聖書箇所:エペソ4章1節~6節
説教題:召しに相応しい歩み
導入)
エペソの教会にはユダヤ人と異邦人のクリスチャンが一緒にいたと思われます。しかし、この書
簡はより異邦人に目を向けているように思われます。異邦人クリスチャンはユダヤ人クリスチャン
に劣等感をもっていたかもしれません。それで、パウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチ
ャンが同等の共同の相続者であるということを3章6節で述べています。
この書簡は二部構成と考えることもできます。前半の主題は、神は私たちを聖徒としてくださっ
たということです。後半の主題は、聖い生活をするべきであるということです。その後半部分が4
章の奨励から始まるのです。
パウロはその奨励の内容の緊急性を二通りの方法で表現しています。まず、「勧めます」と訳さ
れた語は、力説し、しきりに主張する意味合いがあります。そして、自分のことを「主の囚人」と
表現しています。パウロこそがエペソのクリスチャンに福音を伝え、キリストに導き、ユダヤ人も
異邦人も天の栄光の共同の相続人だということを教えた本人でした。しかも、その故に囚人となっ
ているのです。その私が勧めるのだから、よく聞いてください、是非、召しに相応しく生きてくだ
さいということです。
今回の聖書箇所は、原文では一文で書かれています。彼はどのようにして召しに相応しく生きる
べきかということを、一つの前置詞句と二つの分詞句で説明しています。その三つを順を追って確
認してみましょう。
本論)
1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
限りを尽くしてという言葉は謙遜に含意されているものの訳です。ギリシャ人にとっては、謙
遜 は奴隷の属性であったということです。彼らは自尊心によって行動し、謙遜を実践すること
はなか ったようです。しかし、キリストは私たちに謙遜を教えました。ですから、キリスト者
は謙遜の限 りを尽くさなければならないのです。柔和という語には、優しさや親切さが含意さ
れます。寛容と訳された語は、間違いに対する罰や報いを遅くするという語感が有ります。私た
ちは神に憐れみと寛容を求める祈りをしますが、私たちが他人に対して同様な寛容を示すことが
少ないのではないでしょうか。
ここに示された三つの性質は、キリストが地上を歩まれた時に実践し、お示しになったもので
すこの模範に私たちも倣わなければなりません。また、私たちには、天において神の裁きと報い
という希望という、寛容を実践する理由が有るのです。
2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
忍ぶという語は、忍耐や寛大さ、我慢すること、諦めないことを含意しています。パウロは愛
をもってという語を付け加えています。兄弟愛や善意を表す語です。この愛や善意という語を考
える時、気をつけなければいけないことが有ります。愛は感情ではなく、他者に対する態度・決
意だということです。神は私たちが同信のクリスチャンに対して良くし続けようという決意を求
めているのです。キリストも十字架にかかる前に、できることならばこの杯を取り除いてくださ
いと祈っています。決意をもって臨んだのであり、十字架の死が感情的な愛によったものではな
いことがわかります。ですから、私たちも諦めないで、決意をもって互いに忍び合うのです。
3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
熱心にと訳された語は、急いで行動する、勤勉に働く、最善を尽くす、という意味合いが有り
ます。熱心になる、最善を尽くすことの目的は、御霊の一致を保つことです。この一致は御霊に
よって作り出されるからです。それによってユダヤ人と異邦人が一つになるのです。この一致は、
人が作り出すものではありません。私たちの責任は、それを保つことの方に有るのです。保つと
訳され た語には、世話をする、守るという意味が有ります。平和のきずなでと書いてあります
から、平和につながる取り組みでなければいけません。
このような取り組みをする時、私たちは真実にキリストの御心を求めていることになります。
それは、ヨハネ17章20節~26節のキリストご自身の祈りの中にその一致が御心であることが示さ
れているからです。
4節~6節は、上記の一致の土台、根拠となることを説明しています。御霊の一致という表現を
受けて、4節はからだは一つ、御霊は一つということを述べています。望みが一つというのは、救
いの望みを指しています。この救いにあって、ユダヤ人も異邦人もキリストと共に、天の栄光の共
同の相続者になることを含んでいます。
5節は、キリストが唯一の救い主であること、使徒が伝えた同じ一つの信仰、また、私たちのバ
プテスマは同じ、父、子、御霊によるバプテスマであることを述べています。使徒の時代以降ずっ
とそれは変わりません。バプテスマが一つであることは、1コリント12章13節にも示されています。
6節に出てくることはすべての物事が唯一の神に源が有ることを示しています。この部分では繰
り返し「すべて」という表現用いられています。それぞれが、神の偉大さ、超越性、神の普遍性、
また、神がすべての被造物に関わることを表しています。神が私たちの生活のすべての領域に働い
ておられることをしめしています。
この偉大な神がわたしたちをキリストの体につらなる救いの希望に招き入れてくださったのです。
その招きが私たちの召しです。ですから、私たちは召しに相応しく生きることが必要なのです。
まとめ)
簡単に復習してみます。私たちは神の召しに相応しく生きなければなりません。
1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
私たちはキリストの教えと模範に従わなければなりません。
2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
私たちは同信のクリスチャンに対して常に良くする決意をもっていなければなりません。
3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
私たちはキリストの体なる教会の平和と一致を保つために気を配らなければなりません。
説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
SOUNDCLOUDプレーヤーは3週間程度で削除されます。
説教題:召しに相応しい歩み
導入)
エペソの教会にはユダヤ人と異邦人のクリスチャンが一緒にいたと思われます。しかし、この書
簡はより異邦人に目を向けているように思われます。異邦人クリスチャンはユダヤ人クリスチャン
に劣等感をもっていたかもしれません。それで、パウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチ
ャンが同等の共同の相続者であるということを3章6節で述べています。
この書簡は二部構成と考えることもできます。前半の主題は、神は私たちを聖徒としてくださっ
たということです。後半の主題は、聖い生活をするべきであるということです。その後半部分が4
章の奨励から始まるのです。
パウロはその奨励の内容の緊急性を二通りの方法で表現しています。まず、「勧めます」と訳さ
れた語は、力説し、しきりに主張する意味合いがあります。そして、自分のことを「主の囚人」と
表現しています。パウロこそがエペソのクリスチャンに福音を伝え、キリストに導き、ユダヤ人も
異邦人も天の栄光の共同の相続人だということを教えた本人でした。しかも、その故に囚人となっ
ているのです。その私が勧めるのだから、よく聞いてください、是非、召しに相応しく生きてくだ
さいということです。
今回の聖書箇所は、原文では一文で書かれています。彼はどのようにして召しに相応しく生きる
べきかということを、一つの前置詞句と二つの分詞句で説明しています。その三つを順を追って確
認してみましょう。
本論)
1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
限りを尽くしてという言葉は謙遜に含意されているものの訳です。ギリシャ人にとっては、謙
遜 は奴隷の属性であったということです。彼らは自尊心によって行動し、謙遜を実践すること
はなか ったようです。しかし、キリストは私たちに謙遜を教えました。ですから、キリスト者
は謙遜の限 りを尽くさなければならないのです。柔和という語には、優しさや親切さが含意さ
れます。寛容と訳された語は、間違いに対する罰や報いを遅くするという語感が有ります。私た
ちは神に憐れみと寛容を求める祈りをしますが、私たちが他人に対して同様な寛容を示すことが
少ないのではないでしょうか。
ここに示された三つの性質は、キリストが地上を歩まれた時に実践し、お示しになったもので
すこの模範に私たちも倣わなければなりません。また、私たちには、天において神の裁きと報い
という希望という、寛容を実践する理由が有るのです。
2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
忍ぶという語は、忍耐や寛大さ、我慢すること、諦めないことを含意しています。パウロは愛
をもってという語を付け加えています。兄弟愛や善意を表す語です。この愛や善意という語を考
える時、気をつけなければいけないことが有ります。愛は感情ではなく、他者に対する態度・決
意だということです。神は私たちが同信のクリスチャンに対して良くし続けようという決意を求
めているのです。キリストも十字架にかかる前に、できることならばこの杯を取り除いてくださ
いと祈っています。決意をもって臨んだのであり、十字架の死が感情的な愛によったものではな
いことがわかります。ですから、私たちも諦めないで、決意をもって互いに忍び合うのです。
3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
熱心にと訳された語は、急いで行動する、勤勉に働く、最善を尽くす、という意味合いが有り
ます。熱心になる、最善を尽くすことの目的は、御霊の一致を保つことです。この一致は御霊に
よって作り出されるからです。それによってユダヤ人と異邦人が一つになるのです。この一致は、
人が作り出すものではありません。私たちの責任は、それを保つことの方に有るのです。保つと
訳され た語には、世話をする、守るという意味が有ります。平和のきずなでと書いてあります
から、平和につながる取り組みでなければいけません。
このような取り組みをする時、私たちは真実にキリストの御心を求めていることになります。
それは、ヨハネ17章20節~26節のキリストご自身の祈りの中にその一致が御心であることが示さ
れているからです。
4節~6節は、上記の一致の土台、根拠となることを説明しています。御霊の一致という表現を
受けて、4節はからだは一つ、御霊は一つということを述べています。望みが一つというのは、救
いの望みを指しています。この救いにあって、ユダヤ人も異邦人もキリストと共に、天の栄光の共
同の相続者になることを含んでいます。
5節は、キリストが唯一の救い主であること、使徒が伝えた同じ一つの信仰、また、私たちのバ
プテスマは同じ、父、子、御霊によるバプテスマであることを述べています。使徒の時代以降ずっ
とそれは変わりません。バプテスマが一つであることは、1コリント12章13節にも示されています。
6節に出てくることはすべての物事が唯一の神に源が有ることを示しています。この部分では繰
り返し「すべて」という表現用いられています。それぞれが、神の偉大さ、超越性、神の普遍性、
また、神がすべての被造物に関わることを表しています。神が私たちの生活のすべての領域に働い
ておられることをしめしています。
この偉大な神がわたしたちをキリストの体につらなる救いの希望に招き入れてくださったのです。
その招きが私たちの召しです。ですから、私たちは召しに相応しく生きることが必要なのです。
まとめ)
簡単に復習してみます。私たちは神の召しに相応しく生きなければなりません。
1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
私たちはキリストの教えと模範に従わなければなりません。
2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
私たちは同信のクリスチャンに対して常に良くする決意をもっていなければなりません。
3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
私たちはキリストの体なる教会の平和と一致を保つために気を配らなければなりません。
説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
SOUNDCLOUDプレーヤーは3週間程度で削除されます。