パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年10月27日

2019-10-27 20:55:42 | 日曜礼拝
聖書箇所:エペソ4章1節~6節
説教題:召しに相応しい歩み


導入)
 エペソの教会にはユダヤ人と異邦人のクリスチャンが一緒にいたと思われます。しかし、この書
簡はより異邦人に目を向けているように思われます。異邦人クリスチャンはユダヤ人クリスチャン
に劣等感をもっていたかもしれません。それで、パウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチ
ャンが同等の共同の相続者であるということを3章6節で述べています。
 この書簡は二部構成と考えることもできます。前半の主題は、神は私たちを聖徒としてくださっ
たということです。後半の主題は、聖い生活をするべきであるということです。その後半部分が4
章の奨励から始まるのです。
 パウロはその奨励の内容の緊急性を二通りの方法で表現しています。まず、「勧めます」と訳さ
れた語は、力説し、しきりに主張する意味合いがあります。そして、自分のことを「主の囚人」と
表現しています。パウロこそがエペソのクリスチャンに福音を伝え、キリストに導き、ユダヤ人も
異邦人も天の栄光の共同の相続人だということを教えた本人でした。しかも、その故に囚人となっ
ているのです。その私が勧めるのだから、よく聞いてください、是非、召しに相応しく生きてくだ
さいということです。
 今回の聖書箇所は、原文では一文で書かれています。彼はどのようにして召しに相応しく生きる
べきかということを、一つの前置詞句と二つの分詞句で説明しています。その三つを順を追って確
認してみましょう。

本論)
1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
  限りを尽くしてという言葉は謙遜に含意されているものの訳です。ギリシャ人にとっては、謙
 遜 は奴隷の属性であったということです。彼らは自尊心によって行動し、謙遜を実践すること
 はなか ったようです。しかし、キリストは私たちに謙遜を教えました。ですから、キリスト者
 は謙遜の限 りを尽くさなければならないのです。柔和という語には、優しさや親切さが含意さ
 れます。寛容と訳された語は、間違いに対する罰や報いを遅くするという語感が有ります。私た
 ちは神に憐れみと寛容を求める祈りをしますが、私たちが他人に対して同様な寛容を示すことが
 少ないのではないでしょうか。
  ここに示された三つの性質は、キリストが地上を歩まれた時に実践し、お示しになったもので
 すこの模範に私たちも倣わなければなりません。また、私たちには、天において神の裁きと報い
 という希望という、寛容を実践する理由が有るのです。

2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
  忍ぶという語は、忍耐や寛大さ、我慢すること、諦めないことを含意しています。パウロは愛
 をもってという語を付け加えています。兄弟愛や善意を表す語です。この愛や善意という語を考
 える時、気をつけなければいけないことが有ります。愛は感情ではなく、他者に対する態度・決
 意だということです。神は私たちが同信のクリスチャンに対して良くし続けようという決意を求
 めているのです。キリストも十字架にかかる前に、できることならばこの杯を取り除いてくださ
 いと祈っています。決意をもって臨んだのであり、十字架の死が感情的な愛によったものではな
 いことがわかります。ですから、私たちも諦めないで、決意をもって互いに忍び合うのです。

3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
  熱心にと訳された語は、急いで行動する、勤勉に働く、最善を尽くす、という意味合いが有り
 ます。熱心になる、最善を尽くすことの目的は、御霊の一致を保つことです。この一致は御霊に
 よって作り出されるからです。それによってユダヤ人と異邦人が一つになるのです。この一致は、
 人が作り出すものではありません。私たちの責任は、それを保つことの方に有るのです。保つと
 訳され た語には、世話をする、守るという意味が有ります。平和のきずなでと書いてあります
 から、平和につながる取り組みでなければいけません。
  このような取り組みをする時、私たちは真実にキリストの御心を求めていることになります。
 それは、ヨハネ17章20節~26節のキリストご自身の祈りの中にその一致が御心であることが示さ
 れているからです。

 4節~6節は、上記の一致の土台、根拠となることを説明しています。御霊の一致という表現を
受けて、4節はからだは一つ、御霊は一つということを述べています。望みが一つというのは、救
いの望みを指しています。この救いにあって、ユダヤ人も異邦人もキリストと共に、天の栄光の共
同の相続者になることを含んでいます。
 5節は、キリストが唯一の救い主であること、使徒が伝えた同じ一つの信仰、また、私たちのバ
プテスマは同じ、父、子、御霊によるバプテスマであることを述べています。使徒の時代以降ずっ
とそれは変わりません。バプテスマが一つであることは、1コリント12章13節にも示されています。
 6節に出てくることはすべての物事が唯一の神に源が有ることを示しています。この部分では繰
り返し「すべて」という表現用いられています。それぞれが、神の偉大さ、超越性、神の普遍性、
また、神がすべての被造物に関わることを表しています。神が私たちの生活のすべての領域に働い
ておられることをしめしています。
 この偉大な神がわたしたちをキリストの体につらなる救いの希望に招き入れてくださったのです。
その招きが私たちの召しです。ですから、私たちは召しに相応しく生きることが必要なのです。

まとめ)
 簡単に復習してみます。私たちは神の召しに相応しく生きなければなりません。

1)謙遜と柔和と寛容をもって召しに相応しく生きる
 私たちはキリストの教えと模範に従わなければなりません。

2)愛をもって互いに忍び合うことによって召しに相応しく生きる
 私たちは同信のクリスチャンに対して常に良くする決意をもっていなければなりません。

3)一致を熱心に保つことによって召しに相応しく生きる
 私たちはキリストの体なる教会の平和と一致を保つために気を配らなければなりません。

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日曜礼拝 2019年10月20日

2019-10-20 22:50:04 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ7章36節~50節
説教題:キリストの足を洗った女のように

導入)
 この箇所の結論は48節~50節に示されていると考えられます。それは、イエスは罪を赦す権威を持
っている神であり救い主であるということです。ルカは5章でもイエスは罪を赦す権威を持つ神であ
り救い主であることを記していますから、繰り返し読者にそのことを伝えようとしていることになり
ます。 
 今回は視点を変えて、二人の登場人物の確認をし、キリストの足を洗った女について考えてみたい
と思います。

本論)
 本文中でシモンと呼ばれているパリサイ人がキリストを食事に招待しました。当時は、ラビや教師
を食事に招くのは普通のことでした。礼拝の後であれば尚更でした。招くと訳された語はお願いをす
る、請うという意味が有ります。
 しかし、そのようなお願いをしたはずのシモンのもてなしは良いものではありませんでした。シモ
ンの本心はもてなすことにはなく、キリストのあら捜しをするためであったのかもしれません。客を
迎える時は、足を水で洗うもので、できれば温水を用いるのでした。また、歓迎の口づけをするのが
習慣でした。相手がラビであれば、足に口づけするということもありました。また、髪を整えるため
に、オリーブ油を頭に注ぐのももてなしのひとつでした。しかし、キリストの言葉から、シモンがそ
の一つもしなかったことがわかります。
 39節を見ると、シモンがキリストを偽預言者と決めつけたことがわかります。罪深い女とされるこ
の女性のするがままになっているキリストを見て、キリストはこの女性の素性がわからないのだと考
えています。本当に神に遣わされた預言者であるならば、会ったことがなくても変装をしていても、
その人物の人となりがわかるという考えがありました。この女をたしなめたり叱ったりしないキリス
トを偽預言者とかんがえたのです。

 この女性のことの詳細はわかりません。どのように罪深いと思われたのかも書いてありません。そ
の表現は娼婦を意味するのだという理解も有ります。29節にはヨハネのバプテスマを受けた人々への
言及が有りますから、彼女も悔い改めてヨハネからバプテスマを受けたのかもしれません。また、キ
リストの説教を聞いて、キリストを神の小羊、メシアだと信じたと思われます。
 キリストがシモンの家で食事をしていることが彼女の耳に入りました。感謝の気持ちを表したいと
思ったのでしょうか、高価な香油の入った石膏のツボを持ってパリサイ人シモンの家に行きました。
 当時は、人が客を招いた場合、招待されていない人たちも来て、その客やラビの話を聞くことは許
されていました。それで、彼女も制止されずに部屋に入ることができのだと思われます。
 38節を見ると、彼女が泣いたことがわかります。どうして泣いたのかは書いてありません。泣きな
がらと訳された語は、嘆き悲しみ、悶えてという語感が有ります。ここから一つの推測ができます。
キリストが食事をしている部屋に彼女が入ると最初に見えるのは人々の足でした。食事をする人たち
は左側を下にして横たわり、右手で食事をしたからです。その足は汚れたままだったのです。キリス
トが歓迎されていないことが一目でわかり、とても悲しくなったのではないかと思われます。
 他人のいえは彼女には水の用意を命じる資格も有りません。少しでも感謝と尊敬の念を表したくて
涙でキリストの足を濡らしたのではないかと思われます。普通に考えれば、気持ち悪いことであると
思いますが、その異常な行動をキリストは理解していました。彼女には手ぬぐいは有りませんでした。
衣の裾で拭くことは文化的に憚られたのかもしれません。髪の毛でキリストの足を拭きました。女性
は髪の毛の状態が良いことを誇りとしており、きっちり結い上げておくものでした。彼女が示したの
は、そういう誇りを捨てた献身でした。
 そして、キリストの足に口づけしました。用いられている時制から、繰り返し口づけしたことがわ
かります。ラビの足に繰り返し口づけして敬意を表すのは普通のことでした。メシア預言とされる詩
編2編には、「御子に口づけせよ」と書いてあります。彼女はキリストをそのメシアと認めていたの
かもしれません。
 キリストは横たわっていますから、頭には手が届きません。それで、持参した香油を足に塗ったの
でしょう。彼女にとってキリストは、高価な香油を足に塗ることさえためらう必要のない大事な主で
ありました。

 パリサイ人シモンの心の内を知っておられるキリストは、彼に対して例話を語ります。二人の負債
者がいました。デナリは日給にあたるということです。ですから、大雑把に言うと、一人は9万ドル
もう一人は9千ドルぐらいという感覚かもしれません。私たちの生活感覚で幾らかは別にして、問題
は彼らには返済能力が無かったということでした。それで、貸主は返済を免除してくれました。この
場合どちらがより貸主を愛するかとキリストは聞きました。シモンの回答を受けて、キリストはこの
例話を目の前にいるシモンと女性にあてはめました。女性は多くの罪を赦されたので、もっと多く愛
を表したと理解できる話になっています。一方シモンはキリストを必要としてはいませんでした。キ
リストに愛を示さず、習慣に反する無礼な扱いをしました。自分が罪の赦しを求めるべき存在である
という自覚も有りませんでした。

まとめ)
 キリストの足を洗った女のように、彼女に倣って私たちが持つべき心構えを次のようにまとめてみ
ました。
1)キリストは罪を赦す権威を持つ神であり救い主であると信じる
2)キリストにに赦しを請うべき存在であるという自覚を持つ
3)キリストを礼拝し仕える姿勢を持つ
今回は、この三つ目を更に細かく確認してみたいと思います。
1)キリストの足を洗うクリスチャンと
  キリストは今は天にいらっしゃいますが、この地上の教会は「主のみ体」です。教会の霊的汚れ
 を洗い、執り成しをすることが求められています。コロサイ3章16節では、知恵を尽くして互いに
 教え戒めることが求められています。1ペテロ4章8節では、愛により罪を覆い合うことが求めら
 れています。それは罪を隠すことではなく、戒めまた回復させることです。この女が髪を解いて用
 いたように、謙遜にその働きに携わるのです。
2)キリストの足に口づけをするクリスチャン
  キリストにに敬意を表し、救い主と認め、繰り返し感謝と信仰の告白をするのです。毎日機会の
 有る毎に信仰告白の祈りを捧げ、また証をすることです。
3)キリストの足に香油を塗るクリスチャン
  キリストは私たちにとって価値のあるものを捧げるに値する方です。時間をささげ、賜物や才能
 をささげ、財力と労力を捧げてお仕えするのです。時は金なりと言います。日曜礼拝のために時間
 を取り分けることも、イエスの足に香油を塗るようなことではないでしょうか。自分の功績を誇る
 のではなく、キリストに栄光をささげましょう。キリストは私たちを高価で尊いと言ってくださり、
 その命を惜しまずに十字架にかかってくださった主なのですから。  
  香油は女性にとっては結婚資金であったりしました。教会はキリストの花嫁です。花婿なるキリ
 ストに惜しまずにその香油を捧げる姿勢を持つべきです。



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日曜礼拝 2019年10月13日

2019-10-13 21:56:08 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ4章14節~30節
説教題:故郷に拒絶されたキリスト

導入)
 イエスはガリラヤに帰って福音を伝て人々を癒しましたが、故郷のナザレには直ぐに戻られませんでした。カナやカペナウムなど、他の町々村々を回り、その噂が故郷のナザレに伝わってからナザレに行かれました。24節でイエスは、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」と言っています。そして、この後イエスは実際に故郷の人々に拒絶されることになりました。今回は、拒絶に目を留めて考えて行きたいと思います。

本論)
 イエスがいつものようにユダヤ人の会堂に入ると、係の者がイザヤ書を手渡しました。会堂管理者は朗読をしたり説教をする人を選ぶ係でしたから、イエスを教師として認めたことになります。イエスの宣教の噂が伝わっていたからです。20節では、イエスが朗読を終えると座ったと書いてありますが、それは、当時は教師が座って教え、人々は立って聴くのが習慣だったからです。人々の目がイエスに注がれたというのは、どのような話をするのかという好奇心が有ったということです。
 21節で、イエスは朗読された聖書の言葉が成就したと言いました。朗読されたイザヤ書の言葉は、メシア預言の箇所ですから、言い換えれば、「私がそのメシアですよ。」と言ったことになります。イエスが宣教を通してして来られたことがこのイザヤ書と重なるのです。
 1)イエスは洗礼を受けて聖霊に満たされました。2)神の国の良い知らせを霊的に貧しい人々に伝えました。3)罪からの解放を宣言されました。4)身体的にも霊的にも盲目の人々の目を開きました。5)主の恵みの年というのは、50年に一度すべての負債が免除されることを指していますが、罪の咎、負債からの完全な解放をさす預言と考えられます。これらがイエスの使命であり、業務のリストとも言える内容でした。
 22節では、内容には全く触れられていませんが、人々はイエスの口から出る言葉をほめたと記されています。しかし、それは「彼はヨセフの子ではないか。」というつぶやきに変わりました。それは、どこでイエスは学んだのか、本当にメシアなのかという疑問でもあったと思われます。彼らの気持ちを代弁するように、イエスは「医者よ。自分を直せ。」という諺を引用します。人は自称する内容の人物であることを証明しなければならないという意味です。また、預言者は郷里では歓迎されないというのは、自分が本当に神から遣わされた者であるということの表明でもありました。
 イエスはここから、神の遣わされた者、メシアを受け入れないとどうなるかということを、旧約聖書の預言者の例を挙げて説明されました。預言者エリヤの時代に、偶像礼拝をして創造主なる神に従わなかったイスラエル人に対して、神様は三年半雨を降らせないという罰を与えました。しかし、人々は悔い改めませんでした。エリヤも拒絶されたことになります。そして、彼は異邦人であるシドン人のやもめの所に遣わされることになりました。また、預言者エリシャの時代に、イスラエル人の間にもツァラトにおかされた人はたくさんいたはずですが、エリシャの元に来た異邦人であるシリヤ人ナアマンだけが癒されました。この二つの例からわかることは、イエスがイスラエル人に拒絶されると、その恵みは異邦人に向かうということと、異邦人も信仰によって神の恵みをいただくことができるということです。
 ここまで聞くと、会堂にいた人たちはひどく怒ってしまいました。その怒りの理由は先ず、自分達が神に不忠実だった時代の人々と比べられたこと、次に神の恵みが自分達が見下している異邦人に行くと言われたことでした。その怒りの元になっていたのは、彼らのプライドでした。プライド、自尊心は神への純粋な信仰の大きな妨げになるのです。
 プライドが何に彼らを駆り立てたかを見てみましょう。彼らは礼拝が終わらないうちにイエスを殺そうとして立ち上がりました。彼らは神に対して忠実だと思っていましたが、実際の行動は違っていました。ナザレは丘の上に立っていましたので、はずれには崖が有ったりしました。そこからイエスを投げ落とそうとしたのです。
 この行動は、三つの点で律法に適っていませんでした。一つ目は、法廷での審理を省いてしまったことです。二つ目は、死は儀式的な穢れと考えられましたので安息日に死刑を執行することは禁じられていたのに、イエスを殺そうとしたことです。三つ目は、律法に規定されている死刑は石打ちか木にかけることでしたが、崖から投げ落とそうとしたことです。それがプライドに突き動かされた姿です。彼らはこのようにして、神に与えられた律法に従わない神に不忠実な存在であることを自ら証明してしまったのです。
イエスは普通に考えれば逃げられない状況でしたが、神の奇跡の力でその場を離れて行きました。そのことも、イエスが神に遣わされたメシアであることを人々に示すことになったと思われます。

まとめ)
 イエスを拒絶するという観点と合わせて、この聖書箇所から読み取れると思われる原則を確認してみたいと思います。

1)主日を守ること
 イエスはいつものように安息日を守られたということです。いつものようにという表現は、子供
 の頃から一貫してと理解できるそうです。私たちに模範を残されたと考えることができます。今
 日の私たちには日曜礼拝を守るということになります。日曜礼拝を軽んじて教会の頭なるイエス
 を拒絶することのないようにしたいものです。事情が有って日曜礼拝に出席できないことが有り
 ます。その時でも、一定の時間を聖別して、み言葉に聞くことを心掛けてください。今はオンラ
 インで礼拝を視聴することもできますし、私たちの教会のブログにも説教がアップロードされて
 います。
2)イエスがキリスト、救い主であること、神の国の福音が礼拝の中心であること
  この聖書箇所でも、イエスの説教は旧約聖書のメシア預言の箇所でした。また、その内容は、
 キリストによる解放でした。同様に、今日、牧師たちも説教がそういうものであるように努めて
 います。聞く者も、そういう部分に心を留め、それを見出すように心掛けて聴くのです。何か違
 うものを期待して、あるいは漫然と聖書の言葉に耳を傾けることは、イエスを拒絶していること
 になります。福音と恵みを喜び感謝する心を持って日々歩むのです。
3)プライド、自尊心を捨てて、謙遜に神の道に従うこと
  プライドに生きる時、神の恵みは届きません。自分の力で自分を守ろうとしているからです。
 プライドこそが、サタンが堕落した理由です。サタンは荒野でイエスを誘惑する時にもプライド
 に訴えました。しかし、イエスはサタンと同じ過ちをおかすことはあり得ませんでした。私たち
 がこのイエスに完全に信頼して守っていただく時、プライドに基づいて行動する必要は無いので
 す。自分のプライドに従って生き、行動するということは、イエスに信頼していないということ
 であり、イエスを拒絶した生き方になります。

  私たちはキリストに「友」と呼んだいただける存在です。その私たちが、イエスを拒絶した同
 郷の人々のように、親しい主イエスを拒絶した生き方をすることがないようにしたいものです。

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日曜礼拝 2019年10月6日

2019-10-06 21:39:57 | 日曜礼拝
聖書箇所:イザヤ43章1節~7節
説教題:恐れるな

導入)
 NASB Exhaustive Concordance で fear という語を確認しますと、信仰に基づいて恐れる
なと命じている聖書箇所はおよそ64か所有り、そのうちの58か所はイザヤ書に有りました。
恐れるなという神様の言葉を最も多く私たちに伝えているこのイザヤ書から、その恐れなくて
良い理由を確認してみましょう。

本論)
1)創造主なる神が私たちを贖ったのだから恐れるな
  この原則は1節に示されています。贖うという表現は、近親の者が借金を肩代わりする動
 作を表します。つまり、神はイスラエルの民を自分の家族のように近しい存在であることを
 表しているのです。神は私たちの名を個人的に名前で呼んでくださるような存在です。(ヨ
 ハネ10章3節参照)私たちはキリストの血潮によって贖われてクリスチャンと呼ばれるよう
 になったのであり、神の民なのです。ですから、神は私達をも守ってくださるのです。
  2節に出てくる水や火は生活における困難の象徴です。それが、水と川、火と炎という類
 似表現による繰り返しを用いた強調表現になっています。あらゆる困難が私達の人生には伴
 います。しかし、神は守ってくださるというのです。このような表現を聞いて、イスラエル
 人は先祖が紅海やヨルダン川を渡ったことを思い出したことでしょう。
  3節の表現は、アッシリヤによるエルサレム攻撃への言及と思われます。アッシリヤ軍は、
 エジプトがアッシリヤに対する軍事行動を起こしたと聞いて、エルサレムから離れ、3節に
 出てくる3つの勢力を攻撃しました。ですから、それらの国々をエルサレムの贖い、代わり
 にするということになるわけです。

2)創造主なる神が私達を愛しているから恐れるな
  4節はなぜ神がユダヤ人やクリスチャンを守られるのかを示しています。それも、なぜ恐
 れなくて良いのかの理由になっています。ユダヤ人はアブラハムと神の契約の故に特別な存
 在でした。
  創造主なる神は、私達にも愛していると言ってくださっています。私達に愛する人や愛す
 る物事が有れば、その人やその物事を大事にし、守ろうとするのではないでしょうか。しか
 し、私達は人間にしかすぎません。私達は失敗をするものです。しかし、全能の神が私達を
 愛し、守るという時、確実にそうしてくださるのです。神の愛に信頼し、神を信頼しましょ
う。
  神に信頼し続けるのは、時には難しいかもしれません。しかし、キリストへの信仰を持ち
 続けましょう。神が私達の人生でこれまでにしてくださったことを思い出すのです。神は私
 達を尊び愛してくださっています。イエス・キリストの血潮という代価を払ってくださるほ  
 どに、私達は神の目に高価で貴いのです。

3)創造主なる神が共におられるから恐れるな
  この原則が示されている5節、6節の直接的な意味は、ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還
 することになるという預言と考えられます。しかし、帰還が実現するまでに、彼らは70年待
 たなければなりませんでした。しかし、それでも彼らは恐れる必要はなかったのです。神が
 共におられたからです。四つの方角は、あらゆる場所からと考えることができます。また、
 子や娘という表現はすべての人を表していると考えられます。
  この歴史的出来事は、どのように私達に適用できるでしょうか。彼らの帰る場所はエルサ
 レムでした。そこは礼拝の場所です。今日、神はすべての国民を神の救い、神の臨在へと導
 き入れているのです。教会に来ること、礼拝にくることに困難を感じることがあるかもしれ
 ません。しかし、恐れる必要はありません。神は共におられる方です。ユダヤ人がバビロン
 で信仰を見下されたりしましたが、ついにエルサレムに帰って来たように、神の力によって
 私達も神の礼拝へと帰ってくることができるのです。
  神は私達と共におられます。イエス・キリストはインマヌエルと呼ばれました。神は共に
 おられるという意味です。イエスは、ガリラヤ湖で風と波にもまれて死の恐怖を味わってい
 た弟子たちのもとに来られて、「わたしだ、恐れることはない。」と言ってくださった主で
 す。私達も自分の環境を見る時に不安や恐れが生じることが有るかもしれません。しかし、
 私達と共におられるイエス・キリストに目を留めるならば、私達は恐れる必要がないのです。

まとめ)
1)創造主なる神が私たちを贖ったのだから恐れるな
  最も大事なことは、私達がイエス・キリストによって救われたということです。私達の罪
 の代価をご自身の血をもって払ってくださいました。私達は罪対する罰や神の怒りをもはや
 恐れる必要がないのです。罪責感を持って生きる必要がないのです。

2)創造主なる神が私達を愛しているから恐れるな
  ある人達にとっては神のイメージは否定的なものかもしれません。しかし、私達は、神が
 愛であることを信頼するのです。神は、信じる者が救われるように、イエス・キリストを十
 字架にかけることも惜しまれなかった方です。神は愛の原型です。それは人間には推し量れ
 ない偉大な愛です。私達が想像したり持ったりすることのできない愛です。この愛に信頼し
 て恐れずに生きるのです。

3)創造主なる神が共におられるから恐れるな
 神が私達と共におられます。私達は聖霊の宮です。また、私達が神を愛し、互いに愛し合う
 というイエスの戒めを守る時、私達はイエスの内におり、イエスは私達の内におられるので
 す。神は私達を守られる全能の主です。10節には、私達は証人であると書かれています。神
 にあって恐れない生き方をする時、私達は神の証人になることができるのです。
 

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