたから。
2)神は契約に忠実な方だから。
3)神は全てをつかさどる全能の創造者だから。
4)神は私たちを神の民として選ばれたから。
5)神は私たちを救い出し、永らえさせる方だから。
6)神は私たちに特別に注意を払われるから。
7)神は永遠の命をくださるから。
22節 私たちの祈り
神は私たちの必要をご存知です。それでも私たちは祈らなければなりません。私たちは継続的に神を待ち焦がれるべき存在です。22節の祈りは、短い祈りですが、大事な祈りです。主の祈りのように、私たちが覚えておいて良い祈りと言えるでしょう。
まとめ)
賛美は正しい者たちに相応しいのです。私たちには賛美するべき理由が有ります。
1)私たちは義なる神の前に、正しい者であるからです
私たちは、イエス・キリストの恵みにより、神の目に非難するべきところのない、罰を受ける必要のない存在です。この大いなる恵みのゆえに感謝をささげるべきなのです。
2)神は最高主権者であり全能であるからです
神は何でもお考えのことを実行することのできる権威をお持ちの方です。そのような偉大な神を賛美し、ほめたたえないではいられないのではないでしょうか。
3)神はお選びになった民を特別に注目されるからです
神は私たちを守ってくださいます。私たちを養ってくださいます。そして、この魂に永遠に命をくださるのです。