本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:エステル4章
説教題:この時のためであるかもしれない
導入)
3章ではアガグ人ハマンとアハシュエロス王がペルシャ帝国内のユダヤ人を全員殺すという法令を出しました。ハマンは自分に礼をしないモルデカイに対する怒りからこの法令を提案したのでした。4章ではモルデカイがユダヤ人の全滅を防ぐために行動を起こします。モルデカイとエステルの対話を通して、神の御心を確認してみましょう。
本論)
1節―3節 ユダヤ人を皆殺しにするという命令はモルデカイの知るところとなりました。1節に出てくる服を裂いたりする行動は、ユダヤ人が悲しみや失望を表す時のものです。次に彼が王の門の所に行ったのは、できれば王に慈悲を請うためであったと思われます。しかし、彼はそれ以上奥には入ることができませんでした。王宮の敷地内では、喜んでいる表情以外は許されなかったからです。悲しい表情などをしていれば、死刑になることもありました。だから、ネヘミヤが王にどうして悲しい顔をしているのかと尋ねられた時には、返答をする前に祈る必要が有ったのです。彼は門の所に座る裁判官のような位には就いていましたが、王の注意を引くことはできませんでした。3節を見ると、モルデカイだけでなく、多くのユダヤ人たちが同様に悲しんでいたことがわかります。
4節―9節 モルデカイが王の門の所で嘆き悲しんでいることがエステルの耳にも入りました。聖書の記述からは、この時点ではエステルは何が起きているのか理解していなかった様子です。全ユダヤ人を殺すという法令のことも知らなったと思われます。それで、ハタクという宦官を伝令として送ります。モルデカイは事の詳細をエステルに伝え、エステルが王にユダヤ人救済の嘆願をするように頼みました。
11節 ようやく事態を理解したエステルですが、モルデカイの言うように王に嘆願しに行くには、障害が有りました。召されないのに王に謁見しに行く者は殺されるという法律が有ったのです。モルデカイのような立場の人間はそんなことは承知していたはずですが、エステルは更に問題が有るのだということを伝えようとしたのだと思います。王は30日以上エステルを召していなかったのです。王のエステルへの好意が薄れてしまっているかもしれないという心配が有りました。そうすると、いくら王妃エステルと言えど、勝手に王に会いに行けば死刑になるかもしれないのです。エステルの返答は、モルデカイのアドバイスを求めるためのものであったかもしれません。
13節―14節 モルデカイのアドバイスは、三つのことを述べています。一つ目は、エステルにそんな考えが有ったかどうかはわかりませんが、モルデカイは、王宮にいるから自分は助かるなどと思わないようにとエステルに警告します。法令が有るのですから、そのままでは王妃とてユダヤ人と分かれば殺されなければならないからです。二つ目は、モルデカイの発言から、彼の神に対する信仰が伺われます。エステルが行動を起こさなくても、違うところから助けが来るだろうと言うのです。その根拠は、神の契約だと考えられます。神はアブラハムに対して、彼の子孫が国になると約束しました。また、その約束は代々に渡る契約だというのです。そして、ダビデに対して、彼の子孫は永遠の王座につくと約束しています。神の約束が有るのですから、全ユダヤ人が殺されるということは起こるはずがないのです。三つ目は、エステルが行動を起こさないならば、彼女は滅び、その結果彼女の父の家系も断絶するということです。ヤコブ4章17節には、「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」と有ります。行動を起こさないことが罪になる状況なので、その事態の大きさに鑑みて、彼女が滅びると断じたのでしょう。締め括りに、モルデカイは、エステルが王妃となったのはこのような時のためかもしれないと指摘しました。私たちには、神の御心や計画を全部把握することはできません。それでも、神がご自身の栄光のために私たちを導いておられることを知らなければなりません。そのために、神が私たちに備えられた知識、能力、環境を神の栄光のために用いていかなければなりません。
16節―17節 モルデカイのアドバイスに応えて、エステルは二つのことを言います。一つ目は、祈りの必要性です。大きな困難に直面する時、私たちは組織的に一致して祈らなければならない場合が有ります。その一例が、ウインストン・チャーチルが1940年3月26日に設定した国民の祈りの日だと思います。英国中の人々が自分の住む地域の教会や通りに群れをなして集まり、ベルギーにいる英国軍が、無事にドイツ軍の攻撃を避けて撤退できるように祈ったのです。すると霧が立ち込めてドイツ軍の進軍を妨げ、英国軍は5日後に無事帰還することができました。信仰者は、神が祈りに応えてくださったと信じています。エステルはシュシャンの町のユダヤ人と一緒に、断食して祈ると宣言しました。二つ目に、エステルは、たとえ死ななければならないとしても、王の所に嘆願をしに行くという決意を表明しました。同胞のために、また、神の栄光のために行動を起こす決意をしたのです。神はどのような方法でもご自身の契約を履行することができる方ではありますが、このことによって、エステルは後の、私たちの救い主イエス・キリストの降誕に貢献していることになります。17節では、モルデカイがエステルの命じた通りにしたと書いてありますから、確実に組織的な祈りがなされたことがわかります。
まとめ)
「この時のためであるかもしれない」という題をつけました。私たちの場合はそこまでの危機に直面することは無いかもしれません。しかし、それでも相当に困難を覚える時が国にも、教会にも、個人にも訪れることが有ります。その時に私たちが心掛けるべきことは何でしょうか。
1)一致して祈り続ける
4章の最初の段落と最後の段落に、断食をするという記述が有ります。特別な祈りをするということです。私たちの嘆願は、この世の権威に対してよりも、先ず、神に向けられなければなりません。3節では既に各地のユダヤ人達が断食して祈っていました。それに加えて、エステルは、一致団結した共同の祈りを組織しました。私たちも困難に直面している人々のために心を合わせて祈ります。ですから、祈りの課題を共有し、また祈祷会に出席して祈るのです。時には聖書的な価値に反する法律の制定の動きが出てくることが有ります。そのような時にも、私たちは心を合わせて共同の祈りをもって嘆願し、執り成して祈るのです。
2)神の主権、摂理、契約を信じる
モルデカイの言葉の中に、神への信頼が表れています。神は神の民を守られると約束されました。また、メシア、救い主を送ると約束されました。その約束を信じるのです。
神は、エステルを王妃にし、モルデカイに町の裁判官のような高い地位を与えました。神の摂理により、彼らはこの困難に効果的に対応するための立場と環境を整えておられたのです。私たちの個人史、能力、立場や環境も、神の栄光のために用いられ、善に導かれるのです。(ローマ8章28節参照)
3)神の共同体と栄光のために行動を起こす
具体的な例を幾つか考えてみます。もし必要ならば、より聖書的な社会が保たれるように、必要ならば署名運動に参加することができるでしょう。迫害されているクリスチャンを助ける働きをしているキリスト教団体に寄付をすることもできます。そのような国で、クリスチャンであるために、無理な条件の借金を負わされて、奴隷のように働かされている人たちを、私たちの寄付で救い出すこともできます。そのような国で、クリスチャンだという理由で配給が後回しにされる人々に食料を届けることができます。教会の働きをいろいろな方法で支援することも奨励されます。
例え私たちの努力が無駄になったのではないかと思われるような時でも、神様に失敗や敗北は有りません。ただ忠実に行動して行きましょう。
聖書箇所:エステル4章
説教題:この時のためであるかもしれない
導入)
3章ではアガグ人ハマンとアハシュエロス王がペルシャ帝国内のユダヤ人を全員殺すという法令を出しました。ハマンは自分に礼をしないモルデカイに対する怒りからこの法令を提案したのでした。4章ではモルデカイがユダヤ人の全滅を防ぐために行動を起こします。モルデカイとエステルの対話を通して、神の御心を確認してみましょう。
本論)
1節―3節 ユダヤ人を皆殺しにするという命令はモルデカイの知るところとなりました。1節に出てくる服を裂いたりする行動は、ユダヤ人が悲しみや失望を表す時のものです。次に彼が王の門の所に行ったのは、できれば王に慈悲を請うためであったと思われます。しかし、彼はそれ以上奥には入ることができませんでした。王宮の敷地内では、喜んでいる表情以外は許されなかったからです。悲しい表情などをしていれば、死刑になることもありました。だから、ネヘミヤが王にどうして悲しい顔をしているのかと尋ねられた時には、返答をする前に祈る必要が有ったのです。彼は門の所に座る裁判官のような位には就いていましたが、王の注意を引くことはできませんでした。3節を見ると、モルデカイだけでなく、多くのユダヤ人たちが同様に悲しんでいたことがわかります。
4節―9節 モルデカイが王の門の所で嘆き悲しんでいることがエステルの耳にも入りました。聖書の記述からは、この時点ではエステルは何が起きているのか理解していなかった様子です。全ユダヤ人を殺すという法令のことも知らなったと思われます。それで、ハタクという宦官を伝令として送ります。モルデカイは事の詳細をエステルに伝え、エステルが王にユダヤ人救済の嘆願をするように頼みました。
11節 ようやく事態を理解したエステルですが、モルデカイの言うように王に嘆願しに行くには、障害が有りました。召されないのに王に謁見しに行く者は殺されるという法律が有ったのです。モルデカイのような立場の人間はそんなことは承知していたはずですが、エステルは更に問題が有るのだということを伝えようとしたのだと思います。王は30日以上エステルを召していなかったのです。王のエステルへの好意が薄れてしまっているかもしれないという心配が有りました。そうすると、いくら王妃エステルと言えど、勝手に王に会いに行けば死刑になるかもしれないのです。エステルの返答は、モルデカイのアドバイスを求めるためのものであったかもしれません。
13節―14節 モルデカイのアドバイスは、三つのことを述べています。一つ目は、エステルにそんな考えが有ったかどうかはわかりませんが、モルデカイは、王宮にいるから自分は助かるなどと思わないようにとエステルに警告します。法令が有るのですから、そのままでは王妃とてユダヤ人と分かれば殺されなければならないからです。二つ目は、モルデカイの発言から、彼の神に対する信仰が伺われます。エステルが行動を起こさなくても、違うところから助けが来るだろうと言うのです。その根拠は、神の契約だと考えられます。神はアブラハムに対して、彼の子孫が国になると約束しました。また、その約束は代々に渡る契約だというのです。そして、ダビデに対して、彼の子孫は永遠の王座につくと約束しています。神の約束が有るのですから、全ユダヤ人が殺されるということは起こるはずがないのです。三つ目は、エステルが行動を起こさないならば、彼女は滅び、その結果彼女の父の家系も断絶するということです。ヤコブ4章17節には、「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」と有ります。行動を起こさないことが罪になる状況なので、その事態の大きさに鑑みて、彼女が滅びると断じたのでしょう。締め括りに、モルデカイは、エステルが王妃となったのはこのような時のためかもしれないと指摘しました。私たちには、神の御心や計画を全部把握することはできません。それでも、神がご自身の栄光のために私たちを導いておられることを知らなければなりません。そのために、神が私たちに備えられた知識、能力、環境を神の栄光のために用いていかなければなりません。
16節―17節 モルデカイのアドバイスに応えて、エステルは二つのことを言います。一つ目は、祈りの必要性です。大きな困難に直面する時、私たちは組織的に一致して祈らなければならない場合が有ります。その一例が、ウインストン・チャーチルが1940年3月26日に設定した国民の祈りの日だと思います。英国中の人々が自分の住む地域の教会や通りに群れをなして集まり、ベルギーにいる英国軍が、無事にドイツ軍の攻撃を避けて撤退できるように祈ったのです。すると霧が立ち込めてドイツ軍の進軍を妨げ、英国軍は5日後に無事帰還することができました。信仰者は、神が祈りに応えてくださったと信じています。エステルはシュシャンの町のユダヤ人と一緒に、断食して祈ると宣言しました。二つ目に、エステルは、たとえ死ななければならないとしても、王の所に嘆願をしに行くという決意を表明しました。同胞のために、また、神の栄光のために行動を起こす決意をしたのです。神はどのような方法でもご自身の契約を履行することができる方ではありますが、このことによって、エステルは後の、私たちの救い主イエス・キリストの降誕に貢献していることになります。17節では、モルデカイがエステルの命じた通りにしたと書いてありますから、確実に組織的な祈りがなされたことがわかります。
まとめ)
「この時のためであるかもしれない」という題をつけました。私たちの場合はそこまでの危機に直面することは無いかもしれません。しかし、それでも相当に困難を覚える時が国にも、教会にも、個人にも訪れることが有ります。その時に私たちが心掛けるべきことは何でしょうか。
1)一致して祈り続ける
4章の最初の段落と最後の段落に、断食をするという記述が有ります。特別な祈りをするということです。私たちの嘆願は、この世の権威に対してよりも、先ず、神に向けられなければなりません。3節では既に各地のユダヤ人達が断食して祈っていました。それに加えて、エステルは、一致団結した共同の祈りを組織しました。私たちも困難に直面している人々のために心を合わせて祈ります。ですから、祈りの課題を共有し、また祈祷会に出席して祈るのです。時には聖書的な価値に反する法律の制定の動きが出てくることが有ります。そのような時にも、私たちは心を合わせて共同の祈りをもって嘆願し、執り成して祈るのです。
2)神の主権、摂理、契約を信じる
モルデカイの言葉の中に、神への信頼が表れています。神は神の民を守られると約束されました。また、メシア、救い主を送ると約束されました。その約束を信じるのです。
神は、エステルを王妃にし、モルデカイに町の裁判官のような高い地位を与えました。神の摂理により、彼らはこの困難に効果的に対応するための立場と環境を整えておられたのです。私たちの個人史、能力、立場や環境も、神の栄光のために用いられ、善に導かれるのです。(ローマ8章28節参照)
3)神の共同体と栄光のために行動を起こす
具体的な例を幾つか考えてみます。もし必要ならば、より聖書的な社会が保たれるように、必要ならば署名運動に参加することができるでしょう。迫害されているクリスチャンを助ける働きをしているキリスト教団体に寄付をすることもできます。そのような国で、クリスチャンであるために、無理な条件の借金を負わされて、奴隷のように働かされている人たちを、私たちの寄付で救い出すこともできます。そのような国で、クリスチャンだという理由で配給が後回しにされる人々に食料を届けることができます。教会の働きをいろいろな方法で支援することも奨励されます。
例え私たちの努力が無駄になったのではないかと思われるような時でも、神様に失敗や敗北は有りません。ただ忠実に行動して行きましょう。