パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年8月30日

2020-08-30 16:39:21 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:エステル4章
説教題:この時のためであるかもしれない

導入)
3章ではアガグ人ハマンとアハシュエロス王がペルシャ帝国内のユダヤ人を全員殺すという法令を出しました。ハマンは自分に礼をしないモルデカイに対する怒りからこの法令を提案したのでした。4章ではモルデカイがユダヤ人の全滅を防ぐために行動を起こします。モルデカイとエステルの対話を通して、神の御心を確認してみましょう。

本論)
 1節―3節 ユダヤ人を皆殺しにするという命令はモルデカイの知るところとなりました。1節に出てくる服を裂いたりする行動は、ユダヤ人が悲しみや失望を表す時のものです。次に彼が王の門の所に行ったのは、できれば王に慈悲を請うためであったと思われます。しかし、彼はそれ以上奥には入ることができませんでした。王宮の敷地内では、喜んでいる表情以外は許されなかったからです。悲しい表情などをしていれば、死刑になることもありました。だから、ネヘミヤが王にどうして悲しい顔をしているのかと尋ねられた時には、返答をする前に祈る必要が有ったのです。彼は門の所に座る裁判官のような位には就いていましたが、王の注意を引くことはできませんでした。3節を見ると、モルデカイだけでなく、多くのユダヤ人たちが同様に悲しんでいたことがわかります。
 4節―9節 モルデカイが王の門の所で嘆き悲しんでいることがエステルの耳にも入りました。聖書の記述からは、この時点ではエステルは何が起きているのか理解していなかった様子です。全ユダヤ人を殺すという法令のことも知らなったと思われます。それで、ハタクという宦官を伝令として送ります。モルデカイは事の詳細をエステルに伝え、エステルが王にユダヤ人救済の嘆願をするように頼みました。
 11節 ようやく事態を理解したエステルですが、モルデカイの言うように王に嘆願しに行くには、障害が有りました。召されないのに王に謁見しに行く者は殺されるという法律が有ったのです。モルデカイのような立場の人間はそんなことは承知していたはずですが、エステルは更に問題が有るのだということを伝えようとしたのだと思います。王は30日以上エステルを召していなかったのです。王のエステルへの好意が薄れてしまっているかもしれないという心配が有りました。そうすると、いくら王妃エステルと言えど、勝手に王に会いに行けば死刑になるかもしれないのです。エステルの返答は、モルデカイのアドバイスを求めるためのものであったかもしれません。
 13節―14節 モルデカイのアドバイスは、三つのことを述べています。一つ目は、エステルにそんな考えが有ったかどうかはわかりませんが、モルデカイは、王宮にいるから自分は助かるなどと思わないようにとエステルに警告します。法令が有るのですから、そのままでは王妃とてユダヤ人と分かれば殺されなければならないからです。二つ目は、モルデカイの発言から、彼の神に対する信仰が伺われます。エステルが行動を起こさなくても、違うところから助けが来るだろうと言うのです。その根拠は、神の契約だと考えられます。神はアブラハムに対して、彼の子孫が国になると約束しました。また、その約束は代々に渡る契約だというのです。そして、ダビデに対して、彼の子孫は永遠の王座につくと約束しています。神の約束が有るのですから、全ユダヤ人が殺されるということは起こるはずがないのです。三つ目は、エステルが行動を起こさないならば、彼女は滅び、その結果彼女の父の家系も断絶するということです。ヤコブ4章17節には、「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」と有ります。行動を起こさないことが罪になる状況なので、その事態の大きさに鑑みて、彼女が滅びると断じたのでしょう。締め括りに、モルデカイは、エステルが王妃となったのはこのような時のためかもしれないと指摘しました。私たちには、神の御心や計画を全部把握することはできません。それでも、神がご自身の栄光のために私たちを導いておられることを知らなければなりません。そのために、神が私たちに備えられた知識、能力、環境を神の栄光のために用いていかなければなりません。
 16節―17節 モルデカイのアドバイスに応えて、エステルは二つのことを言います。一つ目は、祈りの必要性です。大きな困難に直面する時、私たちは組織的に一致して祈らなければならない場合が有ります。その一例が、ウインストン・チャーチルが1940年3月26日に設定した国民の祈りの日だと思います。英国中の人々が自分の住む地域の教会や通りに群れをなして集まり、ベルギーにいる英国軍が、無事にドイツ軍の攻撃を避けて撤退できるように祈ったのです。すると霧が立ち込めてドイツ軍の進軍を妨げ、英国軍は5日後に無事帰還することができました。信仰者は、神が祈りに応えてくださったと信じています。エステルはシュシャンの町のユダヤ人と一緒に、断食して祈ると宣言しました。二つ目に、エステルは、たとえ死ななければならないとしても、王の所に嘆願をしに行くという決意を表明しました。同胞のために、また、神の栄光のために行動を起こす決意をしたのです。神はどのような方法でもご自身の契約を履行することができる方ではありますが、このことによって、エステルは後の、私たちの救い主イエス・キリストの降誕に貢献していることになります。17節では、モルデカイがエステルの命じた通りにしたと書いてありますから、確実に組織的な祈りがなされたことがわかります。

まとめ)
 「この時のためであるかもしれない」という題をつけました。私たちの場合はそこまでの危機に直面することは無いかもしれません。しかし、それでも相当に困難を覚える時が国にも、教会にも、個人にも訪れることが有ります。その時に私たちが心掛けるべきことは何でしょうか。

1)一致して祈り続ける
  4章の最初の段落と最後の段落に、断食をするという記述が有ります。特別な祈りをするということです。私たちの嘆願は、この世の権威に対してよりも、先ず、神に向けられなければなりません。3節では既に各地のユダヤ人達が断食して祈っていました。それに加えて、エステルは、一致団結した共同の祈りを組織しました。私たちも困難に直面している人々のために心を合わせて祈ります。ですから、祈りの課題を共有し、また祈祷会に出席して祈るのです。時には聖書的な価値に反する法律の制定の動きが出てくることが有ります。そのような時にも、私たちは心を合わせて共同の祈りをもって嘆願し、執り成して祈るのです。

2)神の主権、摂理、契約を信じる
  モルデカイの言葉の中に、神への信頼が表れています。神は神の民を守られると約束されました。また、メシア、救い主を送ると約束されました。その約束を信じるのです。
  神は、エステルを王妃にし、モルデカイに町の裁判官のような高い地位を与えました。神の摂理により、彼らはこの困難に効果的に対応するための立場と環境を整えておられたのです。私たちの個人史、能力、立場や環境も、神の栄光のために用いられ、善に導かれるのです。(ローマ8章28節参照)

3)神の共同体と栄光のために行動を起こす
  具体的な例を幾つか考えてみます。もし必要ならば、より聖書的な社会が保たれるように、必要ならば署名運動に参加することができるでしょう。迫害されているクリスチャンを助ける働きをしているキリスト教団体に寄付をすることもできます。そのような国で、クリスチャンであるために、無理な条件の借金を負わされて、奴隷のように働かされている人たちを、私たちの寄付で救い出すこともできます。そのような国で、クリスチャンだという理由で配給が後回しにされる人々に食料を届けることができます。教会の働きをいろいろな方法で支援することも奨励されます。
  例え私たちの努力が無駄になったのではないかと思われるような時でも、神様に失敗や敗北は有りません。ただ忠実に行動して行きましょう。
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日曜礼拝 2020年8月23日

2020-08-23 22:23:11 | 日曜礼拝
本日のビデオ

聖書箇所:ダニエル6章
説教題:主は私の裁き主


導入)
 直前の5章30-31節に、背景となる記事が示されています。ベルシャツァルツァル王が倒されて、ダリヨス王が即位しました。
 支配者が変わったのですが、6章では、ダニエルは追放されたりはせず、もう一度王の高官に取り立てられることになりました。120人太守の上に任命されるばかりでなく、ゆくゆくは更に上の職務に就けられそうな状況でした。それだけ彼の能力が高かったのです。しかし、そのことで、他の大臣や高官の妬みを買うことになりました。彼らはダニエルを亡き者にしようと画策します。物語の成り行きを確認してみましょう。

本論)
 4節‐5節に、どのような成り行きと考えで策略が練られたかが示されています。それに基づいて実際に提案された内容が7節‐8節に示されています。彼らの提案の仕方は巧妙で狡猾でありました。一つ目は、王には全大臣や高官が賛成したと言っていますが、実際はダニエルには相談をしていませんでした。二つ目は、この提案は王になって間もないダリヨスの権限を確固たるものにするために有効に思えるものだったということです。それで、王はこの法令を書き起こし、文書に署名してしまいました。
 ダニエルの耳にこの法令のことが入った時には、それは既に発効されており、彼には何の反対の余地も有りませんでした。しかし、彼はいつもの祈りの習慣を変えることはしませんでした。彼の祈りの様子を確認してみましょう。
 先ず、彼の祈る部屋の窓はエルサレムに向かって開かれていました。これは、2歴代誌6章36節‐39節のソロモンの神殿奉献の祈りに基づいた行動だと思われます。ソロモンの祈りに応えて、神は神殿に栄光の雲を満たされましたので、その祈りは聞かれ、約束となったのです。次に、ダニエルは日に三度祈っていました。朝、昼、夕に祈る習慣は、詩篇55章17節でも確認することができます。更に、彼は祈りの中で神に感謝をささげていました。この三つの要素を見ると、エルサレムに向かって祈るという部分は私たちには適用されませんが、残りの二つは私たちにも大事な要素です。新約聖書でも、1テサロニケ5章16節‐18節の奨励には、絶えず祈ることと、感謝することが含まれているのです。
 ダニエルという名前は、「神は私の裁き主」という意味が有ります。彼は、すべてのことを正しく判断し、裁いてくださる神を信じ、神の手に自分を委ねて、忠実に祈り続けることを選んだのでした。同時に、それは他の高官に目撃されることになりました。早速彼らはダリヨス王の所に出かけます。最初にしたことは、新しく発布された法令を王に確認することでした。それで、王はダニエルの罰を免除することはできませんでした。自分で署名して発布した法令を破ることは、信頼を失う行為でした。彼は、夕方までダニエルを救う方法はないかと考えましたが、良い案が浮かぶはずもなく、最後には、ダニエルの信じる神に彼を委ねることしかできませんでした。(16節‐17節)
 ライオンの穴の入り口を塞いだのは、おそらく、ダニエルに味方する人が来て、ライオンに別の餌を与えたり、弓矢や槍でライオンを殺したりして、彼を守ろうとするのを妨げるためでしょう。このような刑を執行するためには、ライオンに数日餌を与えないで、空腹な状態にしておく必要がありました。ダニエルの敵は既にそれだけの準備を終えていたことになります。ダリヨス王は、自分が法令を出したという後悔や、一番有能な部下を失う可能性を思って、食事もできず、眠ることもできませんでした。
 次の朝になると、王はわずかな望みにかけるようにして、ライオンの穴の所に行きました。ダニエルの良い証のためでしょうか、ダリヨスは彼のことを「生ける神のしもべ」と呼びます。20節の呼びかけは、神に対する信仰も確信もないもののように思えます。しかし、驚いたことにダニエルから返事が有ったのです。神が守ってくださって、何の害も受けなかったというのです。神の力でライオンの空腹感が無くなったか、天使が現れてライオンを恐れさえたかなどが想像できます。彼が救われた理由は、彼が神に信頼したからだと23節には説明されています。
 神がダニエルの裁き主でした。神はダニエルが正し、無罪であると判断したのです。そのかわりに、ダニエルを策略にかけた人々は、有罪であると判断されました。ダニエルがライオンに殺されなかったのは、彼が正しかったからだと判断されると、それは、彼を訴えた方に罪が有るということになります。そして、彼らが主張した罰が反対に彼らに対して課せられなければならないということになるのです。それで、彼らが今度はライオンの穴に投げ込まれました。妻子が一緒に投げ込まれたのは、それがバビロンの刑法上の習慣であったからだと思われます。
 この後、ダリヨス王は、別の御触れを出します。その表現を見ると、イスラエルの神を認め、人々が神を畏れるように命じています。(26節‐27節)彼が実際にそういう信仰を持っていたかどうかは定かではありません。民がどれだけその命令に従ったかもわかりません。また、残念なことに、ダリヨスの治世は2年程で終わってしまいました。しかし、神の国は永遠なのです。この神がダニエルの裁き主だったのです。この神は私たちの神でもあります。公正た正義の神です。

まとめ)
 神が自分の裁き主であると信じる人々の態度はどういうものでしょうか。今回は二点取り上げてみたいと思います。

1)主権者である神に自分の生活と命を委ねる。
  ダニエルは高い位に就けられました。しかし、彼は自分の持っている権力で物事を変えていこうとはしませんでした。今回の物語における問題は、彼ばかりか、ダリヨス王にも変えられませんでした。その中で、ダニエルは全ては神の主権の中に有ると信じて、神に全てを委ね、変わらす神への礼拝を続けました。
  神に従うならば、私たちの命は守られると結論着けるることはできません。例えばペテロやパウロは強い信仰を持って神に従っていましたが、殉教の死を遂げています。それでも、主は私たちを公正に裁いてくださる方であり、終わりの日に永遠の命の救いを与え、天の恵みの相続者としてくださるのです。私たちの判決は既に下りています。私たちはイエスにあって義とされています。報酬には個人差が有るかもしれませんが。この恵みに感謝して、ペテロ書簡が勧めているように、希望を持って、神に委ねて歩むのが私たちの態度です。

2)いつも祈り続け、神に感謝する
  ダニエルはこの物語の頃には80歳ほどになっていたと考えられます。ライオンの穴に落とされたダニエルの絵を見ると、白髪の老人として描かれていたりします。その歳に至るまで、彼は毎日継続して神に祈り、また感謝をささげていたと考えられます。先にも述べたように、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝するという原則は新約聖書に始まったことではありません。ダニエルの祈りについて、もう少し広い範囲から確認したいと思います。
 1)彼は神に感謝をささげていました。(10節)数えてみよ主の恵みという賛美が有りますが、そのような姿勢を常に持っていることが大事です。それによって、私たちは更に恵みを確認し、感謝をすることができます。2)神の好意と慈悲を求めて祈りました。(11節)新改訳聖書では、哀願するという表現が用いられていますが、原義は神の好意、慈悲を求めるというものです。あまりその必要を感じないかもしれませんが、神様、私に好意と慈悲を示してくださいと願って祈ることは大事な要素ではないでしょうか。3)9章を見ますと、ダニエルは同胞のために執り成しの祈りをしています。私たちは心がけて執り成しの祈りを奨励する教会です。自分の出身国やクリスチャンの仲間のために繰り返し祈っていきましょう。4)自分の住んでいる所の繁栄を祈ったと思われます。9章を見ると、彼は預言者エレミヤの言葉を確認していることがわかります。そのエレミヤは、バビロンへ捕囚となって行った人たちに、その地の繁栄を祈るように指示しています。(29章7節参照)私たちも、意識して自分たちの住んでる地域の平和、経済の繁栄、宣教の前進を続けていのるべきではないでしょうか。
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日曜礼拝 2020年8月16日

2020-08-17 17:06:26 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ12章15節~21節
説教題:イエス、神の選んだしもべ

導入)
 15節は、イエスはそれを知って、という表現で始まります。それは、パリサイ人達がイエスを殺す相談をしていることを知ってということです。(14節参照)イエスはパリサイ人たちに、正しい安息日の考え方と実践を説明したのですが、彼らはそれを拒絶したのでいた。
 このように、宗教的指導者たちはイエスを排除しようとしたわけですが、マタイは、まず、ユダヤ人の読者に、イエスこそ真のメシア、救世主だということを伝えようとしています。そのために、旧約聖書の預言の「成就」ということを、14回も引用、説明しています。そして、今回の引用が一番長いものになっています。この部分が伝えようとしていることを確認していきましょう。

本論)
15節 イエスがどのようにしてパリサイ人たちの陰謀を知ったのかは書かれていません。イエスは全知ですから、そういう力によったかもしれません。それで、イエスは立ち去ったというのです。どこに行ったのかは示されていませんが、多くの人たちがついていきました。直前の安息日問答でも示された、神の慈悲の性質によって、彼らの中の病気の人たちを癒しました。

16節 イエスのメシアのしるしとしての奇跡である癒しを体験したり目撃したりして、人々はイエスがメシアであることを確信したと思われますが、イエスは彼らに、イエスがメシアであるという証言をしないように求めました。

17節 イエスは、立ち去り、癒し、また人々にイエスのことを知らせないようにと戒めるということをしました。その三つの行動は、実は旧約聖書のイザヤの預言が成就するためであったとマタイは説明しています。先に述べたように、マタイは、ユダヤ人にイエスが預言されたメシアであることを確認させようとして、その預言の引用をします。

18節 この節の表現は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に、天から聞こえた父なる神の言葉を思い起させます。イエスは、人々にイエスのことを知らせないようにと言いましたが、明らかにイエスはイザヤが預言したメシアでした。

19節 この節は、なぜイエスが立ち去ったかを示しています。イエスはパリサイ人たちに質問をしたり説明をしたりはしましたが、彼らと喧々諤々と論争するようなことはしませんでした。「叫ぶ」と訳された語は、議論をする時にあげる大きな声を表すためにも用いられる語です。また、イエスが人気を集めようとはしていなかったことを示しています。当時、大路や市場は人の集まる場所でした。人が多くの耳目を集めたいと思えば、そういう場所に出て行って、大声でうたっえかけたりするのでした。しかし、それは、神の遣わしたメシアの性質ではなかったのです。
 このように、イエスが立ち去ったのは旧約聖書の預言の成就であったのですが、聖書からは他にも理由が見出されると思います。一つには、それがまだパリサイ人たちの陰謀に巻き込まれて命を落とす時ではなかったということです。(ヨハネ7章30節参照)また、イエスは神の国の福音を宣べ伝える機会をもっと得ようとしたからです。少し前の10章23節では、迫害されたら別の町に移るようにと弟子たちに指示しています。それは、単に避難するということではなく、もっと福音に耳を傾け、受け入れる人を捜し求めるという意味が有りました。

20節 この節では、再び慈悲深いメシアの性質が表現されていると思われます。多くの場合、傷んだ葦やくすぶる燈心は弱りはてた人々の状態を表していると理解されます。生活の重圧に疲弊した人々のことかもしれません。パリサイ人や律法学者に、律法の実践がなっていないと責められて失望していた人々もいました。政治的には、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にありました。しかし、イエスは彼らに、神の国の信仰によって平安と休息を得るようにと教えました。
 葦と燈心の用例から、もう一つの理解も出てきます。それらは、神の言葉を表すということです。ヘブル語でもギリシャ語でも、葦には定規や基準という意味も含まれたようです。また、燈心はともしびや光と結びつきます。詩編119編105節の、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」という表現に合致します。パリサイ人たちは旧約聖書の律法を誤用していました。そのせいで、神の言葉が傷んだ葦やくすぶる燈心のように、十分に意味をなさないものになっていたのです。しかし、イエスはそれを正して、再び強くし、その意味を回復したのです。イエスご自身が神の言葉と呼ばれる存在です。
 公義という語が使われています。18節にも出てきていますが、同じ語です。その定義、語感は、「分離、二つに分けること」というものになります。イエスは最後の審判の時に、私たちを二つの群れに分けるのです。神の民と悪魔の民に。その時が来るまで、イエスは私たちを守り導き、神の言葉の宣教と拡大を導かれるのです。また、最後の審判は、神の民にとっては恐ろしい時ではありません。神の国を相続する希望と喜びの時なのです。

21節 18節とあわせて、イザヤはイエスの異邦人への宣教に言及しています。イエスが直接出かけて行かなかったとしても、マルコ3章7節、8節を見ると、イエスの所に集まった人たちの中には、ツロやシドン等から来た異邦人が含まれていたことがわかります。彼らはイエスの名に信頼を置きました。イエスという名は、「神は救う」という意味が有ります。私たちはユダヤ人ではありませんから、同様に異邦人です。イザヤの預言は、私たちにまで届き、成就しているのです。
まとめ)
 イザヤによって神の選ばれたしもべと表現されているイエスは、どのような方としてここでは描写されているでしょうか。

1)イエスは旧約聖書に預言されたメシア・救い主である
  マタイは繰り返し強調してこのことを伝えようとしました。いくつもの預言の成就を取り上げ、指摘しています。イエスご自身がそうしてこられました。また、復活の後にも、エマオのという町に向かう弟子たちに、ご自身のことを旧約聖書の律法や預言者の言葉から説明されました。そういう預言が長い時を経た後に正確に成就したのですから、私たちはイエスをメシアとして信頼することができるのです。イエスに信頼する者は揺るがされることがないと詩編16編8節にも記されています。21節に有るように、私たちはイエスの名に信頼することができるのです。

2)イエスは慈悲をもって私たちを救いと勝利に導かれる
  パリサイ人たちは、一般の人々を軽視し、異邦人を蔑視していました。しかし、イエスはそういう人たちを心に留め、霊的にも肉体的にも弱っている人たちや失望している人たちに心配りをしていました。公義を勝利に導くまで、その慈悲をもって私たちを守り導くのです。つまり、最後の審判の時まで守り導いてくださるのです。その時、私たちはイエスと共に天国の相続に与るのです。そのような永遠につながる希望を持って生活していきましょう。
  マタイは繰り返し旧約聖書の引用をしました。私たち自身も繰り返し聖書の言葉を思い出し、イエスは救い主であるという告白を重ねていくのです。イエスが私たちの中に有る聖書の言葉を守り、生かしてくださいます。

3)イエスはすべての国民の神であり救い主である
  イエスはユダヤ人のためだけの救い主ではありません。一部の人たちが誤解しているように、西洋人のための救い主でもありません。異邦人を退けているかのように思える旧約聖書の預言の中でさえ、神の公義と希望が国々に、異邦人に届くことが述べられています。私たちも異邦人です。神の恵みによって、私たちは神の民として今日共に集まって神を礼拝しているのです。イエスがその預言と計画を実現させ、成就させた方です。使徒パウロも、ユダヤ人と異邦人が共に神の国の共同の相続人となることを、エペソ3章6節で述べています。そのことが更に知られるように、神の言葉は守られ、宣べ伝えられていくのです。
  私たちも、聖書の言葉について語り合う、証をしていくことを担っています。また、そういう働きに携わる個人や団体を支援していくのです。

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日曜礼拝 2020年8月9日

2020-08-10 21:02:20 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ12章1節~14節
説教題:安息日の主

導入)
 イエスは直前の11章28節~30節で

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (新改訳)

本日の聖書箇所にもその精神は表れているのではないかと思います。そして、それはイエスが「安息日の主」という部分に基づいて示されています。

本論)
 ルカ6章の記述から、学者たちはこれが過ぎ越しの祭りが終わって二週間ほど経った安息日のことと考えています。イエスと弟子たちはユダヤ地方にいて、もしかすると、エルサレム近郊にいたかもしれません。その時期には麦や大麦が実る頃でした。彼らは麦畑を通っていたといことです。マタイはそれがどんな時間や状況であったかを示していませんが、弟子たちは空腹を覚えて、麦の穂を摘んで食べ始めたのです。どうして他人の麦畑から勝手に穂を摘んで食べているのかと思われるかもしれませんが、それは空腹の人や貧しい人のために律法の規定で許されていることでした。(申命記23章25節参照)
 イエスの周りには宗教警察のようにパリサイ人達がいることが多かったのですが、この時も彼らはこれを見咎めて、弟子たちが安息日にしてはいけないことをしていると言って、師匠であるイエスを責めました。安息日には労働してはいけないのですが、ラビ達の中には、穂を摘んだのは刈り入れと同じで労働に相当すると考える立場が有りました。弟子は麦の殻を手で揉んで剥がしたと思われますが、それも脱穀に相当する労働だと考えられました。
 イエスは三つの例話をもって、パリサイ人達の非難を退けました。一つ目は、飢えていたダビデに、規定(レビ24章8-9節)では祭司にしか許されていない備えのパンが与えられたとう史実です。(1サムエル21章)この事例からは、祭司もダビデも飢えを満たして命を維持することの方が祭司の規定を守ることよりも大事であると判断していたことが判ります。二つ目は、宮で奉仕する祭司達は、安息日でも働ことになるのですが、それでも咎められることはないというでした。安息日に祭司が宮でしなければならないことは、民数記28章9-10節に記録されています。単純に安息日に仕事をしたというだけで咎められるべきでない場合が有るということになります。パリサイ人たちはダビデや宮の規定を重んじていましたから、このような事例を示されては言い返すのが難しかったと思われます。
 ここから、イエスは性質の異なった説明を加えます。二つ目の例話で確認したように、一般的な安息日規定の遵守は、宮の業務の必要に譲ることが有ります。宮の業務が優先だからです。しかし、神の御子であるイエスは、その宮に勝るご存在だということです。イエスは律法を与えた神ですから、その律法の正しい適用をする権威が有るのです。続いて7節で、ホセア6章6節を引用して、律法の精神に注目をさせています。その意図は、神は空虚な外見的で見せかけだけの全焼のいけにえよりも、憐みの心に好意を持っていらっしゃるということです。申命記23章24節の律法が、飢えている人に麦を摘むことを許しているように、神は憐みの心を要求しておられるのです。もしパリサイ人達がそういう律法の精神を理解していたならば、罪のない者、すなわち律法の規定内で飢えをしのぐために麦の穂を摘んで食べていたイエスの弟子達を罪に定めることはなかったでしょう。8節では、イエスは、ご自身が律法を与えられた神である故に、ご自身が安息日の主であると宣言しています。それは、再度、弟子たちが罪のない者であることを確認したことにもなっています。
 イエスと弟子達が出かけたのは、ユダヤ人の会堂に行くためでした。そこで、片手の萎えた人に出会います。神経、もしくは筋肉に異常が有って、動かせなかったのだと思われます。パリサイ人達はここでイエスに議論を挑みます。安息日に癒すのは正しいことかどうかを尋ねました。傷や病を癒すことは医者の仕事と考えられていました。律法には人を癒すことについての禁止は明記されていませんでしたが、パリサイ人はそれが安息日に仕事をしてはいけないという規定に反すると考えていました。そこで、イエスは彼等の実践や解説を用いて反論されました。安息日であっても、羊が穴に落ちたりしたら、引き上げるのが普通でしたし、パリサイ人もそれを許していました。それはかなり労力の要ることであったはずなのですが。動物にそのうような憐みの心から行動をすることは、彼等にとっては完全に許容されることだったのです。であるならば、ましてや人間を苦境から助け出すのは当然であるとイエスは12節で述べています。
 イエスはそれから神の権威を持ってその人を癒しました。それはパリサイ人たちを相当怒らせたようです。出て行ってどのようにイエスを滅ぼそうか、すなわち殺そうかと相談したというのですから。彼等の怒りには幾つかの理由が有りました。一つは、自分たちこそ律法の権威であると思っていたのに、イエスとの論争に勝てなかったからです。もう一つは、イエスは彼等が予想したような方法では萎えた手を癒さなかったからではないかと思います。彼等はイエスが普段するように手を置いて癒すのではないかと予想していたと思われます。しかし。イエスは、権威あるお言葉だけで癒してしまわれたのです。しかも、「手を伸ばしなさい」という表現は、会堂管理者が礼拝を導く時に、神を賛美せよという意味で用いる表現だったのです。ですから、パリサイ人には文句のつけようが無かったのです。イエスを殺そうと企む彼等の性質は、彼等が悪魔の子であるというヨハネ8章44節の指摘にぴったり当てはまっています。

まとめ)
1)安息日の主は私たちの誠実な信仰を要求される
  弟子達はイエスとその教えに従っていました。彼等は律法の規定に従って行動してもいました。イエスは彼等を「罪のない者たち」と呼ばれました。彼等が素直に信仰によって行動していたからです。イエスは手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。その人は、反抗的な態度を取らず、ご命令に従って手を伸ばそうとして癒されました。私たちも同様に誠実で素直な信仰を持って応答して行く必要が有ります。しかし、パリサイ人達はそうすることができませんでした。

2)安息日の主は憐みの心をもって私達を守られる
  私達が神によって安息を見出すことを望んでおられます。神は憐み深い方です。神は私達の肉体的な必要を満たそうとしてくださる方です。律法を通して、弟子達が空腹な時に麦の穂を摘んで食べることを許されました。片手(別の福音書では右手)が萎えた人の手を癒して、生活の必要を満たしてくださいました。穴に落ちた羊を憐れむことを良しとされた主です。神の許しがなければ小鳥も落ちることはないというではありませんか。そして、そのような必要を神に訴えて良いことを示して、「我らの日用の糧を、今日も与え給え」と願うことを、主の祈りを通して教えてくださいました。
  安息日を守ることは、そういう神の憐みや配慮から出たものです。北アメリカの西部開拓時代の例話です。自分で開拓した土地は自分のものになるということで、人々は先を競って西部に移動しました。早い者勝ちだからということで、休まずに毎日西に向かう人達の中に、日曜日には休んで礼拝をする人達がいました。そのうち休まずに移動した人達は、家族や家畜が病気になったりして、移動が遅れ、日曜日に休んだ人達が先に目的地に着いたという話が例話集には載っています。

3)安息日の主は私達の魂を救われる
  民数記29章を読むと、安息日には通常の毎日の供え物、いけにえに更に追加して罪の贖いのためのいけにえがささげられることがわかります。私達は毎日罪の性質による行いや不信仰を悔い改めて歩まなければなりませんが、日曜日には特に、私達の贖いとなられて十字架にかかり、私達の罪を赦してくださったイエス・キリストに心を向けるのです。動物のいけにえは、後から来るイエスの贖いの予表であり影でした。イエスこそが、私達を罪と永遠の滅びから救い出してくださつ神の小羊なのです。私達は神の目には高価で尊いのです。神の御子がその代価となったのですから。ですから、私達クリスチャンはその恵みに感謝して、日曜日にイエスの犠牲の死と復活を記念して安息日の主としてイエスを礼拝するのです。
  弟子達はこの出来事の二週間程前に、過ぎ越しの祭りを祝ったと考えられています。それは、エジプトを出る直前に、鴨居に血を塗った家を死の天使が通り過ぎたという神の憐みと救いを記念した祭りです。その五週間程後には、ペンテコステが来るのでした。その日には、麦の初穂を神にささげて感謝するのでした。安息日の主であるイエスは。私達の初穂としてよみがえってくださった方でもあります。(1コリント15章20節参照)
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日曜礼拝 2020年8月2日

2020-08-04 22:16:44 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ 前半 後半

聖書箇所:1 テモテ3章1節~13節
説教題:長老と執事

導入)
 私たちの小会では間もなく長老、執事の信任投票が有ります。牧師、小会議長として、聖書が長老と執事について述べている箇所を確認したいと思います。

本論)
1節 先ず、1節の「監督の職につきたいと思うなら」に目を留めます。監督というのは、現在では牧師や長老の役目です。また、「思う」という部分は、「心を定める」というような訳を当てている聖書も有ります。単なる思い付きではないのです。当時はクリスチャンになることは容易なことではありませんでした。場合によっては親族や社会から切り離されてしまうことも有りました。仕事を失ったり、商売相手にしてもらえなかったりして、生活のために他所に移動しなければならない場合も有りました。そんな状況で長老になるというのは、更に苦労をしょい込むことになるのでした。長老になろうと思う人は、パウロのように苦しんだり泣いたりする覚悟ができているということだったのです。

2節から7節には、長老に求められる14の資質、性質が挙げられています。

2節 最初の五つは、良い人格や自制に関わるものです。長老になる人は、よく自制する人でなければならないのです。また、結婚に誠実な人でなければなりません。もし長老になる人が独身であるならば、女性に対して誠実で純潔な人でなければならないということになります。六つ目のよくもてなすというのは、同信のクリスチャンを守るという側面が有ります。「もてなす」と訳された語は「馴染みの無い人を愛する」というような語感が有ります。もてなさなければならない背景が有りました。当時の宿屋はあまり安全ではありませんでした。持ち物がよく盗まれたりしたようです。また、宿屋は売春婦が出入りしていて、クリスチャンにとって好ましい場所ではありませんでした。ですから、旅行しているクリスチャンや伝道者に宿を提供することは大事な奉仕でした。また、福音の知識が有るばかりではなく、それを教える能力が必要です。長老の業務には教えることが含まれているのです。

3節 この節に出てくるものが示しているのは、長老は偶像礼拝者であってはいけないということです。仏像やご神体を拝むという行動だけが偶像礼拝なのではありません。神以外のものを頼みとすることが偶像礼拝です。4つの条件が否定形で示されています。苦しみや悲しみを酒でまぎらわそうとすることは、神以外のものに頼る行為ですから偶像礼拝になります。暴力的で争い好きな傾向も、神以外の方法で自分の身を守り、自分の思いを守ろうとする偶像礼拝になります。また、神の恵みではなく、金銭、経済力で自分の思いを満足させ、守ろうとすることも偶像礼拝になります。長老になる人は、神への信仰抜きで物事の解決を求める姿勢を持っていてはいけないのです。

4節―7節 この部分には「でなければいけません」という感覚で、三つの実践的な要件が述べられています。家庭を治めるという表現ですが、「先に立つ」という語感が有ります。威厳というのは、「適切な敬意を払われる」という性質を表します。このような性質は、人間的に良い人というだけでなく、聖霊の働きとイエスの教えへの従順を通して霊的な実を結んでいる人という側面が大事です。(ガラテヤ5章22、23節参照)次に、信者になったばかりではいけないということです。信者になったばかりの人と訳された語は新芽を表す語が用いられています。若いうちに高い評価を得たために、態度が尊大になって結局成功しなかった人の話は私たちもよく見聞きするのではないでしょか。7節は、その人が良いキリストの証人でければならないことを示しています。教会外で評判が悪ければ、教会全体の印象も悪くなります。また、そういう非難が集まってくれば、本人も悩みや怒りから間違った行動をすることになるかもしれないからです。悪魔のわなというのはそういう部分であると考えられます。

8節―10節 ここからパウロは執事の資質に移ります。「執事もまた」という表現で始まっています。執事の役割は、長老の監督のもとに長老を補佐し、教会の人々を援助することです。ですから、彼らの資質も長老の資質とほぼ同じようなものにならざるえをえません。それで、「執事もまた謹厳でなければならない」ということになるのです。謹厳と訳された語は、威厳や敬意を得るような立ち振る舞いについての表現です。二枚舌を使わないというのは、誠実な人だということです。同じ事柄について、別々の人に別々の内容で説明するような人ではいけないということです。執事は大酒のみで不正な利をむさぼってはいけないというのは、3節に出てくる長老の資質と同じです。教えることは執事に特に求められてはいませんが、聖書の真理をよく理解していて、キリストへの純粋な信仰を持っていなければなりません。奥義という表現は言語ではムステリオンという語で、以前は隠されていたが、今は明らかにされた物事という意味が有ります。イエス・キリストによる救いという福音の真理は長らく人類に隠されていたのですが、三位一体の神の働きによって人類に明らかにされたのです。10節では審査を受けさせなさいと命じられています。それは、管理能力が有るかとか、実行力が有るかなどということではありませんで、執事の人格や霊性を確認する時間を取りなさいということです。非難される点が有ってはならない部分も、2節に有る長老の資質と同じです。

11節 パウロはここで婦人執事に目を向けます。「婦人執事も」という表現で、この人た
ちも長老と同じような資質を持っていなければならないことが示されています。「威厳があり」という部分から始まるように、彼女たちも人々の敬意を受けるような立ち振る舞いをする人物であることが要求されています。婦人執事独特の要素というのは、「悪口を言わず」という部分です。事実でないことを言って人を非難するようなことを指しています。注解書は、「昔の社会では男性たちは度々妻の言動をもとにしてばかにされることが有った。昔の社会においては、噂話というのは男性よりも女性がすることとして、より女性にに関連付けて考えられた」という説明をしています。続く自制してすべてのことに忠実であるという資質も、先に述べられた長老や執事のものと同様です。

12節でパウロは再び執事の資質に戻って述べています。それは、2節と4節に述べられた長老の資質と同じ、結婚に誠実な人で家庭を適切に収めている人ということです。13節では、執事の仕事をりっぱに果たす人は、他人にそれが判るようになるということです。また、執事本人は、そういう実践を通して神への信仰と確信が深まり、強くなるということを述べています

まとめ)
長老や執事になる人の資質を確認してきました。しかし、それはそういう役割を担う人々に任せっぱなしにしておけることではないのです。私たちもこの聖書箇所から理解し、学ばなければならないことが有ります。

1)クリスチャンはイエスの教えと霊的性質を反映させた生き方をする
  ガラテヤ書の5章22、23節を先に確認しました。それらは長老の性質にも表れてはいますが、全てのクリスチャンが目指さなければいけないことです。長老や執事に任せっきりにするのではなく、私たちもそういう霊的成長を目指していくのです。

2)クリスチャンは誰が長老・執事の役割を担う資質を持っているか理解する
  当時から偽教師や偽兄弟が教会に問題を持ち込んでいました。ですから、本当に神の教えに従っていて、長老や執事になる資質を持っている人が誰であるかを、教会の人々は知っていなければならず、そういう人物を選ぶ目をもっていなければなりませんでした。
  私がアメリカで2年お世話になった教会の牧師から聞いた話です。彼が教会開拓チームを立ち上げた時、ある人がやってきて、「私を長老にしてくれるならば、開拓をお手伝いしましょう。」と言ったそうです。もちろん、そういう人物が長老になってはいけないわけで、お断りしたということでした。

3)クリスチャンはこれらの資質を持つ者となることを目指す
  私たちが長老や執事に選ばれることがなかったとしても、1)の延長として、私たちも長老や執事になる人の持つ性質や資質を持つことを目指さなければなりません。それは、ペテロが迫害下にいるクリスチャン全員に2ペテロ1章5節~8節でした奨励の内容にも通じることです。
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